皆さん、こんにちは。
本日、久々の東京参りです。



(のぞみN700Sと目が合った図)


 霞ケ関で省庁回りをして、高級官僚どもを、ひいひい言わせてやります。ひひ。

 ところで。


 前記事のあと、なかなか面白いコメントを頂き、そのやり取りの中で改めて自己を顧みる必要性に気付かされ笑

 東京までの2時間少しの間に、可能な範囲で、自分の考えをどこまで書けるか、というチャレンジ?をする気になり、スマホを開いております。

 お題は、「JWと現代社会 反セクト法成立の必要性」です。
 では、マニア向け記事、暇な方は、どーぞ。


 まず、JWという教団と、日本社会との接点を、過去の判例を通して少し復習してみます。

 有名なところでは、公立の高等専門学校での武道拒否を理由にした退学処分を不服として、信者である生徒側が起こした訴訟があります。
 この訴訟においては、最高裁が「格闘技を拒否された場合の代替措置を用意しなかったことは学校側の落ち度である」と被告側に指摘し、「退学または留年処分は不当である」との判決を下しました。
 また、同じく最高裁判決となった事例として、輸血拒否の意思を示したJW信者に対し、医療関係者が無断で輸血を行ったため、患者(信者)側が病院関係者を被告として訴えた裁判があります。
 最高裁は、医療関係者による許諾無しの輸血行為に対して、「宗教上の理由で輸血を拒否する意思決定を行う権利は人格権の一内容として尊重される」ものであるから、それを侵害した医療関係者側には賠償責任がある、として、2000年に、病院関係者側の主張を退け、教団信者側の訴えを認める判決を下しました。

 これらの訴訟は、JWの異質性やカルト性(あくまでも一般呼称として)に対する世俗側の忌避感情や社会常識への逸脱感を問題の端緒とした、極めて興味深い訴訟ですが、結果は上記のとおり、いずれもJW側の主張を認めるものとなりました。
 一方でこの訴訟において争われたのは、JWという固有教団の保護や、マインドコントロール下にある信者の判断能力本体について司法判断が及んだものではなく、「信教の自由」という民主主義社会の根幹に関わる価値観を、どこまで特定宗教の教義にアジャストすべきかという、どちらかというと世俗社会側の物差しの在り方を提示した判例とも言えます。
 この訴訟が社会に発したメッセージは、地域社会が時に大きな違和感を覚えるレベルの、カルト信者の信仰に基づく(とされる)信義表明に対し、それが仮に社会秩序に動揺を与えるレベルのものだとしても、それを理由として信者個人の「教育の機会を閉じてはいけない」し、「医療行為の選択の自由を認めるべき」であるという、民主主義社会のボーダーを明確にした点で、意義深いものだろう、と思います。

 JW組織や信者を観察していると、時にこれらの判例を勝ち取れたのは、自らの教団の真理性を「この世」が間接的にであっても認めたのだ、ともいうべき慢心を見せることがありますが。
 現実は、集団心理的傾向の強い日本的民主主義が、その成熟とともに、いずれ出会う宿命にあった、「信教の自由」との軋轢であり。
 JWという教団をフィールドとしてはいるものの、その実、社会と宗教の関係性を測る上で実に汎用性の高い判例を残したに過ぎないのではないか、とも思います。

 しかし、それでも評価すべき点はあって。
 JWは、言い様によっては、この社会に必要であった、「信教の自由」や「個人の持つ権利」を、あらゆる宗教に先んじて具体的に提示し、司法に認めさせることで社会的認知を促進させ、ひいては世の中を良い方向に変えてきた団体ともいえるわけで。

 まあ。
 だからといってワシは、この判例やそれを引き出したJWを称賛したいわけではなく。
 正直な心境を言うと、これらの判例を少し突き放した見方をしているし、控えめに言ってもJW有利の判決が出たのも「致し方ない」という程度の受け止め方をしております。

 JWは上記訴訟の後、暫く日本の法曹界を騒がせるような動きをしてこなかったのですが、意外なことで再び社会的注目を浴びることになります。

 そう。

 それが、安倍首相銃撃事件をトリガーとした、いわゆる2世信者問題です。

 旧統一教会信者がこの問題の中心ではあったわけですが、この世論の沸騰にはJWの体罰等についても同様の社会の厳しいい目が向けられるようになり。
 この機会に在野に潜んでいた元2信者たちが一気に、そのトラウマを表舞台で吐き出し始めたのです。

 この問題は現在進行形ですが、結論としてJW教団は、この件に関して法的拘束力を持つ不利益処分の対象にはなっていないし、今後もならないでしょう。
 旧統一教会に対しては、文部科学省が2023年に、宗教法人法に基づき解散命令請求を東京地裁に行い、先ごろこの審理が終了した、と報じられています。
 近日中に示される地裁の判断が注目されます。

 一方でJWに対する、今回の事案をトリガーとした包囲網といえば、厚生労働省の発出したいわゆる「虐待対応指針」があります。
 これらは国会での議論や世論の盛り上がりを背景に、法的不利益処分等については現実的ではないものの、現場を預かる地方自治体等の対応を統一的かつ明確化するために国が準備した「ガイドライン」的な位置づけのもので。
 内容は「宗教活動への強制的参加」や「長時間の拘束」「宗教講義等の際の参加時の居眠り等に対する体罰」などを虐待と定義づけるなど、教団名は明示していませんが、まんまJWのことやん、と突っ込みたくなる、厚労省役人たちの苦肉の策の結晶?なのです。

