日米戦争は日本の無謀な戦いだったのか ③ | 子や孫世代の幸せを願って

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日米戦争は日本の無謀な戦いだったのか ③

 

 

戦前の米国は、「戦後レジームに至る真相」でも述べてきた通り、英国、ソ連、支那の危機を救うべく、また西進征服の野望を果たすために参戦の機会を伺っていました。しかし、米国民の厭戦気分が高く、ルーズベルト大統領自身、戦争不参加を公約しているだけに、そうしたことはおいそれとはできませんでした。

 

また米国は、フィリピンを占領支配していましたが、1934年にその独立(1946年予定)を認めており、また米国本土から遠く離れていることもあり、ここに日本が侵攻しても無風とはいかないまでも、米国民の参戦ムードが燃え上がり、全力でこれを取り戻しに来るとは考えにくいものでした。

 

日本は、こうした情勢を踏まえつつ、1941年4月に大本営陸海軍部で取り決めた方針「国力格差上、対英米戦争はできないが、経済制裁を受けた場合は、自存自衛の為に止む無し。」に則り、8月に経済封鎖を受けたことから秋丸機関の戦争戦略案をもとに「対米英蘭戦争指導要綱」を策定し、大本営陸海軍部で正式決定しました(1941年9月29日)。

さらにこれをもとに「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」として再編し、大本営政府連絡会議において大日本帝国の戦争戦略として正式決定したのです(1941年11月15日)。

 

その内容は二段構えになっており、まず第一段階として、速やかに東アジアの米英勢力を駆逐し、南方資源を確保する。これをして、自給自足可能な広域経済圏、即ち大東亜共栄圏構築を目指し、対米長期戦に耐えうる態勢作りに着手するとしました。

 

南方侵攻では米国が支配するフィリピンにも向かうことになりますが、孤立主義、反参戦に傾倒する米国の国内情勢やフィリピン独立容認の方針から、果たしてこれをもって米国が戦争に踏み切るかどうかは微妙でありました。

 

しかし、もし米太平洋艦隊がフィリピンに向かってきても、「戦力は戦地までの距離の二乗に反比例する」ことから、現地で待ち構えて戦う限り日本軍優位となります。

このことはかねがね日本海軍が米国を仮想敵とした時から練って来たプランであり、マニラを取り、フィリピン沖で待ち構える。日本海軍伝統の「守勢作戦」です。

また英国窮地の情勢下では、米軍は戦力を大西洋に重点配置せざるをえず、その意味で太平洋戦力はそもそも日本軍優位にありました。

 

第二段階として、枢軸協力により、インド洋を制圧し、英領の本国との遮断、支那支援路遮断、また大西洋の米援英を妨害し、英国封鎖を図る英植民地を抑えるほか、ビルマやインドの独立を喚起し、また独伊国の北アフリカ、中東への侵出などにより英支配地を切り崩す

これらによりまず英国を屈服させ、それにより米国の継戦意思を挫く。そこで英米と講和し、戦争を終結させる

 

ただし、これら2段階は、敵に優勢を保てる戦争初期段階、すなわち開戦より1年半、遅くとも2年のうちに達成しなければなりません極めて厳しい時間制約のある戦略でした。

 

秋丸機関が提案し、日本の正式戦争戦略となった「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」はこのようなものでした。最初から日本の生き残りが目的で、引き分けでよいから負けないことを前提に組み立てられています。概略を記せばこういうことですが、実際には膨大な調査、分析により戦略の合理性が裏付けられています。そのあたりは先に紹介した書籍でご確認いただければと思います。

 

これを読まれた皆様は不思議に思われたと思いますが、この戦争戦略には「太平洋での米国正面対決」は一切ありません。それなのに実際は「真珠湾攻撃」「ミッドウェー海戦」「ガダルカナル」です。これはいったいどういうことでしょうか。

 

 

 

次回に続きます。