blog no.786

 

タイトル : 乾いた花(2017) を観て


観た日:260628 日
放映日:260616 火
放送局:BS12

その他の情報:日。モノクロ。原作:石原慎太郎。監督:篠田正浩。出演:池部良、加賀まり子、藤木孝、宮口精二、東野英治郎。1964。上映時間96分。

評価:★☆☆☆

 

石原慎太郎の同名小説を篠田正浩が映画化したもの。池部良がヤクザ者を、加賀まりこが“幻の女”を演じた。孤独と欲望の狭間で揺れる女の心を、乾いた質感の映像で描いた異色の心理ドラマである。映画芸術ベストテン(第1回)邦画5位に選ばれた。



物語は、都会の片隅で孤独を抱えて生きる若い女性・圭子(加賀)が、乾いた心を抱えながら日々を過ごしているところから始まる。彼女は周囲の男たちから向けられる欲望の視線を受け止めつつも、そこに安らぎを見いだすことができず、むしろ自分の内側に潜む虚しさを強く意識するようになっていくのである。圭子は、賭博との関係を通して自らの渇きを埋めようとするが、彼女の心を満たすことはなく、むしろ乾きが深まっていく。彼女は愛を求めているようでありながら、同時に誰かに深く寄りかかることを恐れており、その矛盾が彼女の行動を不安定にしていくのである。男たちは圭子の美しさと儚さに惹かれるが、彼女自身はその視線をどこか冷ややかに受け止め、心を開くことができないまま、都会の乾いた空気の中で揺れ続ける。やがて圭子は、より危うい関係へと足を踏み入れ、自らの孤独と欲望の狭間で揺れ動く姿を露わにしていく。彼女の行動は衝動的でありながら計算されたようにも見え、愛と破滅の境界を漂うような不安定さを帯びていくのである。物語は、圭子がどこにも安住できない心の在り方を静かに浮かび上がらせながら終わる。彼女の乾いた心は最後まで潤うことなく、観客に深い余韻を残す。


当作では、圭子と村木(池辺)の関係は、作品の情緒的な核を形成する重要な要素である。圭子は都会の乾いた空気の中で孤独を抱えながら生きる女性であり、その孤独が彼女の行動や感情の揺れを生み出しているのである。一方、村木は、圭子の周囲に現れる男たちの中でも、もっとも“人間的な温度”を持つ存在として描かれている。村木は圭子に対して露骨な欲望を向ける男たちとは異なり、彼女の内側に潜む乾きや不安を直感的に理解しようとする姿勢を見せる。圭子はその視線を完全に受け入れるわけではないが、村木の存在は彼女の心にわずかな揺らぎをもたらす。圭子が村木に対して見せる態度は、拒絶と受容の間を揺れ動き、彼女自身が自分の心の在り方を測りかねていることを示しているのである。村木は圭子の乾いた心を無理に潤そうとするのではなく、彼女の孤独をそのまま受け止めようとする。圭子にとって村木は、欲望の対象というより、乾いた世界の中で唯一“湿度”を感じさせる存在であり、その柔らかさが彼女の心に微細な変化をもたらす。圭子が村木の前で見せるわずかな表情の緩みは、彼女が完全に閉ざされた存在ではないことを示し、物語に人間的な温度を与えているのである。この関係性は、作品全体の乾いた質感の中で、唯一と言ってよいほどの“潤い”として機能している。圭子の心は最後まで満たされることはないが、村木との関係は、彼女が完全な孤独の中に沈み込むことを防ぐ役割を果たしている。池辺の存在があることで、圭子の乾きは単なる虚無ではなく、他者との接触によって揺れ動く“生きた乾き”として描かれるのである。総じて、村木との関係は、圭子という人物の複雑さを浮かび上がらせる重要な装置であり、作品の乾いた世界にわずかな湿度を与えることで、映画に深い余韻をもたらしていると言える。また、藪睨みするならば、作者の自己満足・陶酔の世界に観る者を無理矢理引き釣り込もうとしているようにも感じる。



この鑑賞で、今年の映画鑑賞本数は26本目となりました。

最後までお読みくださってありがとうございました。
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blog no.786

 

大腸の再検査が7/16、17、18に決まりました。普段ならば日帰りですが、私の場合検査がとても難しく2泊3日の入院となりました。下剤を4リットル飲んで便塗れになっての「真夜中の大仕事」になりそうです。やれやれ。


タイトル : 蜩ノ記(2017) を観て


観た日:260620 土
放映日:260505 火
放送局:BS101

その他の情報:日。カラー。原作:葉室麟。監督:小泉堯史。出演:役所広司、岡田准一、堀北真希、原田美枝子。2014。上映時間129分。

評価:★★★☆

 