 冷めたこと言いますが、ワシはこのガイドラインについても、あまり称賛するつもりは無く。
 というのも、国家組織が初めて、暗にJWの過激な子育てを明文化した点では評価できますし、現場の教師たちのよりどころとなる教科書を作った点では、教団信者の居心地は悪くなるのでよかったと思いますが。
 それ以上でもそれ以下でもなく。

 実効性という意味で言えば、大きく社会を変えるほどの法的拘束力はないし。世論が冷えた後は、せいぜいこの問題に明るいテキパキした教師が、自分の学内で精力的にこの指針の適用をしてくれたりする程度で。
 故にJW2世、3世の境遇を変えるだけのインパクトはないだろう、と。
 いや、場合によっては、この中途半端な(失礼ながら本心)指針のせいで、JW家庭はヤバい、ってな印象だけ余韻として残ることで、子ども達が逆にイジメの憂き目に遭ったり、教師達から奇異の目で見られたりはしまいか、と心配しております。

 いやいや、指針が発出されただけでも大成果だぁ!との声もあるかもですが。
 ワシ的には、なんだかね~、なんですよ。

 さてさて。
 ここまで事実の羅列をさせていただきましたが。
 そのうえでワシが、JW教団問題をどう扱うべきと考えているかを、少しばかり記したいと思います。ここから本題です。
(本題の前に上記の事実関係の羅列やそれに対するワシの受け止め方を書いたのは、基礎となる事実関係を押さえておかないと、話が行ったり来たりしそうだったからです。)

 
 本題の結論から言うと、ワシは日本においても、フランス政府と同じように、日本版「反セクト法」を成立させ、JWをそのセクト団体に指定し、税制優遇等のはく奪及び社会的ペナルティを課すべきだと考えています。
 少なくとも、一般解としての法治国家のスキームを概観している人間からすれば、恐ろしく過激な発言です。ええ、わかってますとも笑
 ですから、実現性が限り無く低い、ってこともわかっている、ということも先に告白しておきますね。

 さて、簡単に反セクト法といっても、御本家フランスの同法は我々が考えるほど単純ではなく、時代とともにかなり丸くなって(ならざるを得なくなって)います。
 2001年法施行時にはセクト団体の指定があり、JWもその中に含まれていましたが、少なくとも2005年以降は政府指定の団体は公表されていません。というか、特定団体の公表というハレーションの大きな施策は控えるようになりました。
 また、通称名からは想像できませんが、この法には「マインドコントロール」に関する規定すらなく、おまけに罰条対象は宗教団体だけでもありません。
 これには法案成立過程における「同類道義」の類焼被害に対する懸念や、いわゆる「ライシテ」(政府の政教分離)の問題が大きく影響しています。
 あらゆる社会課題発信の法案成立にあたっては、その法が個人の精神やそれに波及する行動制限を背景とする場合、法の実効性を担保するために欠かせない法的「定義」の規定に、各国とも大いに苦しみます。
 反セクト法に関しても同じで、この課題に法による剣を持って立ち上がった、EUで唯一の英断国家であるフランス議会をもってしても、その壁は大きかったのでしょう。
 マインドコントロールを特定宗教との紐付け無しに論じると、宗教だけでなく、政治や日常的慣行などありとあらゆる社会活動を束縛する事につながってしまうジレンマを、なかなか法文規定で解決することはできません。
 ですから、このフランスの反セクト法においても、国民議会に提出され、法の制定過程に大きな影響を及ぼしたいわゆる「ギュイヤール報告書」のセクト現象判別のための「10の基準」に関しても、その正式な法的位置付けを見送っています。

 法案可決を目指すなら、日本においても多様な観点で大いに議論になるでしょう。
 ですから簡単に反セクト法が日本におけるJW問題の根本的解決ツールになるといった過剰な期待もしていませんが。
 あくまでもフランス法を参考事例であると認識しつつ、それを下敷きに法案を作成し、フランスの踏み込めなかった領域へ歩み出せば、どこまでいっても「法律」として存在する事実が、数少ない判例や省庁指針レベルの効能とは比べ物にならないほどのインパクトを、社会的にもたらすのではないか、と思わずにはいられないのです。

 成立過程をイメージしてみると。
 現行の枠組みで言うなら、宗教法人法に規定される宗教法人審議会のような法定組織に対してカルト問題を諮問し、日本版ギュイヤール基準のようなものを、まずは作れないでしょうか?
 そのためには国民の生活基盤となる、伝統的かつ文化的、習俗的行為に混在している既成宗教的慣行を例外として規定する、という、憲法解釈に波及するような思想的ベースが不可欠になりますが。
 もうそこは思い切って国民的な議論に多くの関係者を巻き込み、最後は強引に決めてしまうしかないでしょう。
(まあ、ライシテの問題が、社会生活の中で、曖昧かつ深層まで強固に絡まる日本において、その法を成立させようと思うと革命動議でも起きないと無理なんですがね…笑)


(富士山が綺麗〜。)


 現在の日本では、宗教法人法に基づく解散命令請求が宗教団体に対する組織的処分としては最も重い処分となるのですが、解散命令請求の条件となる、宗教法人法第81条1項1号にある「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為」の解釈を巡って、常に激しい議論があります。
 そう、その解釈には幅があるのです。
 過去に解散命令を受けた2団体の解散命令請求の前例は、オウムによる大量殺人予備行為や、明覚寺の組織的詐欺霊視事件であり、その組織的な凶悪かつ意図的性質から、同法解釈に疑問を差し挟む余地はありませんでした。
 それに対し、ワシが(というか恐らくほとんどの良識ある覚醒信者)が問題としているのは、そこまでには至らなくても、JWなどの持つ、教団教義やガバナンスを起因とした、教団全体を包含する悪意ある信者風潮や慣行に対する裁きであり、その継続的存在の抑止なのです。

