ACT6 スタッフ会議

「よし、異常なし。さすがにいい体をしとるのぅ。」
 ハヤトのホスピタルで猛のカルテを見ながら、医者の佐渡酒造(さどさけぞう)は、髪をわずかに残して見事に禿げ上がった頭を、満足げにつるりと撫でた。
 医長としてハヤトに乗り組むことになっている佐渡は、医者のくせに酒が好きで、ところ構わずゲタで歩き回り、荒っぽい治療をするので有名だったが、腕は確かだという評判である。
「先生。本当におかしいところはなかったですか。」
 異星人の少女テティスの幻を見るなんて、と少し心配になって、猛は聞いた。
「何じゃと。お前、ハヤトの医長、佐渡大先生の診断に文句を付ける気か、うん?」
 そう言うと、佐渡は椅子を回して、配付されたばかりのハヤトの艦内服を着込んでいる猛を振り向いた。
「人間の健康状態は、骨格を見りゃあ大体わかる。その点、お前さんの骨格は完璧じゃ。これほどのものはそうはない。平和な時代なら、まず長生き間違いなし! 今じゃとて、このわしが付いているからには、心配はいらんぞ。但し、死んではならん。幾らわしでも死人を生き返らせることはできんからな。生きてさえいれば、どんな怪我でもたちどころに治してやるわい。」
 佐渡の大言壮語に、猛は声を立てて笑い、
「ありがとうございます。だけど、なるべくお世話にはならないように心掛けますよ。治療で死ぬ思いをするのはゴメンですからね。」
と、彼にしては珍しく軽口を叩いた。
「このバカ! 生意気言っとらんでさっさと行け! まだ会議があるんだろうが。」
 佐渡に叩き出され、通路を歩きながら、猛は苦笑した。
(全く豪快な人だよな。)
 猛は、佐渡が好きだった。佐渡の側にいると、軽口の一つも叩きたくなるくらい、気持ちが明るくなる。
 佐渡は、いつも瓢々として、何を考えているかわからないようなところがあったが、物を言う時は、歯に衣着せずにズバズバ言った。が、そこには微塵も悪意はなく、ズバリと真実を突く言葉にぬくみがあった。そんな佐渡の人柄に何となくホッとさせられるものを感じるからだろう、佐渡の周囲は、いつも若い者が集まって賑やかだった。
(それにしても……。)
と、猛は、一週間ほど前のプラネタリウムでの出来事を思い出していた。
 あれは幻だったのだろうか。死んだはずの異星人の少女テティスが、プラネタリウムで歌を歌っているなんて。
 まさか幽霊ではあるまい。ほの白く光り輝いていたシルエット、澄んだ瞳、花のような微笑み。何より、どこまでも透明な、この世のものとも思えぬ美しい歌声を、猛は今でもはっきり思い出すことができる。あれ以来、その幻想的なメロディが耳に付いて離れないほどだった。
 確かに、あのテティスという少女は美しかった。しかし、だからと言って、その幻を見るとは、いささか情けない話である。
(……三年間、女っ気なしの生活だったからな。)
 猛は、自分が惚れっぽい性格だとは思いたくない。
 いよいよハヤトの出航は明日に迫っていた。今日中に、予定のミーティングを全て終えなければならない。まず戦闘隊とのミーティング、その後、サイエンスルームで科学技術長から武器の説明を受けることになっている。
 通路を足早に歩いて行く猛は、昨日までの訓練学校の制服ではなく、ハヤトの艦内服に身を包んでいた。
 白地に戦闘隊のチームカラーである赤のラインの入ったその服は、グレー一色の訓練学校時代の制服よりも数段大人っぽく、かつ着心地が良い。伸縮自在で、外気の条件に関わりなく衣服内の温度と湿度を一定に保ち、ヘルメットと長手袋、それにブーツを足せば、そのままで簡易宇宙服にもなるというその新しい服を、猛は大いに気に入っていた。胸に輝く矢印を型取った一本線は、誇り高きキャプテンの印である。
「猛! 待ってたぜ!」
「久しぶりだな、戦闘隊長!」
 猛が、コスモゼロ格納庫に足を踏み入れると、途端にあちらこちらからそんな声が飛んで来た。今、猛が一番大切に思っているものの一つ、戦闘隊の仲間たちである。
「皆、元気そうだな!」
 ワッと駆け寄って来る陽気な仲間たちに揉みくちゃにされながら、猛も怒鳴り返した。何と言っても、三年間の厳しい訓練を共に耐え抜いた仲間たちが一緒であることは、猛にとって嬉しく、心強いことであった。
