先日、

>ノアさんのブログに、伊藤塾の呉先生の基礎マスター講義は、「マーク箇所や書き込みの指示が極めて的確なので、一通り講義を受講し終えた暁には、試験対策という観点から完全武装されたテキストが手元に残ることになります。」と書いてあったのですが、中村先生の4A基礎講座も同様なのでしょうか?
よろしくお願いします<m(__)m>

というコメントをいただきました。

これについては、『TAC「4A基礎講座」関係の告知 』のコメント№242~247で解決されたようなのですが、これを読んだNOAさんが、誤解を招いたことに責任を感じたらしく、メールで緊急寄稿をしてくれました。

まだ続きがあるのですが、続きの部分は推敲したいから待つように言われているので、とりあえず“その1”を以下に掲載します。


司法試験情報局の見解の変化についての釈明

(特に中村さんとの関係で)

【はじめに】情報局の主張が「変化」していった経緯


最近、『情報局』の一つ一つのエントリー(だけ)を見て、それをそのまま私の「100%の真意」と受け取られる方が少し増えてきたように思います。もちろん、記事の一つ一つをそれぞれ単独の主張として受け取るのは読者の自由ですし、そもそもネットというのはそういうものですし、すぐ後で述べるように、私自身がそう誤解されるような書き方をしてきてしまった面があるので、誤解はある程度仕方がないと思っています。ただ、解いておける誤解は解いておいたほうがいいと思い、この場をお借りして、私の教材や講師・方法論にかんする「本音」を述べさせていただくことにしました。

まず、どのエントリーにも私の「真意の断片」は含まれています。しかし、私の「100%の真意」は、後で書き足した【補足】部分を含むブログ全体の流れ(おすすめエントリー50に掲載した分だけで構いません)を最後まで追っていただかなければ分からないと思います。『情報局』は、時期を追うごとに私の本音(100%の真意)が少しずつ明らかになっていく形をとっているからです。
もちろん、先ほども述べたように、変化の途中の記事をそれ単独で読まれても構わない(仕方がない)わけですが、特定のエントリーに書かれた内容が私の100%の真意であるかどうかは、単独の記事を読むだけでは分からない場合もある、ということだけはご留意いただきたいです。

ちなみに、私自身の方法論・理想の教材像・理想の講師像etc…は、数年前からほとんど変化していません。ブログを書きながら私の(内面の)本音が変化したわけではないのです。にもかかわらず、『情報局』の内容・主張が途中から少しずつ変化をしていったのには、いくつかの理由があります。

一番大きな理由は、皆さんご想像の通り、中村さんとの関係です。
『情報局』を書き始めた当初は、中村さんのことをブログに書く、ましてや中村さんを宣伝する意図など、私には全くありませんでした。匿名のブログで、特定の人物(中村さん)と自分とを結び付けることなど考えてもいませんでした。中村さんの側にも、そういう気持ちは全くなかったはずです。
そうやって中村さんのことを100%伏せてブログを書くということは、すなわち、「自分の100%の真意はブログには開示しない」と決めているということとほぼ同じです。だって、自分の真意を100%書いていったら、人によってはかなりの蓋然性で、結局「TACの中村先生」にまで辿りついてしまうからです。

そんな訳で、2012年の途中頃までの『情報局』は、多数派受験生と大きな乖離のない一般的勉強法・一般的教材観・一般的予備校(講師)観に沿った、「妥協的」な書き方をしていました。そういう普通の受験生ブログでした。そもそも、そういう普通の受験生ブログを書こうと思って始めたブログだったのです。

その後、状況が少しずつ変化していくにしたがって、『情報局』も変化していくことになります。変化の大きな原因の一つは、中村さんのTAC内におけるポジションの変化です。
簡単に時系列で書くと、

①中村さんがTACの多数の講師の中の一人にすぎなかった状況
②中村さんがTACのメイン講師に昇格する「かもしれない」状況
③中村さんがTACのメイン講師になることが正式に決定した状況
④講座編成やテキストまで中村さんが自由に作れることが決定した状況
⑤実際に講座のプランニングやオリジナルテキストの作成が始まった状況

このように、中村さんの置かれた状況が2012年の途中から少しずつ変化し始めました。これが一つの要因です。その他にも変化の理由を付け加えれば、同じくらいの時期に、『情報局』のアクセス数が私の想像をはるかに超える速さで増加していったこと。また、私自身の気持ちも、また同じくらいの時期に、「方法論を100%開示してしまってもいいかな」という方向に変化していったことも大きかったです。

ともかく、以上のようなプロセスを辿って、少しずつ私は自分の「100%の真意」を語るようになっていきました。最終的には、皆さんご存知のように、中村さんを『情報局』ではっきりと「推す」に至ったわけです。

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私の最終的な本音(100%の真意)として挙げてきたいこと(=誤解を解いておきたいこと)はいくらでもあるのですが、先ほども書いたように、私の最終的な真意はブログ全体の変遷を辿っていただければ十分にお分かりいただけるものです。ですので、ここは中村さんと関係で特に誤解を解いておく必要があると思った事柄に絞って、私の100%の真意を書き留めておきたいと思います。


