blog no.784



タイトル : アパートの鍵貸します(1960) を観て

観た日:260602 火
放映日:260527 水
放送局:BS101

その他の情報:米。モノクロ。監督:ビリー・ワイルダー。出演:ジャック・レモン、シャーリー・マクレーン、フレッド・マクマレイ。1960。上映時間125分。

評価:★★★☆


出世の足掛かりにと、上役の情事のためにせっせと自分のアパートを貸している会社員バド(レモン)。だが、人事部長のシェルドレイク(マクマレーン)が連れ込んで来たエレベーターガールのフラン(マクレーン)は、バドの意中の人だった……。ビリー・ワイルダー監督による都会派コメディの代表作。

 

 

ニューヨークの大手保険会社で働くC.C.バクスターは、出世のために自分のアパートを上司たちの不倫の密会場所として貸し出している。夜遅くまで外で時間をつぶし、寒い道を歩きながら、いつか昇進できると信じて鍵を渡し続ける彼の姿は、哀れでありながらどこかユーモラスだ。そんなバクスターが密かに想いを寄せているのが、会社のエレベーターガール、フラン・キューブリック。明るく振る舞う彼女だが、心の奥には深い孤独を抱えている。バクスターは勇気を出して彼女を誘うが、フランは約束の場所に現れない。
その理由は残酷で、彼女が関係を続けていた相手は、よりによってバクスターの上司ジェフ・シェルドレイクだった。クリスマス・イブ、シェルドレイクに捨てられたフランは絶望し、バクスターのアパートで睡眠薬を大量に飲んでしまう。バクスターは彼女を必死に介抱し、夜通し看病する。その献身は恋の駆け引きではなく、ただ“人として”の優しさだった。フランの傍に寄り添うバクスターの姿は、ジャック・レモンの持つ温かさと哀愁がにじみ出る名場面となっている。フランを守るために奔走するうち、バクスターは自分が何を犠牲にしてきたのかに気づく。出世のために上司に鍵を渡し続けてきた自分を恥じ、ついに会社を辞める決断をする。一方フランも、シェルドレイクのような男に縛られていた自分を見つめ直し、バクスターのもとへ走る。大晦日の夜、フランはバクスターの部屋に戻り、二人は静かにトランプを始める。バクスターが愛を告げても、フランは「黙って配って」とだけ言う。派手なロマンスではなく、生活の温度が残る、ビリー・ワイルダーらしい余韻のあるエンディングである。

当作は、ロマンティック・コメディの形式をとりながら、企業社会における搾取と孤独を鋭く描いた作品である。ジャック・レモン演じるバクスターは、出世のために自宅を上司の不倫に提供するという情けない立場に置かれているが、その滑稽さの裏に深い哀感が漂う。シャーリー・マクレーンのフランは、明るさの影に自己否定を抱えた複雑な人物であり、彼女の存在が物語に重みを与えている。ビリー・ワイルダーの演出は軽妙でありながら、フランの自殺未遂の場面に象徴されるように、物語の核心には強い痛みがある。笑いと苦味が同居する構造は彼の作品の特徴であり、本作でも見事に機能している。ただし、現代の視点からは、バクスターの自己犠牲が過度に美化されている点や、女性キャラクターが男性中心の物語に従属しているように見える点が批判対象となりうる。それでもなお、ラストの静かな余韻と、二人が対等な関係に向かう瞬間の誠実さは、時代を超えて魅力を保っている作品である。


この鑑賞で、今年の映画鑑賞本数は23本目となりました。

最後までお読みくださってありがとうございました。
無理せずブログは続けるつもりでおります。どうか今後ともよろしくお願いいたします。

blog no.783

 

※「直腸潰瘍」でひと月入院して以来、訪問看護を受けていますが、どうも「腸」の調子(腸子?)が悪く参っています。久々のブログになります。「甘い目」で読んでやってくだされば幸いです。


タイトル : クィーン(2006) を観て

観た日:260530 土
放映日:260421 火
放送局:BS101

その他の情報:英・仏・伊合作。監督:スティーヴン・フリアーズ。出演:ヘレン・ミレン、マイケル・シーン。2006。上映時間104分。

評価:★★☆☆

ダイアナ元皇太子妃の突然の死をめぐり、エリザベス2世が「伝統」と「国民感情」の狭間で揺れ動く1週間を描いた実録ドラマ。王室の沈黙が国民の怒りを招き、若き首相トニー・ブレアがその危機を収めようと奔走する姿が中心となっている。

 

 

1997年、ダイアナ元皇太子妃の突然の死が世界を揺るがす。ロンドンでは人々が泣き、街は献花で埋まり、国全体が“喪失”の渦に飲み込まれていく。しかし、スコットランドのバルモラル城に滞在していたエリザベス女王は、
「ダイアナはすでに王室を離れた民間人」という立場から、国民の前に姿を見せず、沈黙を守り続ける。その沈黙は、悲しみに暮れる国民の心に“冷たさ”として映り、王室への不信と怒りは日に日に膨れ上がる。一方、就任したばかりのトニー・ブレア首相は国民の感情の爆発を肌で感じながら、伝統を重んじる女王との距離をどう埋めるかに苦悩する。彼は何度も電話をかけ、説得し、「国民が求めているのは“形式”ではなく“寄り添い”だ」と訴え続ける。やがて女王は、長年守ってきた王室の作法と、国民の心の叫びの間で揺れ動きながらも、ロンドンへ戻る決断を下す。そしてテレビ演説で、静かに、しかし確かな感情を込めてダイアナへの哀悼を述べる。その瞬間から、国民の怒りはゆっくりと溶け、王室と国民の間にあった深い溝が少しずつ埋まっていく。