 ギリギリまで各地で訓練を繰り返していた彼らは、昨夕ハヤトに乗り組んで来たばかりだったが、彼らの愛機は、既に積み込まれてきっちりと区画に収まっている。猛は、その中に、翼の先がわずかに紫に塗装された自分の愛機バイオレット・シリウスがあるのを認めて、満足そうに頷いた。
 戦闘隊は、五十一名の隊員から成る。ハヤト一の大所帯だ。全員が同じ訓練学校で学んだ同期生だから、気心も知れて、チームワークという点では何の問題もない。この五十一名を、空戦用コスモゼロ部隊『アストロ・レオ』三隊と特別砲撃隊とに分ける。
 隊長は、本城猛。その抜群の技量と統率力とで、仲間たちの絶大な信頼を受けている。時にアストロ・レオの総キャプテンとして出撃し、また、時に艦橋から戦闘全体の指揮を執ることになる。
 副隊長は、加藤涼(かとうりょう)。アストロ・レオ1のキャプテンで、猛が艦橋に詰めて指揮を執る時は、アストロ・レオの総キャプテン代理も引き受ける。訓練生時代から猛とはツーカーで、腕も猛に次ぐ、この熱血野性の王国バンカラ少年は、申し分のない猛の補佐役であった。
 アストロ・レオ2キャプテン、大和晋(やまとすすむ)。
 アストロ・レオ3キャプテン、海神航(かいじんわたる)。
 特別砲撃隊チーフとして砲撃を指揮するのは、南部祐矢(なんぶゆうや)。
 皆、新米で、実戦経験がないことに一抹の不安はあったが、それぞれに信頼のおける者ばかりである。信頼の絆がなければ、宇宙では戦えない。
「地球の命運は、俺たち一人一人の肩に懸かっていると言っても過言ではないんだ。とにかく今はやるしかない。頑張ろう!」
 各自の役割とフォーメーションの確認、諸箇所点検の入念な打合せを終えて、猛は言った。何しろこれまで地球防衛軍は連戦連敗、少なくとも太陽系を抜けるまでは、戦闘隊がデイモスを相手にどれほどの働きができるか、という点が、最大の鍵なのである。
「おうっ!」
「やるぞ!」
 仲間たちの歓声が、弾けるようにそれに応えた。
 ハイネックの黒のアンダーシャツとチャコールグレーに赤のラインの戦闘服に身を包む彼らは、艦橋勤務が主である猛とは異なり、何かあれば真先にハヤトから出撃して行かなければならない。時が経てば、この内の何人かは確実にいなくなっているだろう。果たして、何人が生きて帰って来られるのか。いや、一人も帰って来られないかもしれない。
 だが、今、感傷に浸る気は、猛にはなかった。それは、とにかく往復四百四十四万光年の旅を無事に終え、帰還した後の話だからである。
 なぜ我々がこんな目に遇わなければならないのだ、と嘆き悲しんでみても、今は虚しいだけだった。異種の生命の間の、とりわけ力のない側の倫理は、通用させようがない。やり場のないその怒りを秘めて戦う他に、道はないのである。
 敵を倒し、帰還し、地球を救うことができたその時にこそ、死んで行った人々の無念を思い、尽きぬ涙を流せばいい。それまでは、己の力を振り絞って戦うしかない。それが現実なのだ。だから猛は、
「死ぬなよ。」
などとは決して言わなかった。仲間たちもまた同様である。
 戦闘隊とのミーティングを済ませると、猛は、科学技術長の待つサイエンスルームへと足を向けた。次は、格段にパワーアップされた武器について、説明を受けるのである。
 全長だけでも従来の艦の三倍はあるハヤトの中は、迂闊に歩くと迷子になりそうなほど広く、最後の仕上げに忙しいエンジニアたちが、相変わらず目を吊り上げて行き来していた。
「あっ。」
 サイエンスルームの入口で、猛は、部屋から出て来た女性とぶつかった。
「すみません、急いでいたものですから……。」
 床に散らばった書類を一緒にかき集めて、猛は立ち上がった。同じく立ち上がった相手は、ハイヒールを履いているせいもあろうが、猛と視線の高さがあまり変わらない。女性としては、相当な背の高さである。
「いいのよ、私もうっかりしていたの。」
 鷹揚に言って、その女性は、艶やかなやや赤っぽい短髪をかき上げた。
 猛よりはかなり年上らしい。化粧映えのする彫りの深い顔に、白いイヤリングがよく映る。女らしい、場違いと言えば場違いのタイトスカート姿が目を引いた。女性隊員服の胸に一本線があるところを見ると、彼女もハヤトのメインスタッフの一員のようだ。
「あら……。」