 厚労省の「虐待対応指針」があるので、それで十分、とか。
 現政府の方針である、いわゆる2世問題は各法における規定に抵触した場合に取り締まることで対応できる、とか。

 つまり現行ツールで充分だという、そーゆー意見もあるでしょう。
 ええ、ワシもその理解にはリアリティがあると思います。

 しかし、虐待対応指針は、すでに書いた通り、教員の負担軽減や業界の共通認識の保持には役立ったとしても、「宗教的慣行阻止による子どもの保護」という指針本来の目的を達するツールとしては、実質的に役に立ちません。
 JWの子どもたちの多く(ワシも含めて実質全員)は、学校等での信仰表明を「自分の意志である」として説得するよう教育されており、その思想誘導によって発現した子どもの特定行事拒否等は、本人の「信教の自由」という美辞麗句に昇華され、その途端に指針の対象を外れてしまうのです。
 宗教行事への参加についても、問題は「強制参加」であり、自己意思と分離した活動であることを、子ども本人が明確に意思表示しなければ、第三者認定に至らないのですから、ほとんど有名無実です。そんなことができる子どもなら、そもそもそんな指針にお世話になることがありませんから。
 体罰等を虐待と定めたことについても、結局教団組織から「体罰そのものを現在は否定している」と開き直られてしまう事で無効化されており、今後そうした行き過ぎた信者の体罰があったなら、彼らの言う「信者個別の問題」というロジックの後押しになるだけでしょう。

 それにしてもこの指針はある意味、相当あぶなっかしいもので。
「宗教行事への強制参加」ひとつをとっても、地域の地蔵盆といった庶民寄りの祭りや地元神社の祭礼も「宗教行事」ですから、その行事に参加する一般のお子さんの中にもそうした地域コミュニティの中で多用される行事への参加を嫌悪しているケースもあるはずで。
 そうした行事への「子ども会」単位での参加要請も、厳密にいえば「虐待」となり得るという、かなり社会通念とはかけ離れた価値判断を、グレーゾーンであることを良いことに提示しているわけで。
 そうなると逆説的に、鯉のぼりや七夕、クリスマス会を拒否するJWの子どもの方こそ、そうした行事を企画実行する地域社会や学校から虐待されている被害者だ、との理論も成立するわけで。

 まあだから、この指針は、無いよりはマシ、というレベルで評価するなら、それは異論ありませんし。
 厚労省という、お上が明文化して社会に放り込んだことは大きな一歩だ、という政策評価の側面も否定はしません。

 が、しかし。

 このルールを作ったことで、国は「やることはやった」ということで今後の進展は見込めませんし、実効性の担保が薄い(無い)、「学習の目当て」程度のスローガンでこの問題を諦めてしまう事が、感情的に飲み込めないのですよね。

 そう。感情的なんですよ、ワシ笑

 ワシは、どうせ議論を巻き起こすなら、グレーゾーンの扱いを残したまま法的リスクのある(JW等からの訴訟リスクのある)危険な「指針」レベルの国家的方針をもてあそぶくらいなら、もう大喧嘩必至で白黒を明確にした法制度を確立し、世界標準にしてしまえ、と思うのです。

 そうなると、前述の宗教法人法に基づく宗教法人審議会は、委員に既成宗教法人の代表者が選出されていることから、漸進的な議論は難しかろうと思います。
 フランスの反セクト法成立過程でも、既成キリスト教会は法案の内容に再々、非常に強い懸念を表明しましたが、日本においても特定の宗派の委員が議論に入ることによって同じことかそれ以上のことが生じると考えられます。
 委員の任命は法に基づき文部科学大臣が行いますから、国側が覚悟を持ってそうした宗教系委員を排除すればよいのです。
 そして、日本版ギュイヤ―ル報告書を作成し、71条3項に基づき、文部科学大臣に具申すれば、国会審議の俎上に乗せ、本格議論を始めることができます。
 そしてJWについては、その議論の中で例えばギュイヤ―ル報告書にある条件の「元の生活からの引き離し」や「反社会的教説の保持」を理由にセクト指定し、課税免除対象から外します。それらのセクト指定の際の立証要件整理の際にこそ、今、世の中で有象無象ある2世信者の体験談が生きてくるでしょうに。
 そして、学校現場ではセクト指定された教団の子どもによる学校行事への口出しや虐待疑義があった場合、「いじめ防対法」の「学校設置者による第三者委員会」のような機関を設けて審議の上、児童生徒本人の保護を目的とした議論を行い、子どもを親からも守るというプロセスを構築すべきでしょう。
 宗教法人審議会の条文を少し変える必要(71条4項あたり)があるでしょうが、現行法でもある程度形にできそうな気もするのよ。


 まあ。
 これは妄想ですよ。

 そんな展開なんて絶対無理だ、ってことは、ワシとてよーく理解していますから。お前どっちやねん、という声が聞こえてきそうですが笑

 そもそも、たかがJW程度の反社会的教団のために、国民的議論など起きませんし。大方の国民は、反セクト法の成立に、自分たちが日々関わる宗教習俗の否定や整理、虐待認定まで関わってくると知った段階で、引いていきますからね。
そして何より、宗教法人審議会委員に就任できる完全無欠な「無宗教の人」なんて日本には存在しないでしょうし。なんせ日本は与党に、フランスの反セクト法制定時にセクト認定を受けた宗教団体系の政党があるという、「欧州人もびっくり」な政教同化政府の国。
 フェアな議論が社会に挑戦してくれるような環境にない。
 そして仮に奇跡的に日本版ギュイヤ―ルが提出されても、おびただしい数の訴訟が提起され、裁判所は現行憲法下における「信教の自由」をベースに、政府の暴走を諫める側に立つでしょう。日本の裁判所は、その辺しっかりしてますからね。


