防衛庁再生宣言 | 前山和繁Blog

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このごろ、過去に書いた記事の誤っている箇所が気になり始めてきた、直したい箇所もいくつかあるが、なかなかできないでいる。

英語学習の記事も時折書くことにした。

防衛庁再生宣言/太田 述正



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『防衛庁再生宣言』 太田述正(おおた のぶまさ)






防衛庁再生宣言というタイトルですが日本国防再生宣言とでもいうような内容です。







吉田ドクトリンをめぐっての考察が本書の重要な点でしょうね。







内容は、自衛隊の予算の付け方の非効率の問題と編成の偏りの問題。防衛大学校の改革案。戦争と民主主義の歴史の確認からシビリアンコントロールの考察。軍事支出の経済効果。米国社会に浸透しているプロテスタンティズムの話題。アングロサクソンと日本の比較文化論。その他。と多岐にわたっている。







『防衛庁再生宣言』はあくまでも一般書であるが、ここまで密度の高い内容をおそらくは一人で書き上げたのだろうから、太田述正の教養の高さはかなりのものである。だから、しっかりした本をもう少し出してほしいものだ。







『防衛庁再生宣言』の記述をめぐって瑣末な間違いがあまりにも、大げさに追及(?)、というのか文句がついた事件があったようですが。記述の間違いを訂正するという行為は単なる校閲のような行いであり、非難をしながらされるべきではない。







太田述正は第一章で日本の自衛隊とイギリス軍の防衛費のパフォーマンスの比較を行っているのですが、その章の中に記載されている『The Military Balance 2000/2001』に基づいた数字が不正確であるとして、一部の読者から追及をされたことがある。なぜか反感とともに。どんな本でも何がしかの誤りがあるのは当然だし、指摘がきたら直すのも当然だとも思う。ただし指摘するほうは説得力のある指摘をしないと通らないだろう。







しかし、数字の誤りを正してもなお、自衛隊の防衛費のパフォーマンスはイギリスと比較して非効率である、という事実が明瞭になった。







要するにイギリス軍は外征型の軍隊であり、軍隊を自国の外に出動させ機能させる目的で編成されている。それに対して自衛隊は自国の外に人員も正面装備も国外へ出せるような編成になっていない。自衛隊は軍隊と捉えたときに有効に機能するような編成になっていない。







『防衛庁再生宣言』に記載されている数字が修正されても、されなくても自衛隊の人員や正面装備の編成はバランスが悪くパフォーマンスが非効率である、と観察できる。





私は軍事や兵器に疎いので、あまり細かい記述はできませんが、航空自衛隊とイギリス空軍の航空兵力の比較について考える。







『防衛庁再生宣言』の記述ではイギリス空軍の戦闘機は757。航空自衛隊の戦闘機は300。となっています。ただしイギリス空軍の戦闘機757機というのは誤記だったようで、ミリタリーバランスの記述に従って訂正すると657機になるようです。







この数字を仮にイギリス空軍500と少し。航空自衛隊300と少し。(なぜ、そんなふうに修正したのかという追及がきたとしても、なんとなくそんな印象がしたからとしか言えません。すいません)とでも修正してもなお、イギリス空軍の航空兵力の分母は航空自衛隊よりも大きい。航空兵力の分母が大きいという事はそれにふさわしい数の整備スタッフやパイロットが存在することを意味するのだから、やはりイギリス空軍の地力は航空自衛隊より一段上だろう。パイロット一人当たりの年間飛行時間もイギリス空軍が192199時間であるのに対して、航空自衛隊のパイロット一人当たりの年間飛行時間は150時間であり、差がついている。







航空兵力の地力というのかベーシックな能力が高いということから読み取れるのは、イギリス軍はドクトリンの変更にあわせて使用する機体を変更するのが容易だろうし、空軍全体を再編する、という命令が降りてきたときに空軍に所属するスタッフがその命令に対応するのが容易であるだろう。といった事柄である。







航空自衛隊では航空兵力の分母自体が小さいので、再編をするのも容易ではないと思う。『防衛庁再生宣言』には航空兵力の爆撃能力の向上をはかるには戦闘機の改修で対応できる。という趣旨の記述(57ページ)が見えます。しかし航空自衛隊のパイロットが何人用意されているのか私は知りませんが、爆撃任務専門のパイロットを余分に確保しなければいけなくなるし、爆装した機体は重量が増加するので航続距離が低下しますから空中給油機もいまよりも多く持つ必要がでてくる。だから航空自衛隊が有効性を持つ爆撃能力を獲得するのは簡単ではないと思います。







ということは邀撃任務一本槍という太田述正の見立ては正しいし、その能力の偏りは簡単に矯正できないのだろう。航空自衛隊と海上自衛隊の航空兵力は対潜水艦攻撃能力や対艦攻撃能力も過剰に過ぎるほどに高く、自衛隊はバランスの取れた兵力の運営というのか運用のしかたを飲み込んでいないのだろうな、と勘繰りたくなってくる。







