皆さん、こんにちは。
本日、久々の東京参りです。
霞ケ関で省庁回りをして、高級官僚どもを、ひいひい言わせてやります。ひひ。
東京までの2時間少しの間に、可能な範囲で、自分の考えをどこまで書けるか、というチャレンジ?をする気になり、スマホを開いております。
お題は、「JWと現代社会 反セクト法成立の必要性」です。
では、マニア向け記事、暇な方は、どーぞ。
まず、JWという教団と、日本社会との接点を、過去の判例を通して少し復習してみます。
有名なところでは、公立の高等専門学校での武道拒否を理由にした退学処分を不服として、信者である生徒側が起こした訴訟があります。
この訴訟においては、最高裁が「格闘技を拒否された場合の代替措置を用意しなかったことは学校側の落ち度である」と被告側に指摘し、「退学または留年処分は不当である」との判決を下しました。
また、同じく最高裁判決となった事例として、輸血拒否の意思を示したJW信者に対し、医療関係者が無断で輸血を行ったため、患者(信者)側が病院関係者を被告として訴えた裁判があります。
最高裁は、医療関係者による許諾無しの輸血行為に対して、「宗教上の理由で輸血を拒否する意思決定を行う権利は人格権の一内容として尊重される」ものであるから、それを侵害した医療関係者側には賠償責任がある、として、2000年に、病院関係者側の主張を退け、教団信者側の訴えを認める判決を下しました。
これらの訴訟は、JWの異質性やカルト性(あくまでも一般呼称として)に対する世俗側の忌避感情や社会常識への逸脱感を問題の端緒とした、極めて興味深い訴訟ですが、結果は上記のとおり、いずれもJW側の主張を認めるものとなりました。
一方でこの訴訟において争われたのは、JWという固有教団の保護や、マインドコントロール下にある信者の判断能力本体について司法判断が及んだものではなく、「信教の自由」という民主主義社会の根幹に関わる価値観を、どこまで特定宗教の教義にアジャストすべきかという、どちらかというと世俗社会側の物差しの在り方を提示した判例とも言えます。
この訴訟が社会に発したメッセージは、地域社会が時に大きな違和感を覚えるレベルの、カルト信者の信仰に基づく(とされる)信義表明に対し、それが仮に社会秩序に動揺を与えるレベルのものだとしても、それを理由として信者個人の「教育の機会を閉じてはいけない」し、「医療行為の選択の自由を認めるべき」であるという、民主主義社会のボーダーを明確にした点で、意義深いものだろう、と思います。
JW組織や信者を観察していると、時にこれらの判例を勝ち取れたのは、自らの教団の真理性を「この世」が間接的にであっても認めたのだ、ともいうべき慢心を見せることがありますが。
現実は、集団心理的傾向の強い日本的民主主義が、その成熟とともに、いずれ出会う宿命にあった、「信教の自由」との軋轢であり。
JWという教団をフィールドとしてはいるものの、その実、社会と宗教の関係性を測る上で実に汎用性の高い判例を残したに過ぎないのではないか、とも思います。
しかし、それでも評価すべき点はあって。
JWは、言い様によっては、この社会に必要であった、「信教の自由」や「個人の持つ権利」を、あらゆる宗教に先んじて具体的に提示し、司法に認めさせることで社会的認知を促進させ、ひいては世の中を良い方向に変えてきた団体ともいえるわけで。
まあ。
だからといってワシは、この判例やそれを引き出したJWを称賛したいわけではなく。
正直な心境を言うと、これらの判例を少し突き放した見方をしているし、控えめに言ってもJW有利の判決が出たのも「致し方ない」という程度の受け止め方をしております。
JWは上記訴訟の後、暫く日本の法曹界を騒がせるような動きをしてこなかったのですが、意外なことで再び社会的注目を浴びることになります。
そう。
それが、安倍首相銃撃事件をトリガーとした、いわゆる2世信者問題です。旧統一教会信者がこの問題の中心ではあったわけですが、この世論の沸騰にはJWの体罰等についても同様の社会の厳しいい目が向けられるようになり。
この機会に在野に潜んでいた元2信者たちが一気に、そのトラウマを表舞台で吐き出し始めたのです。
この問題は現在進行形ですが、結論としてJW教団は、この件に関して法的拘束力を持つ不利益処分の対象にはなっていないし、今後もならないでしょう。