 こういう逡巡を、日々やっておりますねん。


 今の日本的世論は。

 政府や省庁のリーガルスタンスを理解している人にとっては、この問題に対して、国は現状できる対策にては講じており、あとは「信教の自由」をベースとした社会の常識的自己責任論の範疇で落とし前をつけるべきだ、という理解なのだと思います。
 ワシも、その辺の「大人の見解」には異論はありません。
 が、そこまで「他人事」感を持つ事が出来ないのよ。

 やはり、どうしても。
 憲法論をベースとした我が国の現行法理で零れ落ちる被害者が頻出している現状や、JWに関わらず新興宗教が社会的合理性へ挑戦する形で社会不安をあおる現状がある以上、「人権」の救済的解釈をベースとし、特措法かつ時限立法でもよいので、いわゆるカルトを規制するくらいのことをしなければ、子どもをはじめとした、関係者は救われないだろう、と思ってしまうのです。上述のとおり、実質不可能だけどね。


 さあ。
 とりとめがなくなってきました笑
 かつ、東京が近付いてまいりました。

 まとめると。
 ワシは考えるだけで、何もできていない。
 自分の主張についても、社会の理屈はわかっているつもりなので、駄々をこねているレベルであることも認識している。
 でも。
 今日を生きるJWの子どもたち。かつてのワシが苦しんでいるなら、少々大人が無茶してでも、彼らの人生をイホバから守ってやらなければ、という。
 自称正義感だけが空回りしている、というところでしょうか。

 あ。
 品川過ぎた。

 カルトから子どもを守るためには。
 妙に大人の議論で満足するのではなく、それこそ常識を突き抜けた強い規制で彼等を断罪するくらいの「てやんでー」精神で臨もうじゃないかと言う。

 そんな独り言。

 ではでは。

 お粗末さまでした。

 社会より足早に高齢化が進むJWでは、今や成員の訃報は日常的なものになりつつあります。


 ワシの地元でも、この1年弱の間に3名もの方が他界され、その中には個人的に親しくして頂いた方もおられました。


 って事で。


 菓子折りを持って、「人として」の気遣いをすべく、昔の仲間たちを訪ね、お悔やみを伝えてきました。

 

 みな一様に、配偶者や親の死を悼み、精神の回復基調をありのままに語ってくれ。

 もう10年以上、集会に参加していないほすまん夫婦を違和感なく迎えてくれました。


 御主人を亡くした某姉妹は、未だにうちの夫婦を「兄弟」「姉妹」と呼ぶことに躊躇いはなく。

 おまけに、「ほすまん兄弟のようなクリスチャン家庭の夫は」と言った、ワシがまだ現役であるかのような前提でお話をされることには、苦笑いを禁じ得ませんでした。


 どの家庭も、ワシらをごく普通に迎え、特段勧誘する事もなく。

 ただただ、家族を失った悲痛を共に嘆く、一般的な時間となったのでした。


 ヨメに勧められて彼らを訪ねる前は、ワシが筋金入りの脱塔者である以上は、JW然としたお宅訪問は倫理的に不健全では無いか、と反対していたワシでしたが。

 何日かこの件を反芻したところ。

 この友人たちがJWでなければ、躊躇なく、慰めのために肩を抱くことを厭わないだろう、と感じたため。


 ここで訪問しなければ、ワシの方が彼らを排斥していることになるな、と。

 変な自己矯正にも目覚め。


 なーんにも気にしないふりで訪ねることにしたのでした。


 

 そんな無風の訪問だったからこそ、ぼんやり感じたのが。



 カルト麻痺の進行、という恐怖であり。

 故の定着性の増大、という悲劇でした。



 「緊急感」という合言葉のもと、明日にでも終わりが来る、と標榜していた80年代、90年代のJWは、親族の死を「一時期の痛み」と処理して、すぐに楽園を見据えて感情を殺しました。

 社会から孤立した、カルトのカルトたる所以です。

 そのカルト性が彼らを熱狂させ、俗世との対立をジハードと捉える素地となってきたわけで。


 しかし、日本における教団歴史の蓄積や、教義の巧みなスライドを無問題に付してきた現信者達は、カルト的孤立性や特異性を超え、教団の先鋭的傾向の隠蔽に乗せられて社会に埋没しつつあるカルト性を歓迎し、日常を送っています。


 「エホバ」という得体の知れないマイノリティカルトの成員という覚悟は影を潜め、多様性の一角という隠れ蓑と、民主主義的心情保護を錦の御旗に、徐々に社会的安住の地を得ようとしているように見えます。

 

 こうなると、信者達は、教義について挑戦的思考を持ちにくくなります。

 教義の真偽よりも、社会的に認められた安定的宗教に属しているという安心感が優先し、思考停止に陥るのです。


 長い目で見ると、寺社仏閣を前に多くの国民がその教義の真偽を問うという宗教的真理性になんの関心も持たないのと同じように。

 慣習として宗教儀礼を行うことが「信仰」の代名詞となっていくのだろう、と思います。



 こーゆー、時代を継いで構築される社会的認知をもとにした安心感は、彼らを宗教的に堕落させますが、先鋭的な教義による社会問題の提起も影を潜めるため、脱塔のトリガーもなくなり、教団所属を安穏と継続することになるのだろう、と思います。