おことわりしておきますが、太田述正はイギリス軍と自衛隊の防衛費のパフォーマンスの比較をしたのであり、戦力比較と言うのとも意味合いが違っているはずです、誤解なきよう。





『防衛庁再生宣言』の内容から離れますが、もし湾岸戦争やイラク戦争でイギリス軍が引き受けた任務を、自衛隊がかわりに引き受けることができたであろうか。そんな疑問が浮かんだ。おそらくは無理だったのでしょうけどもね。







トータルシステムとしては使い物にならない自衛隊(41ページ)という指摘は正しいように思えて仕方がない。










そして、太田述正は、このトータルシステムとしては使い物にならない自衛隊をつくりあげた元凶は吉田ドクトリンであると重要な指摘をしているのである。







太田述正は、日本はアメリカの属国になっている。と観察し、日本は国として自立しなければいけないと説く。日本がアメリカの属国だとは以前からよく言われていたと思いますが、ここまでしっかりと観察したうえで発言した個人はあまりいないだろうから『防衛庁再生宣言』は貴重な書物である。似たような主張としては岸田秀も『官僚病の起源』で日本はその成り立ち以来首尾一貫して植民地である、という観察をしていた。







『防衛庁再生宣言』に戻りますが、日本が国として自立を果たすための方策が詳述されているのですが、思いやり予算の減額、全廃にも話題が及んでいる。







思いやり予算は日本がアメリカのいいなりになっているから支払っている、というのとも違っていて、日本政府が自発的にアメリカ軍に対して、お金をくれてやっているのに近いようだ。そして日本政府がアメリカ軍にお金をくれてやっているからというので、必ずしも日本の国防にプラスになっているのではなさそうだ。







在日米軍の縮小案も用意周到に考えられている。もっと早くから、本書を読んでおけばよかったという気になった。







戦争と民主主義を論じている箇所がありましたが。ギリシャ時代には国民国家が発明されていなかったので、当時の民主主義とされる統治方法は国民国家が発明されて以後の民主主義と同じではないですね。もちろんそれは誰でもわかることです。私が何を言いたいのかというと。「国家は戦争をするためにある。戦争ができないのは国家ではない。」という歴史家の岡田英弘の指摘(『歴史とは何か』176ページ)などを想起して、では国民国家の役割の考察、国民国家の意味の変容の問題にも話題が及んでほしかったということです。EUと国民国家の関係の問題と軍事の問題も考察があれば内容がなお充実したと思いますが、2001年の時点ではそこまで考えるのは難しかったのかもしれませんね。





2010年現在、世界人口の半数程度が都市人口のようだし、今後の世界では都市人口の絶対数も比率も間違いなく上昇する。都市人口の増加という形で世界の人口構成が変容すれば、国民国家とその常備軍の役目も必然的に変容するだろう。都市は国民国家の発明以前にあるものだから国民国家がなくとも人々は経済生活者として生きられる。都市人口の上昇と軍事の関係についても論じることができたら、大きい意義を持つだろう。







私には大した意見は言えませんが、都市が高度に発展した世界では旧来型の軍隊は、世界の経済にとって害以外の何者でもないので世界の軍事は変わると思います。一つの都市の機能が停止すればそれだけで世界の経済へ何がしかの打撃になる。という事は十分ありうるので。正面装備をぶつけ合う戦争は、今後は滅多に起きなくなると思います。







軍事支出の経済効果の章では高橋是清の名前が見える。経済学の分野でも高橋是清の経済策については評価が分かれているようですから私の意見としては特に言えることはないです。ただし、もはや正面装備をぶつけ合う形の戦争はあまりにも経済のロスが大きいので、もはや国の経済にプラスになることはないでしょうね。







イギリスと日本の文化比較については納得いかない箇所が目立ちます。イギリスの人々は魔女狩りはしていないかもしれませんが、アフリカや中東やアジアなどで、残忍で冷酷な所業を重ねてきたのですから、多元主義と寛容の精神を持っているという主張は受け入れがたい。







また日本についても、日本とは時代的にも地理的にもどこからどこまでかという問題を明瞭に答えていない雰囲気がある。だから和人によるアイヌ人への征服行為などの歴史もあるし。それに似た例は探せば多く見つかると思う。日本もまた多元主義と寛容の精神を持っているとは言いがたい。







日本のエリート教育の問題について旧制高校のあたりから「全エリートが文武両道を身につけた、日本の武士的伝統は断絶(200ページ)」と記述があります、しかし誰でもわかると思いますがいわゆる武士的伝統というのはそもそもフィクションでしょうね。養老孟司にしても橋本治にしても、江戸期の日本には身体(思想)が消失している。江戸には身体がない。という観察を『日本人の身体観の歴史』『身体の文学史』や『江戸にフランス革命を』でしていました。







養老孟司にしても橋本治にしても日本人の身体思想、身体観について現代日本は江戸時代の延長上にあると観察しています。養老孟司は戦時中でも日本人の身体思想の欠如が様々な場面に現れていたという観察をしていました。





日本は江戸時代のころから身体思想の欠如の問題を抱えていたようなので、武士道などありえなかったと思います。





続く。









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