日米戦争は日本の無謀な戦いだったのか ④ | 子や孫世代の幸せを願って

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日米戦争は日本の無謀な戦いだったのか ④

 

 

1941年11月15日、日本は、「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」(以下「腹案」)を正式な国家戦争戦略として大本営政府連絡会議にて決定しました。そこには、「太平洋」を戦場とする絵はありませんでした。戦略目的達成までの時間が限られている事から余計なことは一切できないはずでした。にもかかわらず、1941年12月8日に真珠湾攻撃が実行されました。これはなぜなんでしょうか。

 

すべては山本五十六連合艦隊司令長官の我儘です。山本長官は、「開戦一番、敵主力艦隊を壊滅させ機動力を奪い、米国の士気を喪失させることが肝要。」と主張。この山本プランは、できるだけ米国を刺激せず、南方資源を確保し、経済封鎖を打開することを第一の目的とする主戦略「腹案」から外れたものであり、また一つ間違うと連合艦隊壊滅の危険性もあって、海軍軍令部からも大反対されていたものでした。しかし長官は、もし真珠湾攻撃計画が受け入れられないなら職を辞すとの強硬姿勢に終始し、永野修身軍令部総長はその剣幕に押されてこれを認めてしまうのです。

 

実際の真珠湾攻撃では、敵主力艦隊の壊滅と言いながら、古い戦艦をいくつか破壊しただけで、石油タンクも工廠施設も破壊せず、空母も攻撃し損ねました。また沈めたはずの戦艦も廃艦は2隻にとどまり、残りは引き上げられ修理、戦線復帰しています。こうした中途半端な攻撃により真珠湾はすぐに機能を再開しました。ニミッツ提督は、「石油タンクが破壊されておれば、米国は半年以上動けなかった。」と回顧録に記しています。

 

しかし問題はそこではありません。本当の問題は、本来の戦略を大きく損なう恐れのあったこの真珠湾攻撃が、まんま山本長官の思惑とは真逆に、米国民を奮い立たせ、参戦どころか、一気に国力、戦力最大化に向かわせてしまい、主戦略たる「腹案」の「初期優勢」の大事な時間を大幅に削ってしまったことにあります。

 

そもそもフィリピン攻撃とハワイ攻撃では全く意味が違います。フィリピンは植民地であり、しかも重要資源も無く独立を容認をしているところです。しかしハワイは、諸島とはいえ米国本土です。そこへの攻撃となると米国民の受け止め方が大きく異なることなど容易に想像できそうなものです。

 

そしてこれは、以前申し上げた通り、ルーズベルト大統領の思惑通りの展開でした。日本の主戦略とは異なるものを無理やり実行させ、まんまと敵の策謀に嵌りにいくなど、山本長官がスパイだったのではないかとの疑念が生じても仕方のないものでした。

 

しかしながら開戦4か月、想定を超える迅速さで第一段階の目標を達成した日本軍。英国の要衝シンガポールを陥落させ南方から英軍を駆逐し、蘭領東インドを抑えて石油資源を確保しました。それも日本の必要石油量の1.5倍を得る大勝利です。

 

続く第二段階へ踏み出そうとしたその時、またもや山本長官の意向で今度は日本の戦略そのものを歪めます。1947年3月7日大本営政府連絡会議において第二段階にかかる「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定され、そこに山本長官の「太平洋連続決戦構想(攻勢戦略)」が反映されてしまうのです。「機を見て積極的の方策を構ず。」という文言の挿入です。

 

「腹案」の考え方は、第一段階後は、長期戦に備え、「持久態勢」を固める(守勢戦略)一方、連合艦隊によるインド洋制圧に集中し、英国や支那の屈服を図り、米英と講和、戦争終結というものでした。それも国力優勢のあるわずかな時間でのミッションです。とても前方決戦などしている余裕はありません。米軍が襲来するなら、広大な太平洋を味方に漸減邀撃で有利に迎え撃つ算段です。こうした戦略にヒビが入れられたのです。

 

それでも一応日本海軍は、腹案に則りインド洋制圧に乗り出します。インド洋を西進し、残存英軍を駆逐し始めました。英首相チャーチルは、英国の生命線たるインド洋をなんとしても日本から守ろうと必死でした。そこで米国に泣きつきます。「日本軍を東に転進させてほしい。」と。

 

そこで行われたのが日本の意表を突く「日本本土空襲」(ドゥ―リトル空襲)です。日本近海の制海権がまったく無い状況で行われたまさにアクロバット的な空襲だったのですが、これが成功してしまいます。面子を潰された山本長官は、本土防衛を理由に、これまた大反対を押し切って「ミッドウェー島占領作戦」を発動、まんまと「東に転進」させられたのです。ご存じの通りそのミッドウェー作戦(1942年6月4日~7日)は失敗。連合艦隊は壊滅的な打撃を受けてしまいました。

 

その後、独軍が英軍が護るリビアのトブルク要塞を抜き、エジプトに突入します(1942年6月23日)。これは「腹案」回帰のチャンスでした。この機会を活かすべく海軍軍令部は連合艦隊を再編し、「インド洋制圧作戦」を決定、永野軍令部総長は上奏(7月11日)します。

しかしここでまた山本長官です。ミッドウェー、ハワイ占領作戦と並行してこれまた「腹案」の意図を超えた無茶なレベルの「米豪分断」を目指し、インドネシアのはるか東方のラバウル、さらに東遠方のガダルカナルにまで日本軍を進出させました

 

そのガダルカナルから米軍の反攻が始まり(8月7日)泥沼化します。東方進出は、いわゆる「攻勢限界点」(兵站限界)を大きくはみ出し極めて不利であった上に、「腹案」上無意味なガダルカナルを守るために果ての無い消耗戦に陥り、インド洋制圧作戦は中止

そのせいでエジプト英軍増強へのインド洋経由の米国の強力な支援を許し、独軍の足が止まり、遂には壊滅してします。これで「腹案」は完全に破綻してしまいました。

 

日本の唯一の生き残り戦略であった「腹案」を山本五十六長官が我を持って潰し、それを周囲が止めることができなかった。なんともはやということです。しかし、今回のシリーズで申し上げてきたように日本はもともとは、決して無計画で無謀な戦いを仕掛けたのではないことだけは確かなのです。今回紹介している茂木弘道氏の著書には、歴史事実に沿ったシミュレーションが紹介されています。「腹案」通りにしていればと改めてため息を吐くことにはなりますが、是非一度ご覧になっていただきたいものです。

 

 

次回に続きます。