 過去の仲間と会い、話したワシは。


 そんな彼らに「牙を抜かれた」様を見たわけで。

 簡単にいうと、「コイツら、やべーな」的な度合いが薄れつつある匂いを嗅いで、それ故に彼らがこの教団を安住の地とする可能性は高まったな、と。


 悲しい展望をするに至ったのでした。



 もちろん、我が現役親族は、ある種とんでもなく「やべー」し、皆さんの周りの信者達もその表現がフィットするケースも多々あるでしょう。


 が、しかし。


 組織単位で見た時の「ヤバさ」は、日本社会における認知度の向上と共に大いに薄まりつつあることは、統一教会等との相対的比較評価でも増進されたことは、残念ながら事実でしょう。



 悲しいかな、JWは、社会的に認知された「やべー」宗教程度の存在になりつつあり。

 それは某学会やモルモンと同位程度におさまりつつあるように思います。

 Ωレベルの「ヤバさ」として認知される道を回避し、統一教会よりも安全な宗教のような見え方が定着しつつあります。



 まあ。

 JWも、輸血拒否をやめて、終末論を捨て、忌避を諦めるところまで丸くなれば、ワシ的には「勝手に信じてね」的レベルに落とし込めるのですが。


 その辺は、なんか踏ん張ってますからね。



 と。

 昔の仲間と普通に心情交差を楽しめたことに喜びを覚えつつも。

 その要因である、「薄まるカルト性」に長期的暗黒を垣間見た、という。



 そんな経験でした。

 年末ですね。

 早いなー。

 で、ブログも久々の更新です。


 タイトルは、「チキンライス」の歌い出し。 


 でもそれを考えようとする事がもう

 親孝行なのかもしれない


 と、続く。


 クリスマスは過ぎたけど、ワシの大好きなクリスマスソングなのよ。


 

 ことは、あるラーメン屋から始まる。

 寒風に耐え、首を窄めながらラーメン屋の暖簾をくぐったワシ。

 そして、デスクワークのくせにチャーハンセットでカロリー過多に持ち込む。




 新福菜館の黒スープが堪らん。


 ワシが文字通り私腹を肥やしていると、お店の暖簾を、とある親子がくぐり、寒そうに手をさすりながらワシの目の前のテーブルに座った。

 歳の頃、75くらいのお婆ちゃんと、40位の息子さん。


 会話は多くないが、おばあちゃんが何かを愚痴ってる。

 息子さんはそれをずっと聞いてる。

 頬杖をついて、時々微笑みながら。


 お婆ちゃんは時々、「笑い事じゃないわよ」と突っ込む。

 愚痴と言ってもきっと他愛もない事なんだろう。お婆ちゃんは感情的になるでもなく、淡々と愚痴る。

 それを見る、息子さん。


 テーブルにラーメンが運ばれてくると、お婆ちゃんは店員さんがまだいる目の前で「あら!ネギ多過ぎねー」とか愚痴る。

 食べ始めても「全部食べられへんよ」とか。「チャーシューはいらない」とか、ずっと愚痴ってる。


 そんなおばあちゃんに息子さんが優しく語りかけてる。


 おかあちゃん、王将よりこの店の方が家から近いし、また来ような。

 しょっちゅうは帰れんけど、次来るときには、別のラーメン屋、連れて行ったるわ。


 息子さんの目が、はにかみながらも、優しい。

 作業服を着込み、目つきの鋭いヤンチャ系のあんちゃんだが、びっくりするくらい声が優しい。

 

 お婆ちゃんが、そんなんえーよ、あんたも忙しいやろーに、と返した後。

 ちょっと間を置いて。

 

 ありがとー。


 と、小声で囁き、小さく微笑んだ。


 ワシがあんまり見るから、ふと息子さんと目が合った。

 息子さんが照れくさそうに目を逸らした。


 ワシは、何とも言えない、いいものを見せてもらった気になる。


 退店はほとんど同時だった。


 先にテーブルを立った息子さんが、ぶっきらぼうだけど、とても自然な感じで2人分をチャリン、と払って、店を出た。


 ワシが店を出ると、息子さんと目が合った。

 何となく、2人とも会釈する。

 立ち去るワシの耳に、遅れてノソノソ出てきたお婆ちゃんが、「アンタ、私の分は払うで」と言ってる声が聞こえる。


 何言ってんねん、そんなこと気にせんで…


 のあたりで、寒風が言葉をさらっていった。


 少し歩いて、何となく気になったワシは振り返った。

 すると、反対方向に歩いて遠ざかる親子の後ろ姿。

 狭い道を通る車から小さなお婆ちゃんを守るように、息子さんが庇って歩く。

 お婆ちゃんが、シワシワの手で息子さんの腰をボンボン、と叩くのを見て。


 なんか、泣きたくなった。


 

 ワシが見たのは何か特別なものでは無いと思う。

 日本中、いや、世界中で同じような、ささやかでいて尊い愛の営みが、人々の心を暖めているのだろう、とワシは思う。



 唐突だが。

 JWの罪深さは、こーゆー世界中に溢れる親子愛を掠め取っていっていることだ。


 JW同士でも、親子愛は、あるには、ある。

 信者同士で強い親子愛で結ばれている人がいることも知っている。


 しかし、一度片方が教団から距離を置いたら、その関係は突然無効となる。

 リセットボタン押すかのようにその愛は、今までの関係性を無しにして、互いを他人、いやそれ以下の関係にするよう求められる。

 もっと言えば、憎しみの対象にさえ落とすように求められる。


 どんな大義があってそんな罪深い所業を押し付けるのか?