 その視線が正面から猛を捉えた時、形の良い紅い唇から小さな声が漏れた。ごく微かにパープルのアイシャドウを刷いたくっきりと大きな目が驚きに見開かれ、それから、瞳の表面を、懐かしさと何か他の感情とが入り交じった不思議な色合いが走った。
「……何か?」
 その眼差しに真夏の太陽を連想しながら、猛は問い返したが、相手は意味ありげに微笑んだだけで、何も言わずに去って行ってしまった。背筋のすっと伸びた、張りのある後ろ姿が美しい。プラネタリウムで見た少女のものとは違う、大人の女性のあでやかな微笑みにドギマギしながら、猛はそれを見送った。
 それが、ハヤトの航海班航海計画部門チーフ、明日香麗(あすかれい)で、隼人の同期生でもあると猛が知るのは、もう少し後のことである。そして、夏の太陽を思わせる印象的な瞳をよぎって行った微妙な翳りの意味を知るのは、さらにずっと後のことになる。
 中に入ると、エンジニアの出入りが多いサイエンスルームは、他以上の人でごった返していた。
「こちらです、戦闘隊長。」
 白地に鮮やかなスカイブルーのラインの科学技術班の制服を着た若者に名を告げると、彼は、心得て先に立って猛を案内してくれた。戦闘隊長と改めて呼ばれたことをやや面映ゆく思いながら、猛がついてゆくと、部屋の一角を占める会議スペースから長身の男が現れた。
「やぁ、猛。来たな。」
 それが、科学技術長神宮寺独(じんぐうじひとり)であった。
「ミスター?!」
 猛は、パッと顔を輝かせて歩み寄り、右手を差し出した。
 ミスターサイエンスと異名を取る彼は、有能な科学者である。猛の兄、隼人とは同期生で、しかも親友同士だったので、二人はよく見知った仲だったのだ。
 炎のような明るさと行動力を持つ隼人と、水のような静けさと落ち着きを持つ独とは、タイプとしては正反対だったが、妙にウマが合ったらしい。兄弟のない独は、訓練学校に入るまでの猛を実の弟のように可愛がった。猛も独のことが大好きで、兄が二人いるような気がして嬉しかったものである。
 科学者たちの人手がギリギリまでハヤトの改造と仕上げに取られていたために、科学技術班の班員の人選は大幅に遅れ、猛がハヤトに乗り組んだ時点では、科学技術長の欄は空白だった。それが独に決まっていたことを、猛は今初めて知ったのである。
「無事だったんですね。良かった! しかも、一緒にハヤトに乗り組めるなんて、こんなに嬉しいことはありません。」
 握手した手の大きさと暖かさに兄を感じながら、猛は言った。
 たった一人の肉親である兄を失った猛にとって、幼い頃から兄同様に親しんで来た独が科学技術長としてハヤトに乗り組むことは、百人力を得る思いだった。ハヤトの乗組員のほとんどが新米の宇宙戦士であるだけに、独のような地球防衛軍の生き残りは貴重な存在である。
「お前とも長いこと会ってなかったが……。また背が伸びたな。」
 独はそう言って深い瞳で笑い、猛の肩を叩いた。
 それは、久し振りに会う時の兄の言葉と仕種そのもので、嫌でも猛に隼人のことを思い出させた。だが、いつものように怒りや悲しみは湧いて来ず、甘い懐かしさだけが猛の胸にゆっくりと広がった。
 湖の水面のような静かな独の瞳は、炎の燃え盛るような激しい兄の瞳とは違う。それでも、兄の代わりに独が側にいてくれることがしみじみと嬉しく、猛は素直にその喜びを噛み締めた。
「さて、あまり時間がない。早速始めようか。」
 聞くところによると、今度のハヤトの武器関係の改造は、ほぼ全て彼のアイディアで行われたという。
「舞。頼んでおいた資料を持って来てくれないか。」
「はい。」
 涼やかな声がした。
 分厚い資料を手に自分の前に現れた少女を見て、猛はハッとした。
 長い黒髪と、きっちり着込んだ黒に黄色のラインのミニワンピースの女子隊員の制服。胸にはやはり黄色の一本線がある。
 独が舞と呼んだその少女は、プラネタリウムで会った、テティスに瓜二つのあの少女なのであった。
「お前たちは同期生だからよく知っているだろうが、改めて紹介しておこう。通信班の班長で、レーダーと解析を担当する、片桐舞(かたぎりまい)。今はここの情報ルームを手伝ってくれている。こっちは戦闘隊長の本城猛だ。」
 独がそう二人を紹介すると、少女は、
「宜しくお願いします。舞と呼んでください。」