『蜩ノ記(ひぐらしのき)』は、“10年後の切腹を命じられた武士が、残された日々を誠実に生き抜く物語”で、葉室麟の直木賞受賞作として知られている。映画版も原作に忠実で、戸田秋谷(役所)と檀野庄三郎(岡田)の関係を軸に、藩の闇と武士の覚悟が静かに描かれる。



豊後・羽根藩で、藩主の側室との不義密通の罪を着せられた戸田秋谷は、本来なら即刻切腹のところを、藩の歴史書「家譜」を完成させることを条件に10年後の切腹を命じられ、僻村で幽閉生活を送っている。切腹まで残り3年となった頃、城内で刃傷沙汰を起こした若い藩士・檀野庄三郎が、秋谷の監視役として派遣される。庄三郎は秋谷の家族と共に暮らし、彼の誠実で清廉な人柄に触れるうち、この男が不義密通などするはずがないと疑問を抱き始める。庄三郎が事件を調べると、7年前の騒動の裏には、藩主の世継ぎ争いと、家老・中根兵右衛門や商人・播磨屋が絡む藩の不正と陰謀があったことが明らかになる。幼い世継ぎが殺害され、その罪を藩が隠すため、秋谷は藩を守るために自ら罪を被ったのだった。やがて、秋谷の息子が家老の不正に抗議して捕らえられ、庄三郎も巻き込まれる。秋谷は二人を救うため、予定通り切腹することを条件に家老と交渉し、二人を解放させる。家譜を完成させ、家族に家督を譲った秋谷は、静かに覚悟を決め、武士としての矜持を胸に切腹の場へ向かう。

当作は、何よりも映像の美しさが際立っている。豊後の山里に広がる緑、季節の移ろい、家族が暮らす屋敷の静けさ。どのカットも余白を大切にしており、観客はまるで時間の流れそのものに身を委ねるような感覚になる。派手な演出を避け、自然光を生かした撮影が、物語の“静かな覚悟”と見事に調和している。役所広司が演じる戸田秋谷は、ただ誠実なだけの人物ではなく、沈黙の奥に深い思索と痛みを抱えた存在として描かれる。彼の表情のわずかな変化だけで、過去の重さや家族への思いが伝わってくる。説明的なセリフに頼らず、俳優の演技そのものに物語を語らせる演出は、この映画の大きな魅力だ。檀野庄三郎を演じる岡田准一も、秋谷に触れることで変わっていく若い武士の揺れを丁寧に表現している。二人の関係は、師弟でもあり、友でもあり、互いの人生を映す鏡のようでもある。彼らの間に流れる静かな信頼は、派手なドラマではないが、じわじわと胸に染みてくる。物語のテンポはゆっくりしているが、その“ゆっくりさ”こそが作品の魅力になっている。武士の生き方、家族の絆、歴史を記すという行為の重み。そうしたテーマが、急がず、押しつけず、観客の心に自然と沈んでいく。現代の映画では珍しいほど、“静けさを信じている作品”だと言える。クライマックスの切腹の場面も、悲劇としてではなく、秋谷が自ら選び取った生き方の結実として描かれる。そこには哀しみだけでなく、どこか澄んだ清々しさがあり、観客は彼の覚悟を静かに受け止めることになる。死を美化するのではなく、彼が最後まで守り抜いた“誠”の重さを丁寧に描いた点が、この映画の品格を支えている。総じて、映画版『蜩ノ記』は、派手さや刺激を求める観客には向かないかもしれないが、静かな物語の中に深い情感を見いだす者にとっては、長く心に残る作品になる。映像、演技、音、空気感。そのすべてが調和し、時代劇でありながら普遍的な人間ドラマとして成立していると言える。



この鑑賞で、今年の映画鑑賞本数は25本目となりました。

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blog no.785



タイトル : PERFECT DAYS(2023) を観て

 

体調が良くありません。検査入院が決まりました。投稿は大分ご無沙汰でございます。

観た日:260619 金
放映日:260601 月
放送局:BS101

その他の情報:日・独。カラー。監督:ヴィム・ヴェンダース。出演:役所広司、柄本時生、中野有紗、麻生祐未、石川さゆり、三浦友和。2023。上映時間124分。

評価:★☆☆☆


ヴィム・ヴェンダース監督が日本を舞台に撮り上げた人生ドラマ。東京・渋谷で公衆トイレの清掃員として働く独身中年男性を主人公に、その淡々と繰り返される毎日を、しみじみとしたタッチで丁寧に描き出していく。主演は本作の演技でみごと第76回カンヌ国際映画祭最優秀男優賞に輝いた役所広司。

 

 

