
5434日目
おはようございます。今日で震災から5434日目です。
武術が戦時における身を護るための術と定義するならば、「出来ない」=「死」となります。
道場生に教えている空手は「武道教育」としてですが、私個人の求める空手は武術としての空手で、そこは明確に分けています。
出来ないから仕方がないという姿勢は、自身の命を簡単に諦めるというのと同義です。
なので「出来るまでやる」という選択肢以外は存在しないのです。
そして「命懸け」とは万物に精通する根となります。
野生の動植物、生きとし生けるモノたちは、全て命懸けです。
別にそんな意識などなくてもね。
人間は心があるので、面倒臭いことに意識しなければ、そこに気付けないようになってしまいました。
生の本質とは命懸け それに尽きると思います。
別に大袈裟でもなんでもなく、自然の摂理から見たら、命懸けであることが普通でないとおかしいと思うのですが・・・
現代の我々は、命懸けでなくても生きられる世界を構築しました。
それが人類の繁栄の元ですが、人が堕落した元でもあります。
だからこそ、そうでない世界においても本質を忘れない生き方を心懸ける中に「生」の本質が表れるのだと思います。
若い頃から、私はこういう考えで生きて来たのですが、こういう話を大人とすると「偉そうに!」とか「生意気な」と糞餓鬼扱いをされて来ました。
こういう方々に会い、罵倒されればされる程に、人間は同じ大地の上で生きていても、生きている階層は異なるのだということを知ったのです。
5433日目
おはようございます。今日で震災から5433日目です。
よくネットの書き込みで見掛けるのですが、自分と意見が違う人間が病気になったりした時に「ざまあみろ」とか病気になったことを揶揄したり喜ぶような書き込みをしている者を・・・
こういうのって見ていて本当に気分が悪いです。
あなたの言ってることがどれ程正しかろうと他人の不幸を揶揄するなんてことがあって良いわけないでしょう。
そういうことをやっている者の人間性を疑いますよ。
SNSって秘匿性があるからこそ、その人間の本性がハッキリと解ります。
誰だか判らなければ何を書いても良いという無責任な行動を取れる人間の魂がどれ程に下劣かということを万人に晒していることに羞恥心が反応しない・・・そのことが人という枠組みの中における座標が最下層にあることを示しています。
「馬〇は己が〇鹿であることに気付けないから馬〇なのである」そういうことです。
5432 日目

冷たく感じるかもしれませんが、本当にいますからね。
「言ってもわからない人」というのを説明しておくと、
話を聞くつもりがない人間
歩み寄る気持ちのない人間
というのですかね?他にも細かくあげればキリがありませんが、会話にならない人間、意思疎通に難のある人間っていますからね。
仕事なのか?プライベートなのかでも異なりますが、基本話を聴くつもりのない人間に何かを話しても意味がありませんのでね。
言ったことを聴く努力をしてくれるような方なら、こちらも努力をする価値がありますので頑張りますけどね。
わからないのと、わかろうとしないのでは天地の開きがあります。
若い頃はそういう人間に対しても真摯に向き合おうと頑張って来ましたが、報われるということはなく心身がボロボロになって終わるというのが定番でした。
そういう経験から私も少し大人になったということでしょうか?
真摯に向き合ってボロボロになった経験も良かったとは思いますけどね。
若い頃は損得抜きでそうであって欲しいという気持ちもあります。