旧統一教会に対しては、文部科学省が2023年に、宗教法人法に基づき解散命令請求を東京地裁に行い、先ごろこの審理が終了した、と報じられています。
近日中に示される地裁の判断が注目されます。
一方でJWに対する、今回の事案をトリガーとした包囲網といえば、厚生労働省の発出したいわゆる「虐待対応指針」があります。
これらは国会での議論や世論の盛り上がりを背景に、法的不利益処分等については現実的ではないものの、現場を預かる地方自治体等の対応を統一的かつ明確化するために国が準備した「ガイドライン」的な位置づけのもので。
内容は「宗教活動への強制的参加」や「長時間の拘束」「宗教講義等の際の参加時の居眠り等に対する体罰」などを虐待と定義づけるなど、教団名は明示していませんが、まんまJWのことやん、と突っ込みたくなる、厚労省役人たちの苦肉の策の結晶?なのです。
冷めたこと言いますが、ワシはこのガイドラインについても、あまり称賛するつもりは無く。
というのも、国家組織が初めて、暗にJWの過激な子育てを明文化した点では評価できますし、現場の教師たちのよりどころとなる教科書を作った点では、教団信者の居心地は悪くなるのでよかったと思いますが。
それ以上でもそれ以下でもなく。
実効性という意味で言えば、大きく社会を変えるほどの法的拘束力はないし。世論が冷えた後は、せいぜいこの問題に明るいテキパキした教師が、自分の学内で精力的にこの指針の適用をしてくれたりする程度で。
いやいや、指針が発出されただけでも大成果だぁ!との声もあるかもですが。
ワシ的には、なんだかね~、なんですよ。
さてさて。
ここまで事実の羅列をさせていただきましたが。
そのうえでワシが、JW教団問題をどう扱うべきと考えているかを、少しばかり記したいと思います。ここから本題です。
(本題の前に上記の事実関係の羅列やそれに対するワシの受け止め方を書いたのは、基礎となる事実関係を押さえておかないと、話が行ったり来たりしそうだったからです。)
本題の結論から言うと、ワシは日本においても、フランス政府と同じように、日本版「反セクト法」を成立させ、JWをそのセクト団体に指定し、税制優遇等のはく奪及び社会的ペナルティを課すべきだと考えています。
少なくとも、一般解としての法治国家のスキームを概観している人間からすれば、恐ろしく過激な発言です。ええ、わかってますとも笑
ですから、実現性が限り無く低い、ってこともわかっている、ということも先に告白しておきますね。
さて、簡単に反セクト法といっても、御本家フランスの同法は我々が考えるほど単純ではなく、時代とともにかなり丸くなって(ならざるを得なくなって)います。
2001年法施行時にはセクト団体の指定があり、JWもその中に含まれていましたが、少なくとも2005年以降は政府指定の団体は公表されていません。というか、特定団体の公表というハレーションの大きな施策は控えるようになりました。
また、通称名からは想像できませんが、この法には「マインドコントロール」に関する規定すらなく、おまけに罰条対象は宗教団体だけでもありません。
これには法案成立過程における「同類道義」の類焼被害に対する懸念や、いわゆる「ライシテ」(政府の政教分離)の問題が大きく影響しています。
あらゆる社会課題発信の法案成立にあたっては、その法が個人の精神やそれに波及する行動制限を背景とする場合、法の実効性を担保するために欠かせない法的「定義」の規定に、各国とも大いに苦しみます。
ですから、このフランスの反セクト法においても、国民議会に提出され、法の制定過程に大きな影響を及ぼしたいわゆる「ギュイヤール報告書」のセクト現象判別のための「10の基準」に関しても、その正式な法的位置付けを見送っています。
法案可決を目指すなら、日本においても多様な観点で大いに議論になるでしょう。
あくまでもフランス法を参考事例であると認識しつつ、それを下敷きに法案を作成し、フランスの踏み込めなかった領域へ歩み出せば、どこまでいっても「法律」として存在する事実が、数少ない判例や省庁指針レベルの効能とは比べ物にならないほどのインパクトを、社会的にもたらすのではないか、と思わずにはいられないのです。
現行の枠組みで言うなら、宗教法人法に規定される宗教法人審議会のような法定組織に対してカルト問題を諮問し、日本版ギュイヤール基準のようなものを、まずは作れないでしょうか?