 それは一重に、短期間で隆盛を極めたカルト教団が、その教団の求心力を維持するためだけに考え出された、利己的浅知恵の産物に過ぎない。


 解体すると。

 一部の指導層の爺が自分の地位を不動のものにするため。

 潤沢な資産で教団ハードを維持し続けるため。

 と言った、バカバカしい理由に翻訳できる。


 脱塔して驚いたのだが、2世脱塔者の実に多くの人達が、この浅バカ知恵で、「親孝行」の権利を剥奪され、その事に胸を痛めている事を知った。


 親から忌避されている、考えられないほどの冷たい言葉をかけられる、嫌われる。


 そんな事が、宗教の真理の名の下に、公然と行なわれている。

 何という、悲劇。


 終末が来る、とか。

 統治体が全て、とか。

 ヒゲ許可制、とか。


 バカで意気地なしの教義の掃き溜めは、笑って流してやろう。


 が。


 親子の愛をイタズラに破壊して回る愚行は、万死に値する、人間の尊厳への挑戦だ。

 許せない。


 親孝行は、時間的有限の愛情表現だ。

 それを忘れてはならないと思う。




 故郷を離れ、日々の忙しさの中、ふと実家にいる年老いた親の事が頭をよぎる。


 そして。


 親孝行って何?って考える。

 でも、それを考えようとする事がもう、親孝行なのかもしれない。


 そんな思いが頭を巡って、ふと慰められる。

 次帰ったら、メシでも一緒に行くかな…と。

 

 そんなナチュラルで人間らしい、地味な家族愛の表出が。

 人の心を幸せへと導くのだ、と。



 すでに両親を見送り、既に有限が尽きたワシは、思うのです。



 オヤジ。

 オカン。


 会いてえよ。

 

 自分もそっちにいったら、ゆっくり話そうぜ、的な言葉を吐くドラマの大根役者のようなセリフが、思わず口をついてしまいそうな。



 そんな冬の午後。

 ワシの知り合いで、とある同年代アラフィフ現役2世さんが、ひどーく落ち込んでいるらしい。


 彼は地元会衆の調整者で、大都市奉仕(あの、カートのやつね)にも選抜され、巡回区単位の大会では、ほぼ毎回プログラムを扱うレベルの、ローカルでは主要なタイプの方で。

 普段からとても温厚かつ、ソフトな、ガチ2世。


 そんな彼が、何に落ち込んでるの?と。


 現役親族曰く。

 夏の地区大会でプログラムが当たらなかったから。

 おまけに自発奉仕も何も当たらなかったから。


 はい。終了笑


 大会のプログラムが当たらなかったのは、彼の中では必死に咀嚼して、巡回区を跨ぐ大規模大会だから、選外になっても仕方ない、と自らを言い聞かせたようだが。

 自発奉仕に全く声がかからん事に、トドメを刺されたようで。


 いやー、全力で、知らんがな!な話なのよね。



 で、傷付いた彼に追い打ちをかけたのが、このワシ、ほすまんだったようで。


 そーいえば、夏前に彼と会った時、ワシは彼に「地区大会はなんか割り当て当たってるんすか?」って聞いたんですね。

 彼は、「大規模大会だから殆どが巡回監督やベテル派遣が扱うので、当たらないよ」的な返事をしてたような記憶がある。


 まあ、ワシはそもそも彼と2人になったタイミングで間を埋めるために上の空で聞いた質問だったし(←失礼よね笑)、彼が大会に出ようが出まいが、どーでも良いし。

 というか、そもそも大会になんて10年以上行ってないし、勿論今年も行く気も無いから。

 テキトーに相槌を打っただけでその話は終わったように記憶している。


 が。

 その反応が、彼の憂鬱に拍車をかけたんですって。


 なんや、そら。



 まあ、でも、バカにするなかれ。

 彼の落ち込み様は激しく、かれこれ春先から半年くらいこの事で、ウジウジウジウジウジウジウジウジしてるらしく。

 彼の妻曰くに、この様子を見ていると、将来的に、何かの事情で長老職を降りるような事があれば、彼は自殺してしまうのではないか、と。

 それくらい真剣に心配しているらしい。



 あのなぁ。


 目立つ職を欲する姿勢がそこまで露呈している時点で、彼は宗教家失格だよ。

 他宗派や「パリサイ派」のそーした傾向を散々断罪するくせに、オメーラの方がよっぽど罪深いじゃねーかよ。

 それに自発奉仕が当たらない?

 当てられるの待ってる時点で「自発」じゃねーよ。

 それにそんなに自発奉仕したいんなら、当日会場で申し込んだらすむやろ?

 アンタが望んでるのは自発奉仕でなく、名誉職なんだろ?ってバレバレやないの。

 だからね、アンタには信仰なんか、ないのよ。

 とにかく、独自のパラダイムの中でのキャリアアップで虚栄心を満たすだけの、俗人まみれの思考を源泉とした、とんでもない偽善者なのよ。


 と、まあ。

 一通り毒付いたところで。


 ふと。

 少し可哀想にもなる。


 そう。

 ワシはちょっとだけ優しいのだ笑


 ひたすら「教団内」の価値観でしか物事を測れず、自己評価もその価値観に束縛される彼のような人間は。

 自己獲得型の信仰では無く、環境適応型の2世信者にありがちでもある。


 こーゆー偏向な人生でも、ある程度の歳を重ねれば、自分の名札は教団の中でしか通用しないことを、よくよく理解しており。

 故に、この業界内で立身出世しなければ自尊心を保てないことも、良く理解し、意識しているのだろう。

 

