『芸備線で行こう』書いてみたら長かった | うちらは いっつも ねきにおるけん

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男に生まれていたら付けられた名前で活動する姉妹ユニット 秀樹と吾一のページ 2024.3.11

でーんポーン

 

4/10の朝、ボンボン隊メンバーからのLINEで起きました。

3/31の桜まつりでのステージが、中国新聞に!!

桜まつり

 

実家から井原市(いばらいち)駅までは約6kmあって、バス利用。

町内でも不便な地区と言われてたにも関わらず、バスと芸備線があったらどがにでもなる。と思うてたので、特に不便さは感じてなかったんですよ。

中学はスクールバス、高校もバス通じゃったけど、芸備線に乗らん週はなかったはず。

 

専門学校はガッツリ芸備線通学。

乗車後すぐ寝てしまい、広島駅で『車庫に入りますよ~』と起こしてもろたこと数知れず…(ほぼ一時間寝とった)

運悪く寝たまま折り返して、戸坂(へさか)で目が覚めたことも数回ありましたわ真顔チコク

 

この頃の芸備線利用率はすごかった気がする。

定期最強!!ラブと、初めての芸備線の定期をフル活用しとりました。

帰りは本を読んだり、バッタリ出くわした友人と語ったり。

まあ、ほぼ寝てた気がするけど。

窓ガラスに自分が映るようになって、季節が変わって来たな…と感じるのが好きだったりしました。

(でも帰りも寝過ごして向原まで行ってもうた事が数回爆  笑)

 

 

何度も言うけど、バスと芸備線があればどがにでもなる。と思うてた私は、高校卒業しても、専門卒業しても、車の免許を取りませんでした。

何なら一生要らん。ぐらい思うてました。

 

が、22歳の時に。ついに。半年かけて免許取りました。(毎日行かんかったので、一か月ぶりに行った時はすべて忘れとったよ…滝汗)

 

それは最愛の祖母からのお願いだったので。

断れんかったです。

 

ずっとバスと芸備線で連れ立って通院しよったけど、さすがに高齢の祖母にはキツかったよね…

私としては、手を繋いで歩く時間がとても大事でしたが。

段差・乗り換え・距離。うん。祖母にはキツかった悲しいゴメン

 

私が免許を取ると、行きたい場所を色々リクエストしてくれて、本当にあちこち一緒に行きました。

うん。免許取って良かった。と、あの時は思いましたよ。

 

便利じゃし、必要に応じとる。車。

でも、車じゃなくてもええ時まで乗ってしまうようになるんよね。

実際私もそう。

 

 

『芸備線で行こう』を作るキッカケになったのは、芸備線写真展。

知っとる駅や馴染みのある車両、懐かしい景色が並んだ素晴らしい作品を前に『思い出多きあの沿線は、もしかするとないなってしまうかもしれんのよね…』と、何ともいえん気持ちになりました。

ないなってから『乗っとけば良かった』と思うのは辛いし、できればずっとあってほしい。と勝手な思いだけはある。

 

年に数回という私の芸備線利用はささやか過ぎて、大きい声で『芸備線に乗ろうや!!』とは言い難い。

けど、私が思い出して懐かしむよように、誰かの中にも芸備線の思い出があるはず。

存続の手助けには程遠くとも、写真展が私のキッカケになったように。

私の歌も誰かのキッカケになればいいなと思うのでした。

 

 

 

ホンマに微力じゃし自己満足に過ぎんとも思うが、何もせんより何かしとこう。

明日はどうなっとるか分からんし。

が、今年の秀樹と吾一です。

 

ああ、なごう書いた。

ここまで読まれた方、完読ありがとうございました。

乱文失礼うさぎクッキー

 

あっ、5/5(日)のフラワーフェスティバルでは18時からパフォーマンス広場(国際会議場横)で歌いますよ。

一緒に『芸備線で行こう』歌いましょう!!(助けてください!!)