そのためには国民の生活基盤となる、伝統的かつ文化的、習俗的行為に混在している既成宗教的慣行を例外として規定する、という、憲法解釈に波及するような思想的ベースが不可欠になりますが。
もうそこは思い切って国民的な議論に多くの関係者を巻き込み、最後は強引に決めてしまうしかないでしょう。
(まあ、ライシテの問題が、社会生活の中で、曖昧かつ深層まで強固に絡まる日本において、その法を成立させようと思うと革命動議でも起きないと無理なんですがね…笑)
(富士山が綺麗〜。)
過去に解散命令を受けた2団体の解散命令請求の前例は、オウムによる大量殺人予備行為や、明覚寺の組織的詐欺霊視事件であり、その組織的な凶悪かつ意図的性質から、同法解釈に疑問を差し挟む余地はありませんでした。
それに対し、ワシが(というか恐らくほとんどの良識ある覚醒信者)が問題としているのは、そこまでには至らなくても、JWなどの持つ、教団教義やガバナンスを起因とした、教団全体を包含する悪意ある信者風潮や慣行に対する裁きであり、その継続的存在の抑止なのです。
厚労省の「虐待対応指針」があるので、それで十分、とか。
現政府の方針である、いわゆる2世問題は各法における規定に抵触した場合に取り締まることで対応できる、とか。
つまり現行ツールで充分だという、そーゆー意見もあるでしょう。
ええ、ワシもその理解にはリアリティがあると思います。
しかし、虐待対応指針は、すでに書いた通り、教員の負担軽減や業界の共通認識の保持には役立ったとしても、「宗教的慣行阻止による子どもの保護」という指針本来の目的を達するツールとしては、実質的に役に立ちません。
JWの子どもたちの多く(ワシも含めて実質全員)は、学校等での信仰表明を「自分の意志である」として説得するよう教育されており、その思想誘導によって発現した子どもの特定行事拒否等は、本人の「信教の自由」という美辞麗句に昇華され、その途端に指針の対象を外れてしまうのです。
宗教行事への参加についても、問題は「強制参加」であり、自己意思と分離した活動であることを、子ども本人が明確に意思表示しなければ、第三者認定に至らないのですから、ほとんど有名無実です。そんなことができる子どもなら、そもそもそんな指針にお世話になることがありませんから。
体罰等を虐待と定めたことについても、結局教団組織から「体罰そのものを現在は否定している」と開き直られてしまう事で無効化されており、今後そうした行き過ぎた信者の体罰があったなら、彼らの言う「信者個別の問題」というロジックの後押しになるだけでしょう。
それにしてもこの指針はある意味、相当あぶなっかしいもので。
「宗教行事への強制参加」ひとつをとっても、地域の地蔵盆といった庶民寄りの祭りや地元神社の祭礼も「宗教行事」ですから、その行事に参加する一般のお子さんの中にもそうした地域コミュニティの中で多用される行事への参加を嫌悪しているケースもあるはずで。
そうした行事への「子ども会」単位での参加要請も、厳密にいえば「虐待」となり得るという、かなり社会通念とはかけ離れた価値判断を、グレーゾーンであることを良いことに提示しているわけで。
そうなると逆説的に、鯉のぼりや七夕、クリスマス会を拒否するJWの子どもの方こそ、そうした行事を企画実行する地域社会や学校から虐待されている被害者だ、との理論も成立するわけで。
まあだから、この指針は、無いよりはマシ、というレベルで評価するなら、それは異論ありませんし。
厚労省という、お上が明文化して社会に放り込んだことは大きな一歩だ、という政策評価の側面も否定はしません。
が、しかし。
このルールを作ったことで、国は「やることはやった」ということで今後の進展は見込めませんし、実効性の担保が薄い(無い)、「学習の目当て」程度のスローガンでこの問題を諦めてしまう事が、感情的に飲み込めないのですよね。
そう。感情的なんですよ、ワシ笑
