フライドチキンと海のおと。 -3ページ目

lullaby  その7

『覚悟していたこととはいえ、彼の落ち込みは相当なものだったようです』



食事の量も減り、Rはげっそりと痩せた。



「しばらくウチに預けたらどう」



Rの母親はそう言った。
だが彼は断った。
昼間はずっと母親が赤ん坊を見に来てくれていたが、
夜、仕事が終わると必ず引き取ってアパートに帰った。
Wさんと二人で育てると誓ったのだ。
彼女が命を懸けて産んだ赤ん坊なのだ。
どんなに苦労しても、
必ず自分の手で立派に育ててみせる。
Rは心にそう言い聞かせた。





とはいえ、若いRに単身の子育ては過酷そのものだった。
慣れないことだらけだ。
抱き方に気を付ける。
寝かせ方に気を付ける。
お風呂や食事などなおのことだ。
こと、夜泣きは体にこたえた。
毎晩毎晩、アラーム機能でも付いているかのごとく赤ん坊は泣いた。
ほとんど眠れない夜が何日も続いた。
そして寝不足の体で仕事に行き、
つまらないミスを連発した。
事情を知っている上司や同僚は同情的だったが、
それでもRは自分を責めた。
こんなことはどこの家でもやっていることだ、と。
二足のわらじが履けないのは自分が不甲斐ないせいだ、と。


睡眠不足からぼんやりしていて、
後輩に軽い怪我を負わせてしまったこともあった。
Rは毎日会社で頭を下げ、
疲労困憊してアパートに帰っては、
泣き止まない赤ん坊と時を共にした。
たまらなくなり、
ほとんど飲めない酒にも手を出した。


Rはストレスと疲れとアルコールにまみれていた。
<つづく>


lullaby  その6

『二人は時間をかけて何度も話し合ったみたいです。そして』



結婚と出産を決意した。


気持ちを一つに束ねると、
周囲の大人達を熱心に説得した。
両方の親に強く反対された。
主治医からは堕胎を強く勧められた。
しかし二人の気持ちには、
もはや決して折れることのない芯のようなものが通っていた。
かくして、二人は結婚した。





Wさんのお腹が膨らむスピードに寄り添うように、
体調は加速度的に悪くなっていった。
それに伴って、
難聴もどんどん悪化していった。
Rはもともと声が大きいほうだったが、
それでもかなり大声で、
耳に口を近づけないとコミュニケーションがうまく取れなくなった。


Rは手話の本を肌身離さず、
空いた時間は仕事中でも本を見て勉強した。

Wさんは姓名判断の本を読んで子どもの名前を考えたり、
ベビーベッドやおもちゃや服を揃えたりもした。
そしてお腹をさすりながら、
ささやくような声で歌った。
歌はもちろん、
Rが生まれて初めて書いたオリジナルソングだ。





ある日、珍しくRが仕事から早く帰った。
と、窓辺の陽だまりでWさんが歌っている。
ぽん、ぽん、と優しくお腹にリズムをおくりながら。
歌っているのは、かつて自分が作った歌だ。
それはタイトル通り、
まだ見ぬ子を寝かしつける子守唄だった。



『その頃にはもう、彼女の耳はほとんど聴こえなくなってたみたいです』



それは顕著に、彼女の歌声に表れていた。
明らかに調子が外れているのだ。
もう自分の声を耳で拾うことができなくなっていた。



Rはそっと近づき、
後ろから優しくWさんを抱きしめた。



「愛してる」



Rは蚊の鳴くような声で告げた。
それはWさんに届くはずもない音量だった。
だがWさんは少しだけRの方に顔を向けると

ゆっくりと手話を操った。



“あたしも愛してる”




それから数週間後。
二人に娘が産まれた。
そして娘の誕生日は、
同時にWさんの命日となった。
<つづく>

lullaby  その5

『そうならないように二人とも気を付けていたんです。でも』



その夜に限っては、
Wさんが美しすぎたようだ。
愛し合っているからこそ避妊は徹底していた。
しかしその夜だけは、
0.05ミリの化学物質に互いの体温を少しでも奪われたくはなかった。
無粋でリアルなビニール素材に邪魔されるには惜しい、
あまりに美しすぎる夜だったのだ。
その日は、Wさんの誕生日だった。