と、やや茶色がかった長い髪を揺らして軽く頭を下げ、ニコリと微笑んだ。
 その微笑みは、紛れもなく猛がプラネタリウムで見たものだったが、今こうして明るい場所で見てみると、プラネタリウムで見た時ほどテティスに似ているようには思えなかった。髪の色が全く違うのだから当然と言えば当然だが、後で剛也に尋ねてみた時も、
「そう言えば少し似てるかな。」
という気のない返事が返って来た程度である。
 二人の前に資料を置いて、
「失礼します。」
と舞は踵を返し、猛は、去って行く華奢な後ろ姿をしばらく見送っていた。背は低い方ではないが、その華奢さが背の高さを感じさせない。
 よっぽど間の抜けた顔をしていたのだろう、
「何だ、猛。同期のくせに舞を知らなかったのか?」
と、呆れたように独が尋ねた。
「はい。戦闘コースにいると、他のコースの者とは滅多に会う機会がないんです。でも、正確に言うと一度会ったことはあります。プラネタリウムで歌を歌っていました。『銀河のきらめき』を……。」
 さすがにその後消えました、とは言えない。
「ほう。初対面で舞の歌が聞けるとは、運のいい奴だ。いい声だったろう?」
「はい。同期なんですか?」
「やれやれ、本当に知らないとは、相変わらず戦闘隊は女っ気なしのようだな。舞は、通信・情報科学コースのトップをもう一人と分け合ったほどの才媛だ。レーダーを扱わせたら右に出る者はいないし、解析プログラムも自分で作る。おまけに看護師と、C級だが宇宙パイロットのライセンスまで持っている。いざとなれば、コスモゼロにだって乗るぞ。」
 そう言えば、宇宙パイロットのライセンスを取った娘がいる、という話は、猛も聞いたことがあった。
「気になるか? 舞はいいぞ。あんな娘はちょっといない。美人で有能。気が強い。」
 独がちょっと意地悪く猛に質問する。心を見透かされたような気がして、猛は慌てて弁解した。
「ち、違いますよ。そんなんじゃありません。早く打ち合わせを始めましょう。」
 そうは言ったが、テティスに似た少女と一緒にハヤトに乗り組めるということで、猛の心が温められたのは確かである。
 そんな猛の心の動きを察して、独は心中で微笑んだ。
 これほどストレートに読める人間も珍しい。三つ子の魂百までと言うが、猛のウブで一本気なところは、幼い頃から少しも変わっていない。その少年らしさを、独は貴重なものに思うのだ。
 それに、猛に舞というのは悪くない、と、直観的に独は思った。心の拠り所だった兄を失い、頼る者もなく、戦闘隊長という重責に耐えて行かなければならない、というのは、二十歳前の少年には酷に過ぎる。誰かを愛することは、猛にとって大きな心の支えになるに違いない。
 だが、今は、そんな楽しい空想に浸っている時間はなかった。
「じゃあ、ちょっとその資料を見てみてくれ。」
 独に言われて、猛は分厚い資料のページをめくった。
 ハヤトの武器には、主砲、副砲、フェザーレーザー砲、上部煙突ミサイル、それに最大の威力を持つ波動砲などがある。それらは数自体が増やされている上に、副砲一門で従来の主砲の三倍近い威力があり、ショックカノンと呼ばれる主砲はさらにその十倍の威力がある、という具合に、桁外れのパワーアップがなされていた。
 特に、艦首波動砲は、波動エンジンの内部のエネルギーを外に向けて作用させた強力なエネルギー砲で、ハヤトの切り札とも言うべき物だった。その絶大なエネルギーは、一つの小宇宙に匹敵するとも言われ、目的物は素粒子の段階まで分解されてしまうだろう、と予想されている。
 この究極の砲の存在が、辛うじて、デイモスと互角以上に渡り合える可能性をハヤトに与えているのであった。しかし、この砲には、発射の際に全艦のエネルギーを使うため、砲を撃った直後は全艦の機能が一時停止し、回復に時間が掛かるという欠点もある。
 ハヤトにとって、波動砲は言わば両刃の剣であり、それだけに使い所が難しいとも言えた。
 会議の途中で、生活班班長の海堂美央(かいどうみお)が二人に飲み物を運んで来てくれた。
 彼女も猛とは同期で、
「はじめまして。宜しくね。」
と笑う顔の、つぶらな、という表現がぴったりの丸い瞳が人懐っこく、いかにも明るく快活な性格の持ち主のようだった。
