維新の道の噺⑥ | 面白きコトも無き世を面白く…するのは自分の心意気
~脱藩の道~

江戸時代。
藩士は当然ながら藩内で働きます。他国(他藩)に勉強に行ったり、研修に行ったりすることもありましたが藩命により職務としてであったり、許可をもらったりしていました。
その場合は藩から関所を通るための手形を発行してもらい他藩へと移動をします。
しかし幕末。
徳川幕府を倒そうとする人間に藩から許可がおりるわけがありません。むしろそんな事を理由に他藩に行こうなんてしたらすぐ捕まります(笑)

そこで幕末の志ある者達は藩を捨てる
脱藩(だっぱん)
と言う行為をする者も多かったです。

脱藩は藩の許可を得ず勝手に国から出ていって浪人として他藩などで好きに生きる事です。
これは『仕えるべき君主を見限る行為』として厳しく罰せられます。
本人が見つかれば死罪、本人が捕まらなくてもその親族や親類にまで罰が下され最悪お家断絶となる事もありました。

幕末の志士達はその覚悟を持って国を抜け日本のために奔走するのです。

坂本龍馬も脱藩をし、今でもその道が脱藩の道として伝わっております。

その中間地点でもあり、数々の維新の志士を生んだ高知県西部の
梼原町(ゆすはら)
にはその志士達の像があったり、その時の龍馬らのやり取りを展示した資料館があります。

龍馬や幕末の土佐の志士達が歩いた国を脱する道は↓です。

高知(高知県)➡梼原(高知県)➡大洲(愛媛県)➡
伊予長浜(愛媛県)➡船により下関(山口県)へ

高知➡伊予長浜までは現在の道路状況でもおよそ138キロ
この行程を藩の追っ手などに捕まらないように、また関所をくぐり抜けて長州入りした道を脱藩の道と呼んでいます。
ちなみに、脱藩した坂本龍馬への土佐藩からの追っ手は京都までやって来ます。

中岡慎太郎館を出た我々は高知城下を見て回った後その足で梼原にも当然向かいました。
が、高知城下から梼原への道は車でも険しい山道が続きました。
あまりのカーブの多さに私が車酔いしてしまい一旦宇和島まで退却し、翌朝宇和島城➡大洲城を経由したあと改めて愛媛側から梼原に向かったくらいでした(^_^;)
高知側、愛媛側とはからずもどちらの脱藩の道もたどれたのは嬉しかったですが(笑)
まだ山あいの日陰には雪も残っていましたが、とても綺麗な場所で、幕末の沸騰期に世に飛び出し、懸命に働き、命を散らす幾人かの志士達を輩出した場所でもあります。身分は低くも高い志と命を懸ける覚悟を持った方々でした。

現在、高知では

志国高知 幕末維新博

が開催中であり、前回紹介した中岡慎太郎館など高知県全土の幕末に縁のある場所で

幕末維新博 会場巡りスタンプラリー
が開催されている。


と合わせたらいったい幾つスタンプを集められるか分かりませんが、とにかく今年と来年は幕末を知るにはもってこいな年です(*≧∀≦*)

今回のブログで梼原に興味を持った、また初めて知ったと言う方、こちらに情報を用意しました↓


夏休みの楽しみのコースに機会があれば是非ご検討ください♪

2011年の旅を交えながら幕末の道をたどる
『維新の道の噺』シリーズ
また長いシリーズとなりそうな予感がしてきましたが(笑)気長にお付き合い下さいませm(__)m

次回に続く(^-^ゞ