ワシは、どうせ議論を巻き起こすなら、グレーゾーンの扱いを残したまま法的リスクのある(JW等からの訴訟リスクのある)危険な「指針」レベルの国家的方針をもてあそぶくらいなら、もう大喧嘩必至で白黒を明確にした法制度を確立し、世界標準にしてしまえ、と思うのです。
そうなると、前述の宗教法人法に基づく宗教法人審議会は、委員に既成宗教法人の代表者が選出されていることから、漸進的な議論は難しかろうと思います。
フランスの反セクト法成立過程でも、既成キリスト教会は法案の内容に再々、非常に強い懸念を表明しましたが、日本においても特定の宗派の委員が議論に入ることによって同じことかそれ以上のことが生じると考えられます。
委員の任命は法に基づき文部科学大臣が行いますから、国側が覚悟を持ってそうした宗教系委員を排除すればよいのです。
そして、日本版ギュイヤ―ル報告書を作成し、71条3項に基づき、文部科学大臣に具申すれば、国会審議の俎上に乗せ、本格議論を始めることができます。
そしてJWについては、その議論の中で例えばギュイヤ―ル報告書にある条件の「元の生活からの引き離し」や「反社会的教説の保持」を理由にセクト指定し、課税免除対象から外します。それらのセクト指定の際の立証要件整理の際にこそ、今、世の中で有象無象ある2世信者の体験談が生きてくるでしょうに。
宗教法人審議会の条文を少し変える必要(71条4項あたり)があるでしょうが、現行法でもある程度形にできそうな気もするのよ。
まあ。
これは妄想ですよ。
そんな展開なんて絶対無理だ、ってことは、ワシとてよーく理解していますから。お前どっちやねん、という声が聞こえてきそうですが笑
そもそも、たかがJW程度の反社会的教団のために、国民的議論など起きませんし。大方の国民は、反セクト法の成立に、自分たちが日々関わる宗教習俗の否定や整理、虐待認定まで関わってくると知った段階で、引いていきますからね。
そして何より、宗教法人審議会委員に就任できる完全無欠な「無宗教の人」なんて日本には存在しないでしょうし。なんせ日本は与党に、フランスの反セクト法制定時にセクト認定を受けた宗教団体系の政党があるという、「欧州人もびっくり」な政教同化政府の国。
フェアな議論が社会に挑戦してくれるような環境にない。
そして仮に奇跡的に日本版ギュイヤ―ルが提出されても、おびただしい数の訴訟が提起され、裁判所は現行憲法下における「信教の自由」をベースに、政府の暴走を諫める側に立つでしょう。日本の裁判所は、その辺しっかりしてますからね。
こういう逡巡を、日々やっておりますねん。
今の日本的世論は。
政府や省庁のリーガルスタンスを理解している人にとっては、この問題に対して、国は現状できる対策にては講じており、あとは「信教の自由」をベースとした社会の常識的自己責任論の範疇で落とし前をつけるべきだ、という理解なのだと思います。
ワシも、その辺の「大人の見解」には異論はありません。
が、そこまで「他人事」感を持つ事が出来ないのよ。
やはり、どうしても。
憲法論をベースとした我が国の現行法理で零れ落ちる被害者が頻出している現状や、JWに関わらず新興宗教が社会的合理性へ挑戦する形で社会不安をあおる現状がある以上、「人権」の救済的解釈をベースとし、特措法かつ時限立法でもよいので、いわゆるカルトを規制するくらいのことをしなければ、子どもをはじめとした、関係者は救われないだろう、と思ってしまうのです。上述のとおり、実質不可能だけどね。
さあ。
とりとめがなくなってきました笑
かつ、東京が近付いてまいりました。
まとめると。
ワシは考えるだけで、何もできていない。
自分の主張についても、社会の理屈はわかっているつもりなので、駄々をこねているレベルであることも認識している。
でも。
今日を生きるJWの子どもたち。かつてのワシが苦しんでいるなら、少々大人が無茶してでも、彼らの人生をイホバから守ってやらなければ、という。
自称正義感だけが空回りしている、というところでしょうか。
あ。
品川過ぎた。
ではでは。




