上田を散策すると
など沢山の所縁あるお寺に足を運ぶことが出来る。
もう一度地図を見よう。
それもほぼ直線上に並んでいる。
これは何も観光しやすくするための配置ではありません(笑)
これは戦国時代の町割りがそのまま残っているからだそうです。
かつて上田城の南は尼ヶ淵と呼ばれ(ちょうど上田駅の天神通りに碑があります)、天然の堀の役割をしていました。
つまり守りの手薄な東側に寺を配置し、いざと言う時は一つ一つが砦となるよう備えられています。
これは真田昌幸公の兄、真田信綱公が築く予定だった町割りを、信綱公が長篠の戦いで亡くなった後、家督を継いだ昌幸公が継承し、上田の城や町作りに活かしたモノだと聞いたことがあります。
真田家の脈々と受け継がれてきた乱世を乗り切る知恵は上田城が出来た後発揮される出来事もいくつか起こります。
そんな事を少しでも考えながら歩くと、史跡巡りの楽しさはさらに倍増すると思います(^-^)
そしてもう一つ。
当時は験を担ぐ事も町作りには大切でした。
上田城の堀の一角もとある方角の一部分だけ削られているのをご存じですか?
それは北東側にある堀の一部で
『隅欠(すみおとし)』
と呼ばれています。
これは鬼が出入りする鬼門があるとする方角が北東であり、その鬼門除けのためです。
方角に十二支を当てはめたとき丑と虎の方角。
つまり丑寅(北東)が鬼門です。
と言うことから鬼は牛の角があり、虎のパンツをはいて描かれる事が多いです。
ではまたまた地図を
これらも鬼門除けの役割を果たしています。
さらにこの先の北東には真田の郷にある
山家神社
もあるのですが、今回私が再びご挨拶に行ったのはこちら。
城や町を災いから守る鬼門除けとしての役割を持つお寺の一つです。
こちらにはとあるお方がいらっしゃいます。
それでは今週も決戦劇前の空き時間に上田をプラプラ散策した話を再開したいと思います。
お時間ありましたら暇潰しにお付き合いください(^_-)
次回に続く♪