(8) 昭和18年頃の一般人が抱いていたマラリアの知識
マカッサルの飛行場から飛び立つと奇怪な山脈と原始的な水田を見おろしつつ、機は、北へ向かった。
私は二枚毛布で軽く身体を包み震えていた。
やがて、葉椰子の屋根でなくて、文化の高いブリキ屋根が転々と見えるところへ来て、機は旋回を始めた。
そこが、南方では
『バリ島かメナドか』
と云われるメナドの飛行場であった。
しかし、私は、おりて、休憩室へ行って茶を啜る力もなかった。
私は機翼の下の日影にごろりと寝て、ヘルメット帽を顔にかぶってしまった。
そこで私は、民政部金子嘱託の邸宅で、彼の自製のうまいするめをかじりつつ、きいた話を思い出したのである。
『メナドへおりると、禿のなおる温泉があり、そこには、我々の心を一層郷愁へかりたてる薄(すすき)が一面にさき乱れている。
ここでは、日本語が南方で一番普及されている。
最初ここへ来た日本の某僧侶は、土地の教師を指導して、僅か6ヶ月に、国定教科書巻五までを教え上げたと云う。
この教師のもとに、大勢のメナドの子供たちが急速に日本語を覚えこんでしまったので、我々よりも日本人かと思われる子供たちがいる。
娘も亦、はにかむところ、眼差しのあたり、内気な日本娘に似ているところが多く、しかも頭脳の緻密の点では、南方ずいいつであり、あらゆる地方に発展し、それぞれの分会を持って、活躍している。 ・・・』 |
↑出典:『海軍恤兵雑誌 戦線文庫 第53号』(発行所:興亜日本社。昭和18年3月1日発行。毎月1回発行。非売品)(←海軍省恤兵係監修のもとに戦線海軍将兵慰恤のため国民の寄せられたる熱誠なる恤兵金を以て、作製、配布したもの)p 84-87の『現地特報 メナドででんぐ熱になやみ、ダバオへと飛び、新生マニラへ向ふ記 でんぐと南方飛行 大東亜一周の手紙 その5 戦線文庫主幹海軍報道班員 大島敬司』の『でんぐ熱下のメナド 川端康成様』
↑著作権の保護期間が満了しているので、転載自由とする。わかりやすくするために、表現を変えたところがある。
↑メナド:マナド(Manado)とも表記する。インドネシアのスラウェシ島北東部にある。
ダバオ(Davao):フィリピンのミンダナオ島南部にある。
マカッサル(Makassar):ウジュンパンダンとも表記する。インドネシアのスラウェシ島南西部にある。