blog no.775

 

 

タイトル : 慕情(1966) を観て


観た日:260405 日
放映日:260319 木
放送局:BS101

その他の情報:米。カラー。監督:ヘンリー・キング 。音楽:アルフレッド・ニューマン。出演;ジェニファー・ジョーンズ、ウィリアム・ホールデン、イソベル・エルソム。1955。上映時間102分。

評価:★★☆☆

言わずと知れた悲恋映画の代表的作品。
原題:LOVE IS A MANY-SPLENDORED THING



1950年代初頭の香港。中国系アメリカ人の女医ハン・スーイン(ジョーンズ)は、戦争と混乱のただ中で医療活動に従事しながら、静かで節度ある生活を送っている。ある日、彼女は新聞記者マーク・エリオット(ホールデン)と出会い、互いに惹かれ合うようになる。しかしマークには別居中の妻が存在し、離婚が容易ではない事情を抱えていた。スーインもまた、中国系であるがゆえの社会的偏見や、職務上の責任との間で葛藤する。二人は困難を承知で愛を貫こうとするが、戦乱の影と政治的緊張が彼らの関係をさらに追い詰めていく。やがて北鮮南攻が始まり、マークは戦地取材に向かい、そこで命を落とす。スーインは深い悲しみの中で、彼との愛が自分の人生に確かな意味を与えたことを静かに受け止める。

当作は、異人種間恋愛と戦争の影を背景にした大作であるにもかかわらず、物語の核心が浅く、感情描写が表層的にとどまっている作品である。ハン・スーインとマークの恋は“禁じられた愛”として描かれるが、二人の関係が深まる過程に説得力が乏しく、名曲と香港ロケーションの美しさに頼った印象が強い。ジェニファー・ジョーンズは繊細さを表現しようとするが、キャラクター造形が理想化されすぎており、内面の葛藤が十分に掘り下げられていない。ウィリアム・ホールデンも魅力的ではあるが、記者としての職業的危険と恋愛の板挟みがドラマとして機能しておらず、人物の厚みに欠ける。また、香港という政治的緊張の地を舞台にしながら、その社会背景は装飾的に扱われ、物語に深く関与しない。結果として、映画は“美しい恋の絵葉書”の域を出ず、戦争映画としても恋愛映画としても中途半端である。総じて、『慕情』は主題の重さに対して描写が軽く、名曲の存在が作品の評価を支えているにすぎない感がある。


この鑑賞で、今年の映画鑑賞本数は14本目となりました。

 

最後まで読んでくださって、誠にありがとうございました。

今後ともよろしくお願いします。

blog no.774

 

 

タイトル : 帰らざる河(1954) を観て


観た日:260402 土
放映日:260306 火
放送局:BS101

その他の情報:米。カラー。監督:オットー・プレミンジャー 。出演:ロバート・ミッチャム、マリリン・モンロー、ロリー・カルホーン、トミー・レティグ。1954。上映時間90分。

評価:★★☆☆

『帰らざる河』は、1954年に20世紀フォックスが製作した西部劇映画であり、監督はオットー・プレミンジャー、主演はロバート・ミッチャムとマリリン・モンローである。舞台は 1875年のカナディアン・ロッキー であり、ゴールドラッシュ期の北西部開拓時代を背景としている。当作は シネマスコープ初期の作品 としても重要であり、広大な自然と激流下りのスペクタクルを強調するためにワイド画面が効果的に用いられた。また、主題歌「帰らざる河」は映画音楽史に残る名曲として知られ、作品の象徴的存在となっている。



ゴールドラッシュで賑わう北西部の町に、開拓者マット(ミッチャム)が9歳の息子マーク(レティグ)を探してやって来る。マークは酒場の歌手ケイ(モンロー)に預けられており、マットは彼を引き取り、新しい農場での生活を始める。ある日、マットは急流を漂う筏を発見し、乗っていたケイとその恋人ハリー(カルホーン)を救う。しかしハリーは、金鉱権利を不正に得たことが露見する前に登記を済ませようと焦り、マットを銃で脅して馬と食料を奪い、一人で旅立ってしまう。直後、マットの農場は先住民に襲撃され、マット・マーク・ケイの三人はやむなく筏で激流を下ることになる。彼らはピューマの襲撃や先住民の追撃に遭いながらも、力を合わせて“帰らざる河”を進み、ついにカウンシル・シティーへ到達する。そこでマットはハリーと対決するが、ハリーは謝罪を拒み、逆にマットを撃とうとする。危機一髪のところで、マークが父を守るためにハリーを撃ち倒す。事件を経て父子の絆は深まり、ケイもまた二人と共に新しい生活へ向かう決意を固めるのである。

