さて、「経済学」についてですが、既にお話ししましたように、この学問は、大学に留まる限り問題の無いものですが、それを現実の政策として用いるには問題があるのです。
どういうことでしょうか。
「経済学」に対して抱く一般的な印象は、その研究の成果をもって政策に応用し、景気を支え、経済を良くしていくもの…そんな感じではないでしょうか。
それが経済政策として使えない、使うと有害とは…。
ここでひとつお断りしますが、実は「経済学」でも問題のあるのは、いわゆる「主流派」と呼ばれている経済学です。
経済学の全てが、経済政策として使えないというわけではありあせん。
しかしどういうわけか、「使ってはいけない経済学」が「主流」となり、「使える経済学」が「非主流」となっている不思議があるのです。
その理由は、また後で申し上げます。まずここでは、なぜ「使ってはいけないのか」の理由を申し上げることに致します。
理論には前提が付き物ですが、主流派経済学が置く前提がとにかくぶっ飛んでいるのです。
- 人は誰でも、物欲を満たすことを一番とし、自分本位で自分が最も得になるように行動する。(これと同じ「価値観」をもった人ばかりの世の中)
- 人は誰でも、いつもすべての情報を持ち、理解し、また新情報も瞬時に共有できる。
- 供給されたモノやサービスはすべて売れる。(「供給は自ら需要を生み出す」:セイの法則:フランスの経済学者ジャン=バティスト・セイが19世紀初頭に提唱)
- おカネはモノである。
- 政府は民間経済に介入しない。(自由放任主義)
- 税収の範囲内で政策経費を賄わなければならない。(生涯所得以上の消費はできない)
なんだこれは…と思いませんか。
3.からすれば、不況も失業もないことになります。
そうなんです。実は「主流派経済学」には、そもそも「不況」はありません。
したがって「失業」もないのです。だから「不況対策」など最初から用意していないのです。
また 3. 4.から、ここで想定している世界は、「物々交換社会」であり、それは貸し借りをする「金融取引」のない世界とも言えるのです。したがって「主流派経済学」には、「銀行」が存在しません。
「こんなものに基づいてまともな経済政策なんて作れないじゃないか。」
その通りです。主流派経済学は、「現実離れした世界」を前提に構築されているのです。
彼らの考えは、この前提において「市場メカニズム(※)が働き、常に需要と供給が均衡し、資源の最適配分が実現される(市場原理)」のであり、それが実現するのが「完全競争市場」という仮想の世界であるということです。
学問としては、どのような考察も、それを重ねることは意義のあることですし、この考察の世界で留まっている限りなんの問題もありません。
しかし、ありえない前提の理論に基づく政策提案が為されると、話がややこしくなってくるのです。現実離れした考えのもとに実世界を動かそうとすれば、大抵は有害なものとならざるを得ないからです。
学問発展のためには、一切の制約無く研究して良いとしても、モノによっては研究室の中限りとすべきものもあるのです。主流派の経済学はまさにその類なのです。
だから「使ってはいけない」のです。
しかし、政府から問われた経済学者は、自らの理論が現実社会に通じないことを知りながらも、おカネの為か、地位や名声の為か、平然と「政策」として答え、また政府の政策を「評価」「指導」しているのです。
だから間違うのであり、有害となるのです。
※市場メカニズム … 人それぞれが、利己的に自由に取引を行う(完全競争)と、人が欲しいものは価格が上がり、人が欲しないものは価格が下がる。それに応じて生産量が調整される。こうして適正価格と適正取引数量が市場を通じて自然に決まる仕組みを市場メカニズムと言います。いわゆる「(神の)見えざる手」(アダム・スミス:18世紀英国経済学者:経済学の父と呼ばれる)のことです。
そしてこの市場メカニズムにより、経済における資源(生産要素)の最適配分が実現することを「市場原理」と言うのです。
またこれは、政府の干渉を排した人々の完全競争は,資源配分を最適化し、人々の利潤を最大化し,国の富をも最大化するということでもあるのです。
これらが実現する市場を「完全競争市場」と呼びますが、逆に言えば完全競争市場でないと市場メカニズムは十全に機能しないとも言えるのです。