平山(役所)は渋谷区の公衆トイレを清掃する仕事をしている。毎朝同じ時間に目を覚まし、植木鉢に水をやり、同じ缶コーヒーを買い、古い軽バンに乗り込んでカセットテープのロックを聴きながら仕事へ向かう。彼の一日は驚くほど規則正しく、誰かと深く関わることもなく、淡々とした静けさに満ちている。しかしその静けさは、孤独というよりも、彼が自分の世界を大切に守っているような落ち着きに近い。仕事中の平山は、誰も見ていない場所まで丁寧に磨き上げる。昼休みにはサンドイッチを食べながら神社の木漏れ日を見上げ、古いフィルムカメラで木々を撮る。夜は銭湯に入り、行きつけの居酒屋で静かに食事をし、古本を読みながら眠りにつく。そんな日々が繰り返される。

ある日、若い同僚のタカシ(柄本)が遅刻を繰り返し、仕事にも身が入らない様子を見せるが、平山は怒ることもなく淡々と接する。タカシは次第に、平山の静かな生活態度に何かを感じ取るようになり、彼の生き方に興味を抱き始める。そんなある夜、平山の家に姪のニコ(中野)が突然訪ねてくる。家出してきたらしく、平山は驚きながらも彼女を受け入れる。ニコは平山の質素で規則正しい生活を見て、どうしてこんな暮らしをしているのかと不思議に思う。平山は多くを語らないが、彼の過去に家族との断絶があったことが、言葉の端々から静かに滲み出る。翌日、ニコの母である平山の妹(麻生)が迎えに来る。裕福な家庭に住む妹と、質素な生活を送る平山の間には、長い時間の中で積み重なった距離があり、会話はぎこちない。平山はその距離を受け入れるように静かに対応し、ニコを送り出す。

その後も、タカシが仕事を辞めたり、ガールズバーの女性アヤ(アオイ)との関係が少し近づいたり、仕事中に小さなトラブルが起きたりと、平山の“完璧な日々”にわずかな揺らぎが生まれていく。どれも大きな事件ではないが、彼の心の奥に静かに波紋を広げていく。物語の終盤、タカシの代わりに新人を迎えに行くため、平山は久しぶりに渋谷の街を車で走る。車内で流れるのはルー・リードの「Perfect Day」。その音楽に包まれながら、平山の表情がゆっくりと変わり、涙がこぼれそうになる。彼が何を思い、何に胸を締めつけられているのかは語られない。しかし、過去の痛み、家族との距離、日々の小さな幸せ、そして今日という一日の美しさが、すべて一度に押し寄せていることだけは、観客にもはっきり伝わる。映画は、涙を湛えた平山の顔のアップで静かに幕を閉じる。説明はない。けれど、彼の心の奥にあるものが、観る者の胸にも確かに残る。


当作は、

静謐な日常を丁寧に描くことで“深み”を出そうとしているが、その静けさがそのまま“薄さ”にもつながっている。平山の生活は美しく整えられているものの、映画はその背景にあるはずの葛藤や過去をほとんど語らず、観客に解釈を丸投げしている印象が強い。説明を避けることが美徳だと言わんばかりだが、結果として人物像が抽象化されすぎ、平山が“実在の人間”というより“寓話のキャラクター”のように見えてしまう。また、日常の反復を美学として押し出しているが、その反復が長く続く場面では、単調さが前面に出てしまい、映画的なリズムが緩みすぎる。木漏れ日、カセットテープ、清掃作業、缶コーヒー。これらは確かに美しいが、繰り返しの多さが“詩情”よりも“冗長さ”を生んでしまう瞬間がある。観客の集中力を試すような構成で、静けさを味わう前に退屈が先に来る人も少なくない。さらに、映画が“現代の東京”を舞台にしているにもかかわらず、社会的なリアリティがほとんど描かれない点も批判の対象になりやすい。渋谷の公衆トイレ清掃員という設定は非常に興味深いのに、労働環境や社会との関係性には踏み込まず、平山の内面の静けさだけを強調するための背景として扱われている。結果として、現実の労働者の姿を描くというより、都市の中の“理想化された孤独”を美しく切り取っただけに見える。クライマックスの涙のシーンも、感情の爆発というより、映画が“ここで泣くべきだ”と観客に提示しているような演出に見えるという声がある。平山の過去がほとんど語られないため、涙の理由が曖昧で、感情移入よりも“置いていかれる感覚”を覚える観客もいる。余白を残すことと、説明不足は紙一重だが、この映画はその境界を曖昧にしたまま終わってしまう。総じて、『PERFECT DAYS』は美しい映像と静かな時間を愛する観客には深く刺さるが、物語性や人物の掘り下げを求める観客には“美しいだけで中身が薄い”作品に映る。詩的な映画であることは確かだが、その詩が人間の複雑さに触れる前に、形式美の方が前に出てしまっている。「冗長さ」に満ち溢れた当作で見るべきは、役所が必死で磨く公衆トイレが、近未来的・美術的に優れたものである点で、そこにこそ★1つを与えることができる筈である。




この鑑賞で、今年の映画鑑賞本数は24本目となりました。

最後までお読みくださってありがとうございました。
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