当作の評価でまず挙げられるのは、作品全体が王室寄りに見えるという点だ。エリザベス女王の苦悩を丁寧に描く一方で、王室の問題点やダイアナとの確執にはほとんど踏み込まず、結果として“王室のイメージ回復映画”のように感じられるという点が多く目につく。特にチャールズの描かれ方が実際よりも好意的すぎるという指摘はよく見られる。また、映画としての盛り上がりに欠けるという批判も根強いだろう。題材が政治と王室の対応という非常に静かな領域にあるため、ドラマとしての起伏が弱く、淡々と進む印象が強い。ダイアナの死という大事件を扱っているにもかかわらず、感情の波が小さく、観客が物語に入り込みにくいという意見もある。さらに、ダイアナ本人の存在感が薄いことも不満点として挙げられる。彼女は物語の中心的存在であるはずなのに、映画の中ではほとんど“影”として扱われ、王室側の視点で都合よく処理されているように見えるという見方がある。ダイアナの人物像が深掘りされないため、王室との対立構造が十分に描かれず、物語が単調に感じられる。史実映像を多用している点についても賛否が分かれる。リアリティは増すものの、映画としての創作性が弱まり、ドキュメンタリーのように見えてしまうという意見もあろう。娯楽性を求める観客にとっては、重く、乾いた印象が残る作品になっている。総じて、当作は王室とブレア首相を好意的に描きすぎており、政治的なバランスが中途半端で、ドラマとしての力強さに欠けるという評価が多い。ただし、ヘレン・ミレンの演技だけはほぼ例外なく絶賛されるものであり、作品の弱点は演技ではなく構造にあると言える。


この鑑賞で、今年の映画鑑賞本数は22本目となりました。

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blog no.782

 

 

タイトル : コラテラル(2004) を観て

観た日:260517 日
放映日:260420 月
放送局:BS101

その他の情報:米。監督:マイケル・マン 。出演:トム・クルーズ、ジェイミー・フォックス、ジェイダ・ピンケット=スミス。2004。上映時間120分。

評価:★★★☆

ロサンゼルスの夜を静かに走るタクシーに乗り込んだ瞬間、平凡な運転手が出会ったのは冷徹なプロの殺し屋であり、彼の完璧に計算された暗殺計画に否応なく巻き込まれながら、都市の闇と孤独が二人のあいだに奇妙な対話を生み出し、やがてその一夜が運転手の人生観を揺さぶり、恐怖と混乱の果てに自分でも想像しなかった勇気を引き出し、最後には誰かの命を救うために殺し屋と真正面から対峙することになるという、逃げ場のない夜のドラマが静かに加速していく物語である。因みに「コラテラル」和訳すると「とばっちり」辺りに落ち着く。
 

 

ロサンゼルスで平凡なタクシー運転手として静かな人生を送っていたマックス(フォックス)は、ある夜に乗せた洗練された物腰の男ヴィンセント(クルーズ)が実は麻薬裁判に関わる証人たちを一晩で消すために雇われた冷徹な殺し屋であることを、最初の目的地で突然タクシーの屋根に死体が落ちてくるという衝撃的な出来事によって知り、銃で脅されながら否応なく彼の暗殺計画に付き合わされ、ロサンゼルスの夜を疾走しながら次々と標的が処理されていく中で、自分の人生の停滞や臆病さをヴィンセントに鋭く突かれ、恐怖と混乱の中で自分の生き方そのものと向き合うことを強いられ、やがて最後の標的が偶然にもマックスがその夜最初に乗せ、わずかな会話を交わした女性検事アニーであると判明した瞬間、マックスはこれまでの自分では考えられないほどの勇気を振り絞り、殺し屋ヴィンセントに反逆してアニーを救うため命がけで立ち向かう決意を固め、ロサンゼルスの夜明け前の地下鉄で二人の運命が激しくぶつかり合うことになる。

 

当作は、マイケル・マン監督が得意とする“都会の夜の孤独”を極限まで研ぎ澄ませた作品であり、スタイリッシュな犯罪映画として高い完成度を持つ一方で、構造的な弱点も抱えている。まず、最大の強みは ヴィンセントというキャラクターの異様な魅力 にある。冷徹でプロフェッショナル、しかしどこか哲学的で、都市の無機質さと完全に同化したような存在感は、犯罪映画の悪役として突出している。対するマックスは、平凡で臆病な男として描かれ、その対比が物語の緊張を生む。二人の会話は、単なる“殺し屋と人質”の関係を超え、人生観の衝突として機能している。一方で、物語の構造はやや単線的で、ヴィンセントの暗殺行脚が続く中盤はリズムが単調になりがちである。マイケル・マンのリアリズム志向が強く出ているため、アクション映画としての爽快感よりも、冷たく乾いた質感が前面に出ており、観客によっては“淡々としすぎている”と感じる可能性がある。また、終盤の展開は象徴的で美しい反面、やや予定調和的でもある。マックスが突然ヒーロー的行動に踏み切る変化はドラマとして成立しているものの、心理的な積み上げが十分とは言えず、説得力に欠けるという指摘もある。とはいえ、ロサンゼルスの夜景をデジタル撮影で捉えた映像美、緊張感のある音響設計、そして“都市に生きる人間の孤独”というテーマの深さは、同ジャンルの中でも突出している。犯罪映画でありながら、都市論・人生論としても読める多層性を持ち、マイケル・マン作品の中でも重要な位置を占める一本である。

 


この鑑賞で、今年の映画鑑賞本数は21本目となりました。

 

最後まで読んでくださって、誠にありがとうございました。

今後ともよろしくお願いします。