日米戦争は日本の無謀な戦いだったのか ⑤ | 子や孫世代の幸せを願って

子や孫世代の幸せを願って

次世代の幸せを願って、日本の社会、経済について考えます。

日米戦争は日本の無謀な戦いだったのか ⑤

 

このテーマの最後に3点付け加えておきたいことがあります。

 

ひとつは、「日本は『ドイツの不敗』を妄信し、ドイツの勝利頼みがすべてであった」との戦後の評価は間違っているということです。秋丸機関の研究を見れば、日本は独国を冷静に分析しており、勝利妄信どころかむしろ独国は大きなリスクを抱えていると判断していました。

 

「独国の国力は1941年を頂点に低下する。国力維持増強にはソ連の資源が必要。その意味で対ソ戦は2カ月ほどの短期間で勝利せねばならない。それが叶わぬ場合、対英米長期戦は不可能となり、独国は敗れることになる。」

 

独国も日本同様資源不足に弱点を持ち、優勢は短期に限られ、継戦能力が乏しく、その限界を具体的に見抜いていたのです。

 

独軍が英国侵攻がうまく進まないと見るやいきなりソ連に攻め込んだのもそうした事情が大きいと思われます。コーカサスの石油資源やウクライナの農業資源は、継戦のためにも、ヒトラーの「東方生存圏」構想のためにも必要とされたのです。

 

またひとつは、日本陸海軍の統帥権(軍令)が分離並立していることで「大本営」が機能していなかったという問題です。「腹案」が「大本営陸海軍部」や「大本営政府連絡会議」で正式決定されたにも関わらず、海軍(連合艦隊)などの勝手が通ってしまったのは、その問題ゆえなのです。

 

統帥権(軍令)とは作戦を立案し、軍を統率、指揮すること。それが陸軍と海軍別々に存在しました。本来統帥権は天皇の権限ですが、権威と権力を分けている国体において天皇は裁可を与えるだけで、実質的に陸軍であれば参謀本部:参謀総長、海軍は軍令部:総長が直接指揮を執っていました。

 

陸軍大臣海軍大臣はどういう存在かというと、軍に関わる行政(軍政)のトップであり、軍の予算確保や兵器の調達、兵の募集や給料支払いなどを行うに限られ、総理大臣、外務大臣も含め軍の作戦や指揮に口出しできないことになっていたのです(統帥権の独立)

 

それでは、「大本営」とはなにかというと天皇直属の統帥機関であり、陸海軍の一元的な作戦、指揮を目指したものでした。しかし実際には、陸海軍とも並立したままで最高権限者、いわゆる統合幕僚長のような者がおらず、連絡・報告会議レベルにしか機能していませんでした。ゆえに大本営の決定事項が徹底されず、都合よく解釈し、勝手を行えたのです。

政府との意思統一を目指し、総理大臣や陸軍大臣、海軍大臣などが出席する「大本営政府連絡会議」もやはり同様でした。

 

最後は、「帝国陸軍は、海軍と比べて粗野で無謀」という印象で語られますが、ここで述べてきた通り、それは全く違っていたということです。

 

むしろ、「攻勢限界点」(兵站限界)を無視したそれこそ無謀な「太平洋正面決戦構想」を振りかざし、起死回生の「腹案」を悉く壊し、日本を敗戦に導いた主犯といっても過言ではない山本五十六長官

南方での石油確保後、肝心な日本本土までのシーレーン防衛を疎かにし、インド洋でも戦略上必須の海上輸送破壊に消極的であった海軍

 

かたや常に主敵をソ連に置き、満州防衛こそ肝要中華の戦いは不要と常に対中講和を模索していた陸軍。対米戦争が避けがたくなるや「陸軍省戦争経済研究班」を設置し、極めて科学的な分析と窮地においてもあきらめず、冷静な戦略を立案をするなど、これまで述べてきた通り、戦後の陸海軍に対する印象とは真逆です。

 

もちろん、細かく見ていけば陸軍もいろいろあるのですが、ガダルカナル、ニューギニア等の南洋域で大量の餓死者、病死者を出してしまったのは、攻勢限界点を無視した海軍に振り回された結果だと言えます。

 

山本五十六長官の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」はまさに「金言」。わたしも勉強させていただきました。それだけに先の大戦での在り様は、非常に残念な思いでいっぱいです。