 ワシも信者だったので、教団内の空気感は、よく分かる。

 そう。

 大会は、わかりやすい男性陣の品評会なのだ。


 割り当てを授けられるという事は、教団内の序列が相対的に高いことのバッジとなり、末端信者の羨望の眼差しを一身に受けるシステムで。

 もちろん、そんなことに無頓着な層が一定数いるのは事実だろうが、殆どのオスは、自分が栄光を受けるに値することを、そのような機会で証明したいと、無意識にであっても、強く願っている。


 だから、その不健全教団の申し子とも言える件の彼が、落選を悲しむのは、「あちらの世界の価値観」に染まったことのある者なら、ある程度は理解出来るのだ。

 同情は全くしないけど。


 でも、考えてみれば。


 反社会的でリスペクトもされないアメリカ生まれのちっぽけな異端カルトの中で、キャリアアップに翻弄される彼を俯瞰すると、情けないし哀れになる。

 某オームが数千人の信者仲間の中で「〇〇大臣」とかと大仰に役職を呼称して出世争いをしていた、笑えないカルト事案と、その構造は全く変わらないじゃないか、と。


 悲しくなる。


 若いやつなら、「しっかりせえ!」と叱り飛ばしたくもなるが、彼は悲しき中年。

 サラリーマンならそろそろ退職も意識する年齢になってるのに、その体たらく。

 もう、施しようのない有様なのだ。



 生きていくのに自尊心は必要だし、一般社会でもキャリアを大事にする人はたくさんいる。


 かく言うワシもサラリーマン稼業な訳で。

 職員名簿を眺めて、こいつとこいつが引退してくれないと、ポストが空かないやないか!とか思ってる。恥ずかしながら。


 だから、まあ、そーゆー野心は構わんとしても。



 アンタら、そーゆー「人の上に人を作らず」的な顔して善人ぶってる教団なんだから、せめて露骨に出世の有無で落ち込んだり、苛立ったりしないでくれよ。ホンマに。

 見てられないよ。


 自殺してしまうかも?

 そんなちっぽけな事で、なんて事を言い出すのよ。

 生まれ変わったら、閻魔さんにゲジゲジにされるぞ。



 にしても。

 こんな事でひどく落ち込む彼を見ていると。

 カルトって、ホンマにね。


 壮大な、人生の無駄だと思う。

 笑えない茶番だと思う。

 幼稚な大人ごっこだと思う。


 今回のことを経験して、尚のこと、そう強く思いましたね。


 ワシは、遅ればせながら足を洗えて、本当に良かったわ。ホンマに。ふぅ。




 さて。


 で。

 えーとね。


 ワシも今。

 実は、ちょっと落ち込んでます。


 と言うのもね。

 昨晩、西田ひかるさんとLINEで連絡先交換したのに、目が覚めたら、夢だったと気付いたの。

 あんなに、リアルだったのに。

 少年時代に買った写真集にサインまでしてもらったのに。

 マジで嬉しかったのに…


 ↑中年の悩みって、この程度が可愛らしくないですか?


 今度、その長老にマジ顔で相談してみようかな。

 ひかるちゃんとのLINE交換、幻になったの、って笑

 どんな顔するかな。



 でも、今朝方はマジでちょっとショック受けてたもんね、ワシ笑。




 ではでは、皆さん、今週も、明るく、バカバカしく、頑張ってまいりましょー✋



 

 義実家へ帰る機会に、現役の皆さんと、望まざるコミュニケーションが求められるケースがあります。


 先日の訪問の際にも、そんな貴重な機会が与えられたことは、大きな特権でした😤

 そう。

 義親族家を訪れる霊的な姉妹達笑と、コーヒー片手に、噂話に花を咲かせたのです。はい。


 そこで話題になったのは、↓の記事でも書いた、某長老家庭の3世女子に関する話題でした。


『崩壊メカニズム』今日から5月ですね。 早いなー。 新しい生活を始めた方々も、そろそろ慣れつつ、しんどさが溜まる時期です。 皆さん、いかがお過ごしですか? さて。 先日、義父…リンクameblo.jp


 ↑の記事で言及した3世女子のメンタルはその後も一進一退との事ですが、なんとその家庭のもう1人の3世、妹ちゃんも現在心を病んで、不登校中だ、とのことで。残念でなりません。

 そして、妹ちゃんの不登校理由も見事にお姉ちゃんと同様に、部活をめぐる親とのトラブルが発端で。

 親に正式な許可を取らず、勝手に運動部に入部した妹ちゃんでしたが、週末の「霊的活動」を優先するとの公言を友人に出来るほど熱心党ではなかったため、家族や会衆の面々からの冷たい反応に加え、煮えきれない彼女の態度に業を煮やした先輩や同級生から冷遇され、学校での居場所も無くなってしまったようで。

 なんとも、気の毒です。


 そんな話を聞かされるワシの複雑な思いとは裏腹に、「霊性の高い」主婦達は、そんなメンタル女子2人を抱える長老家庭を批判的に論じ、「部活をさせるなら、子どもともっと話し合って、証言を条件にするとかしないとねぇー」と、盛り上がっております。

 現役婦人達は盛んに、親子のコミュニケーションを取るなら問題は未然に防げたはずで、組織もそのような「質の高い」親子関係を推奨している、と。

 聴くことに早く、憤ることや語る事には遅くあるべきだ、と。

 そんな薄っぺらなロジックを口角泡を飛ばして語り、大いに正義感を満足させている様子でした。


 いつものようにワシはもう、こーゆー連中の話を聞くとワナワナしてきてしまい笑

 

 最近では、わざと現役連中がワシの前でこの手の話題を選んでいるのではないか、と疑いたくなるくらいですが。

 我慢できず、「ちょっと待て」と✋を挙げて、その話題に切り込むのでした。


 ワシは、そのご婦人方に尋ねました。


 話し合いが大切とか、親子が納得の上で子どもの行動を決めていく、っていうプロセスを勧めることは、良い事だと思う。

 が。

 それは本当に話し合いなのですか?