 舞に比べると、可愛らしい印象が勝っている。大抵の人間は、この外観に騙されるのだが、生活班長に選ばれるだけあって、美央は、同い年の少年たちなどよりは、ずっとしっかりしているのだった。
「どうだ、猛。これならデイモスとも互角に戦えるぞ。」
 コーヒーのブラックを啜りながら、独が言った。
「使いこなせれば、の話ですがね。」
と、猛はぼやいた。
 とにかく、ハヤトの武器は、今まで訓練学校で扱って来た物とは桁違いのパワーを持っているのだ。数にしても、多いのは結構なことだが、それを自在に使いこなさなければ意味がない。限られた人員でそれをしなければならないと思えば、戦闘隊長としてはそう手放しで喜んでもいられなかった。
 猛は、美央が持って来てくれた飲み物に手を伸ばした。
 どこでどう調べたのか、頼みもしないのに、好みの物がそれぞれの前に置かれている。
 だが、香り高い独のブラックコーヒーに比べて、自分の前に置かれたホットミルクというのは、猛には情けなく思えた。
 猛はコーヒーは飲めない。幼い頃、精一杯背伸びして、独と同じくコーヒー党の兄が愛飲していたとびきり強いコーヒーに挑戦し、見事に敗れて胃を壊したことがあるからだ。
 以来、確かにホットミルクが猛の好物だったのだが、それではあまりに子供っぽいような気がした。
 この次はお茶にしてもらおう、と思いつつ、カップに口を付けた猛は、次の瞬間、その美味しさに感嘆していた。
 こんなに美味しいホットミルクは飲んだことがない。温度と甘さのバランスが絶妙で、それが身も心も温めてくれるような感じだった。きっと、細心の注意を払って入れてくれたのだろう。せめて美味しい物でも飲んで一息入れてもらおうという労りが感じられて、猛は嬉しかった。
「連動照準器なんかは、今までの物と同じだ。その他も理屈は同じだよ。大体、ろくな訓練もなしにこれだけの物を扱わせよう、というのが、そもそも無茶苦茶なんだ。だが、これを使いこなして初めて、デイモスと互角にやり合うことができる。頑張ってくれよ。」
「はい!」
 猛が頷いた時、艦内放送が流れて来た。
『ハヤトの改造は全て終了した。出航は明朝九時三十分、八時三十分の点呼までは自由時間とする。打ち合わせの終了した者から休息せよ。』
 それは、沖田の声だった。地球の命運を賭けた旅立ちが、いよいよ明日に迫ったのである。
「じゃあ、ミスター。」
 沸き上がる闘志を胸に、猛は独を見上げた。
「いよいよ明日だな。お互いにしっかりやろう。」
 二人は、もう一度ガッチリと握手を交わした。
 独と別れると、既に一日が終わろうとしていた。猛は、居住区の戦闘隊ブロックにある自分の部屋に戻った。
 ドアを開けると、真先に隼人の写真が目に入る。
「いよいよ明日だよ、兄さん。」
 そっと写真に呼び掛けると、背が伸びたな、という兄の声が聞こえたような気がして、猛はハッとした。忙しさに取り紛れてすっかり忘れていたが、明日は猛の二十才の誕生日なのである。
(見ててくれよ、兄さん。)
 とてつもない困難とセットになってはいるが、確かな希望を抱いて、兄の名の付いた艦で旅立つ。兄は、いつもどこかで猛を見守ってくれているだろう。共に祝ってくれる者のない今の猛にとって、それが何よりの餞であった。
 シャワーを浴びて、ベッドに体を投げ出すと、固過ぎもせず柔か過ぎもしないベッドが猛の強靭な肉体を快く横たえた。全て好みの物がきっちりと収まっている四メートル四方のこの部屋を、猛は気に入っている。部屋の調整は生活班が担当し、各人の好みに合わせて入念に行ったものだ。
 出航準備が全て終わったのだろう、辺りは静まり返っていた。
 これが最後かもしれない、地球での夜。家族のある者は、トウキョウ・ベースのそれぞれの家に戻って、愛する者たちと名残を惜しんでいるに違いない。乗組員の誰もが、多かれ少なかれ身近な人々を失ってはいたが、今日のような日に、ハヤトで一人眠りにつこうという者は、そう多くはなかった。
 猛は、そんな自分の身の上を少し寂しく思ったが、それも一瞬だった。一人には慣れ過ぎていたし、一度覚悟を決めたことをあれこれ考える性質でもない。そして、快く疲労した若い体は眠りを要求する。何を考える暇もなく、猛は眠りに落ちた。
 再び味わうことができるかどうかさだかではない、地球での眠り。明日からは星の海で夢を見る――。