もうだいぶ前の話ですが、『H29短答本試験実況分析講義』(→記事、HP)の準備として、予備H29短答(一般教養科目)を、本試験と同様に90分間で解いて20問選択したところ、満点がとれました!
自分でもびっくり…( ̄□ ̄;)!!
今年、最もおもしろいと思った問題は、第1問かな~↓
〔第1問〕
桂太郎( 1847 ~ 1913 , 長州藩出身),西園寺公望( 1849 ~ 1940 , 公家出身)はいずれも戊辰戦争を経験し,交互に首相を務めた政治家として知られている。次のアからオまでの各記述は,明治末期から大正にかけての内閣に関するものであるが,このうち,前記2人が交互に首相を務めた連続する3つの内閣に関する記述とその内閣の名称が正しく組み合わされており,かつ,年代順に正しく並べられているものを,後記1から5までの中から選びなさい。(解答欄は,[№1])
ア.この内閣は,立憲政友会を与党とし,緊縮財政の方針をとって,陸軍による朝鮮半島での2個師団増設要求を認めなかったため,陸相が辞職した。その後,陸軍が後任を出さなかったため,この内閣は,総辞職に追い込まれた。
イ.この内閣は,韓国を併合し,朝鮮総督府をおいて植民地支配を開始した。条約改正交渉では,最後まで残っていた関税自主権の回復に成功し,欧米と対等の条約を結ぶことになった。国内では,大逆事件が起き,社会主義者・無政府主義者が弾圧された。
ウ.この内閣は立憲同志会らを与党として組閣された。この内閣の下で,日本は,日英同盟を理由に連合国側に立って第一次世界大戦に参戦し,中国に対して二十一か条の要求を突き付けた。
エ.この内閣は,日英同盟協約を結び,日露戦争を戦った。その講和条約では,旅順・大連の租借権や長春以南の鉄道と付属利権,北緯50度以南の樺太領有権などを獲得したが,賠償金が得られなかったため,国民の不満が高まり,日比谷焼打ち事件などが起きた。
オ.この内閣は,藩閥・閣僚を基盤に組閣されたが,「閥族打破・憲政擁護」の国民運動(第一次護憲運動)が起こり,民衆が議会を包囲する中,短命で退陣することになった。
1. イ 西園寺内閣 ア 桂内閣 オ 西園寺内閣
2. イ 桂内閣 オ 西園寺内閣 ウ 桂内閣
3. エ 西園寺内閣 イ 桂内閣 ア 西園寺内閣
4. イ 桂内閣 ア 西園寺内閣 オ 桂内閣
5. ア 西園寺内閣 オ 桂内閣 ウ 西園寺内閣
私も、日本史の知識なんてほとんどないけど、正解できました!(^∇^)
まず、【多数決→争点整理】という解法テクニックを使います。
つまり、肢1~5の一番左の部分を縦に見ていくと、“イイエイア”となっていますが、その多数を占めるものが正解となる可能性が高い(∵全短答過去問の統計データ)ので、逆に少数派のエ(肢3)とア(肢5)を消去します(これが【多数決】)。
次に、一番左の部分で消去されなかった肢1・2・4につき、そのすぐ右の部分で同様に【多数決】をすると、少数派の“西園寺内閣”(肢1)を消去できますね。
そして、残った肢2・4につき、またすぐ右の部分を見ると、オとアで1つずつなので、ここ(イの次の年代はオかアか?)が【争点】の1つとなります。
さらに右の部分は、肢2・4とも“西園寺内閣”なので争いありません。
民訴法的にいうと、裁判所は、対立当事者(肢2・4)間に争いない“西園寺内閣”をそのまま採用しなければならない(弁論主義第2テーゼ)という感じ。
しかし、その右の部分は、肢2がウ、肢4がオなので、ここも【争点】となります。
最後に、一番右の部分は、肢2・4とも“桂内閣”なので争いありません。
以上から、本問は、
①イの次の年代はオかアか?
②さらにその次の年代はウかオか?
と【争点整理】できました。
※もちろん、【多数決】は可能性が高いこと(確率論)に基づく解法なので、100%正解できるわけではなく、裏目に出ることもあります。そのような場合に備えて、後で軽く“検算”します。
さて!
ここで初めてア~オを見て、①②の【争点】について考えるのですが…これ、皆さんへの宿題としま~す(o^-')b
問題文にヒントがあるので、知識で解けちゃう人も、知識がないならば問題文からどのように解くか、考えてみてください。
明後日、その解法を説明する記事(“その2”)を書く予定です。