 結論ありきではないのですか?

 話し合いをした結果、子どもがどうしても部活に入りたい、という結論を曲げなかった時、その結論を認めてやる覚悟は、親の側にあるのですか?

 皆さんは「話し合い」の結果、件の長老家庭の娘達が結局部活に入って、週末の集会を休むようになっても、そのプロセスを踏んだ事だけを持って、その結論を賞賛するのですか?


 答えを聞くまでもありません。

 違う結論を受け入れるような覚悟は、JWの親の側にはないのです。

 特に長老親なんて、子どもの気持ちを受け止める覚悟なんて、全くないでしょう。


 だからね。

 最初から皆さんの言う「話し合い」って、子どもの気持ちを尊重する事を前提としてないでしょう?

 組織の推奨する答えを導くための「戦略」じゃないですか。

 答えが決まってるなら、話し合いなんて無駄ですよ。

 まあ、気持ちを吐き出させる事で子供の気持ちが楽になることはあるかもしれん。

 でもね、子どもたちは、親や、会衆の面々が求めている答えが分かっていて。

 そして、自分の主張を聞く気がない事を知っているんですよ。

 だから!

 たから!黙って部活に入るんですよ!

 苦肉の策なんですよ!

 その時点で子どものSOSに気付いていない親なんて、親の資格ないですよ!

 部活に黙って入ることを暴挙のようにおっしゃいますが、子どもたちは、もしかしたらなし崩しに事がうまく進むかもしれん、という。

 一縷の可能性にすがり、それに賭けたんですよ。


 まあ。

 相変わらず、シーン、です。


 そこで1人の熱心党姉妹が、自分の子どもは運動部に入ったけど、入部を決める前に、長老だった父親と話し合い、「先生や友人に証言する事」「週末の霊的活動を優先する事」という条件付きで入部し、忠誠を全うした、的な抵抗笑をしてきました。


 あのなー。

 そーゆー子もいるし、そーじゃない子もいる、っていうだけよ。


 ワシは、身体の成長と共にこころの成長にも、各自大きな差がある、と。

 ましてや、信仰などと言う、普通の思春期が両立し得ない重荷を親の意志で背負わせておきながら、12、3の子どもに、一体どこまで求めるのか?

 皆さんは、人の信仰には個人差がある事や、自分の考えを他人に押し付けない事などを度々学んでいると思うが。

 だったらなぜに、子どもには13歳という決まった年齢において、全員同じ決定をするよう求めているのですか?


 抵抗してきたご婦人は憮然としておられましたが…

 

 親子のコミュニケーションをベースに、人生航路を定めていこう、という教えは立派だ。

 そして、本当にその教義を評価していると言うのなら、そのコミュニケーションを通じて導き出された答えをきちんと受け入れろよ、って話ですよ。


 コミュニケーションを勧めるくせに、親の思い通りの結論になる事しか考えないなんて。

 それは、自分の望む答えを手にしておきながら、なおかつその答えは親が押し付けたのではなく、「子どもが自分で決めたのだ」という、強制による罪悪感から逃れたいだけの、とんでもなく利己的な発想ですよ。


 コミュニケーションの結果、子どもが部活に入れ込んで、集会に来なくなっても、そのプロセスを踏んだ事をみんなで評価して、それこそ励まし合えるなら、素晴らしい事ですが、皆さんにはそんな光景想像できますか?


 ワシは最後に。

 皆さんは最近、ずーっと離れてても、大患難の直前に戻ってきた人をイホバは救ってくださる、的な事を学んだんでしょ?

 ならば、もっと鷹揚に構えてりゃええでしょーに。

 部活程度のことを禁止して、子ども達を病ませるのは、結局、子どもの人生を台無しにしてしまいますよ。

 最後に救われることが究極の目的なんであれば、その可能性のある子どもたちが、「最後」の前に少々信仰の弱さを露呈しても、大きく構えていればいいじゃないのよ。



 まあ、ご婦人方は不満げな表情をしつつも、断定的に話すワシにこれ以上言っても仕方がない、とでも思ったのでしょうか、それ以上抵抗はしてきませんでした。



 それにしても。

 よくもまあ、いつもこんな対決?姿勢での話ばかり現役さんとできるね?的な事を言われることがあるのですが。

 もちろん、こんな話ばかりしているのではありません。


 この日も、かれこれ4時間前後もこのご婦人方と他愛もない話をしており。

 その時間の中では、ワシの良心の許す範囲で彼らの信仰を褒めたり、励ましたりしつつやり過ごすピースタイムも多くあるわけで。


 だからこそ、時々ワシがいても現役さん達はある程度無警戒に、その交わり笑を繰り広げてくれるのです。

 どちらかと言うと、ワシが主張を始めるのはレアな部類なのです。

 ただ、ワシの前では、子どもの話は暫くしないかもですね。


 この会衆では、件の長老家庭の2人以外にも、同じ中学に通う別の女の子もメンタル不調で不登校になっているそうで。


 ホンマに、なんちゅう宗教や、と。

 学校で噂になっているのではないかと思います。



 という事で。

 親子のコミュニケーションをとれ、とか偉そうに他人に諭したり説教したりするなら。

 その結論を受け入れる覚悟くらいせーよ、という。


 至極当たり前の教訓?を。

 か弱き子羊達に授けてやった😤的な。


 ワシの「経験」でした。

 お粗末さまでした。