ロバート・ミッチャムとマリリン・モンローという豪華な顔合わせながら、物語構成の平板さと人物描写の浅さが目立つ作品である。激流下りやロッキー山脈の雄大な景観は確かに見応えがある(シネマスコープ)が、ストーリーは単調で、危機→脱出→口論の反復に終始し、ドラマとしての厚みを欠いていると言わざるを得ない。特に、主人公マットとケイの関係性は唐突で、途中に挿入される“謎のキス”など、感情の積み上げを欠いた展開が散見される。また、先住民の描写は1950年代西部劇の常套とはいえ、ステレオタイプな「脅威」としてのみ扱われ、物語的にも倫理的にも未完成度が目立つ。モンローは当作で“セックスシンボルからの脱却”を模索したとされるが、演出は依然として彼女の身体性に依存しており、役柄の内面を掘り下げるには至っていないと思われる。ミッチャムの存在感が作品を辛うじて支えているものの、キャラクターの動機づけは弱く、父子ドラマも予定調和的である。総じて、当作は“景観とスターの魅力”で成立しているが、物語の説得力や人物の深みは乏しく、プレミンジャー作品としても西部劇としても中程度の出来にとどまる作品であると言える。

なお、私は西部劇・時代劇は好んで観ないので、全人生行路で1,600本に及ぶ鑑賞歴の中でも数えるほどしかないが、当作は(主に話題性から)「観るべき作品」と解していながら、これまで見逃して続けてきたものを、今回漸く果たしたものである。

 

この鑑賞で、今年の映画鑑賞本数は13本目となりました。

 

最後まで読んでくださって、誠にありがとうございました。

今後ともよろしくお願いします。

blog no.773

 

 

タイトル :   刺青(1966) を観て
 

観た日:260402 木
放映日:260317 火
放送局:BS12

その他の情報:カラー。原作:谷崎潤一郎。監督:増村保造。脚本:新藤兼人。出演:若尾文子・長谷川明男・山本学(學ではない)。佐藤慶。1966。上映時間86分。(タイトルヨミ:いれずみ)

評価:★★★☆

谷崎潤一郎の処女短編「刺青」を脚色した作品。悪人に芸者として売られてしまった質屋の娘は、体に巨大な女郎蜘蛛を彫られてしまった。やがて彼女は、本能のおもむくままに生き始める。



雪の降る夜、質屋の娘・お艶(若尾)は、恋仲である手代の新助(長谷川)と駆け落ちをする。しかし二人を匿った船宿の主人・権次(須賀不二男)は悪党であり、表向きは親切を装いながら、新助を殺し、お艶を芸者として売り飛ばす計画を立てていた。やがて権次の企みは動き出し、新助は殺し屋に襲われるが、逆に相手を刺し殺してしまう。一方その頃、お艶は土蔵に閉じ込められ、刺青師・清吉(山本)によって麻薬で意識を奪われ、背中一面に巨大な女郎蜘蛛の刺青を彫られてしまう。この刺青は彼女の内に潜んでいた妖しい本能を呼び覚まし、お艶は“染吉”という芸者として男たちを惑わせる存在へと変貌する。離れ離れになってもお艶を忘れられない新助は、染吉に近づく男たちを次々と殺し、ついには彼女に刃を向ける。しかし新助は彼女を殺せず、逆に染吉がお艶としての情を残したまま新助を刺し殺す。そのすべてを見届けた清吉は、自ら彫った女郎蜘蛛を短刀で刺し、自らも命を絶つ。死にゆく染吉の顔には、妖艶な魔性ではなく、かつての優しいお艶の面影が戻っていた。

当作、増村保造による映画版『刺青』は、谷崎潤一郎の処女作が持っていた“耽美と残酷の緊張感”を十分に再現しきれていない作品である。谷崎原作は、女郎蜘蛛の刺青を通して、女の内に潜む魔性が覚醒する瞬間を鋭く描いた短編であり、その凝縮された毒気こそが魅力である。しかし映画版は、物語を長編化するために周囲の人物関係を膨らませた結果、主題が散漫になり、原作の持つ緊密さと妖気が薄まってしまっている。特に、主人公・お艶の“変貌”が、原作のような必然性を伴わず、外的状況に押し流される形で描かれている点は弱い。谷崎が描いたのは“女の内に潜む魔性の覚醒”であるのに対し、映画は“環境によって変わる女”に寄ってしまい、主題の鋭さが後退している。また、男たちの造形も類型的であり、彼らが“女郎蜘蛛の餌”として機能するだけで、物語に深みを与える存在にはなっていない。増村の演出も、いつもの緊張感や毒気が十分に発揮されているとは言い難い。映像は美しいが、谷崎文学が持つ倒錯した官能性や、背筋を冷やすような残酷さには届いていない。結果として、映画は“耽美な怪談”としても“心理劇”としても中途半端な位置にとどまっていると断ぜざるを得ない。。総じて、本作は谷崎潤一郎の処女作という強烈な素材を扱いながら、その核心にある“美と魔性の融合”を充分に掘り下げられなかった作品である。文学的毒気を映像に転写しきれず、増村作品としても谷崎原作映画としても、やや物足りない仕上がりである。


この鑑賞で、今年の映画鑑賞本数は12本目となりました。
 

 

最後まで読んでくださって、誠にありがとうございました。

今後ともよろしくお願いします。