「俺と結婚してほしい」



Rは言った。
もし子供ができていなくても、
卒業したら絶対にプロポーズする気だった、と。


Wさんは大きな目で数秒間Rの顔を見つめ、
ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。



「……ごめん……ほんとごめんね……」



結婚はできない、とWさんは言った。
とても大事な話を、まだRにしていないという。





Wさんの心臓には深刻な欠陥があった。
それは遺伝的なもので、
彼女の母親もWさんを産んですぐに他界している。



「ひょっとしたらあたしは大丈夫かも、って思ってたんだけどね……」



しかし、Wさんの体にも病の予兆は現れていた。
これ以上好きになってはいけない。
体の関係も持ってはいけない。
もちろんわかってはいた。
だが皮肉にも、
Wさんにとって最も大切なRという存在が唯一、
彼女に“自分は永く生きられない”という過酷な現実を忘れさせた。



Wさんの話をじっと聞いていたRは、
泣きじゃくるWさんの体をしっかりと抱いた。
か細いWさんを潰してしまいそうな力だった。
そしてRはWさんの鼓膜だけではなく、
体をも震わせるような大きな声で言った。



「俺と結婚してほしい。お前の子どもが欲しい」
<つづく>

lullaby  その4

Wさんから想いを告げられた時、
もちろんとまどいはあった。
何しろ純粋な彼のことだ。
二人の関係が壊れることを恐れていた彼のことだ。
しかし、もちろん断る理由などあろうはずもない。
二人は恋人同士になった。
出会って十七年目のことだ。





家も近所だった二人は、
それからはさらに頻繁に会うようになった。
映画に行ったり買い物に行ったりもしたが、
歌うことも忘れなかった。
スタジオに入ったり、
以前のように河原に行って二人で歌った。


Wさんは歌が上手かったし、声も美しかった。
Rの演奏は依然として拙かったが、
自分の弾くギターに合わせて彼女が歌ってくれているという事実に、
Rはただもう感動していた。


きれいな声だなあ、
毎日でも聞いていたいような声だなあ。


そう思い、満ち足りた気分でRはギターを弾き続けた。





lullaby以外にも、
Rはそのあと何曲か書いた。
いずれもWさんのために書かれた恋の歌だ。
そのどれもがWさんには愛しかった。



『まあでも、彼が初めて書いた曲には敵わなかったようですね』



深く印象に残っている曲と言えば、
やはりlullabyなのだ。
曲の完成度でいえば、
最初に書かれたこの曲が一番低い。
しかしその拙さゆえに愛着も強くなり、
その後もずっと彼女にとって忘れられない曲となる。



二人の蜜月は続いた。
高校を卒業し、少ししてからWさんは妊娠した。
もちろんRの子だ。
<つづく>


lullaby  その3

Rはしばらくののち、
初めてのオリジナルソングを書くことになる。
“LOVE SONG”が何とか弾けるようになり、
自信をつけた彼は無謀にも作曲にチャレンジしたのだ。


たった一曲しか弾けないのにオリジナルなんて大丈夫?
そうWさんは聞いたが、
Rは自信満々だった。
もうメロディーは思いついている、とのこと。




それから三日後。
彼は一枚のルーズリーフをWさんに見せた。
歌詞だった。
詞の一行上には詞に添わせるようにギターコードも付いている。
何度も消しゴムで消した跡があった。
一番上の行には、



“lullaby”



と書かれていた。
この曲のタイトルだ。
さっそく放課後の教室で、このlullabyをRは弾き語った。



『でも彼女にとっては、ちょっと残念な完成度だったみたいですね』



その曲は“LOVE SONG”によく似ていた。
十人が聴いたら七人くらいは、


「これってチャゲアスの“LOVE SONG”に似てない?」


と言いそうな曲だった。
だがRは真剣そのものだ。
一心に歌った後、彼は不安げにWさんの顔を見た。



「……どうかな?」
「……いいんじゃない? あたしは好きだよ」



Wさんはそう言った。
それは本心だ。
チャゲ&飛鳥の曲に似ていようがいまいが、
このlullabyは世界にひとつの“Rが初めて書いた曲”なのだ。
その事実に偽りはなく、
またそれがWさんの心に響かないはずがなかった。


彼女のオーケーを聞いてRは満面の笑みを浮かべ、



「だろー? 自信あるって言ったろー?」



と言った。
その笑顔が、その言葉がWさんには可愛くてならなかった。



『その辺りで、もう彼女は自覚していたんだと思います』



自分がRに恋心を抱いている、と。
<つづく>