【1】呉先生&基礎マスターは明らかに褒めすぎ問題

これはもう明らかに褒めすぎたと思っています。自分の「本音」に嘘をつきました。ごめんなさい。
ちなみに、ここに書いていることは、呉先生などの特定の講師に対してではなく、伊藤塾をはじめとする司法試験講師全体に対する評価を私自身がミスリードしてしまったかもしれないところなので、きちんと反省・修正をしておきたいと考えています。

伊藤塾講師の優秀性は、富士山までの道のりに譬えれば、あくまで樹海の手前までの案内役としての優秀性でしかありません。その後の道案内にかんしては、私は伊藤塾を全く評価していません。詳しくは下記のエントリー(特に後半部分)を参照してください。
★入門講座(講師)はどこ(誰)にすべきか?
http://ameblo.jp/getwinintest/entry-11132493188.html

樹海の手前まで道案内をするというのは、ようするに、初心者段階の右も左も分からない人を、ともかくも見通しの良い場所まで連れて行くということです。具体的にいえば、司法試験はいったい何をすれば合格できる試験なのか、その指針がおぼろげながらも自分で立てられるようになることです。あるいは、個々の法律科目(あるいは法そのもの)の全体像が見えてきて、あとは自分で調べものなどの勉強ができるようになることです。その部分に限っては、伊藤塾講師は「優秀」である。それが私の(途中経過としての)真意でした。

しかし、最後なのでここでもう一度改めて考えてみます。「呉クラス出身の自分」を肯定したかった当時の気持ちを一旦クールダウンさせて冷静になって考えてみます。まず、当初から書いているように、アウトプット面において、呉先生(&ほとんどの予備校講師)には、ほとんど方法論というものがありません。
★呉明植(伊藤塾)
http://ameblo.jp/getwinintest/entry-11338887837.html

大絶賛したインプットにかんしても、今となっては正直疑問だらけです。
まず、(どの予備校講師もそうですが)やっぱりあまりにも講義そのものが条文を軽視しすぎています。司法試験は条文さえきちんと学べば、あとのインプットは自分でどうにでもなる試験です(本当です)。「難しい論点の構造が理解できない」といったようなことも、ほとんどの場合、その大元(条文の文言そのものや条文の相互関係など)に意識を向けずに、その「上」の法律論の概念操作で力づくで分かろうとするから必要以上に難しく思えるだけです。論点自体が条文の要素やその構造といった「大元」から派生してきたものである以上、大元さえしっかりと押さえておけば、難しいものはそう多くはないはずです。私自身、伊藤塾で概念的に法律論を学んできたので、このような法学の「難解さ」から抜け出るのに長いこと苦労しました。最初は自分の頭が悪いのだ(あと努力が足りないのだ)と思っていましたが、あとになって、そうではなくて、結局は単純に条文をしっかりと読んでいなかったことが原因なんだと気づきました。このように、真の意味で条文をしっかり捉えられるようになること「だけ」が、法律学習における真のインプットなのです。それなのに、予備校の入門講座は、条文を教えずに法律論ばかりを教えています
★法学のテキストは「加工食品」にすぎない
http://ameblo.jp/getwinintest/entry-11381525085.html


【2】シケタイvs.条解テキスト

呉先生のエントリーで、「試験対策という観点から完全武装されたテキストが手元に残る」と書いたことも、今となっては我ながら随分いい加減な「概念操作」をしたなと自分の無責任さを後悔しています。マークと書き込みで完成されたシケタイは、たしかに「法学(法律論)を理解するという観点」から見ればたしかに「完全武装されたテキスト」と呼べるかもしれません。なぜなら、法学を理解するということは、シケタイを理解するということとほぼ一緒だからです(法学者は怒るかもしれませんが、その場合はシケタイを基本書と読み替えてもらえば結構です)。でも、このようなテキストが、本当に司法試験の論文試験の現場で役に立つでしょうか。もちろん、全く役に立たないというのではなくて、相対的に他のあらゆるテキストよりも役に立つといえるでしょうか。

一度でも論文を書いたことがある方なら分かると思いますが、論文というのは、たとえば同じ故郷で生まれ育った複数人の戦士(主人公)たちが、条文という「故郷」を離れて、事案という敵と戦いを繰り広げながら世界を旅し、再びその「故郷」に全員帰還する(あるいは全員は帰還できない)というところまでを描いたアドベンチャー物語です。たまにその主人公の一人の戦士Aがレッドに変身したり、戦士Bがピンクに変身したりもしますが、そんなものは「A→レッド」「B→ピンク」と覚えておけば済む話で、なんでAがレッドになるかなんて深く考えるような話ではありません。インプットで大事なのは、彼らの故郷とその構成員(レッドとかピンクとか)の存在をしっかりと頭に入れておくことです。故郷をしっかりと押さえておけば、大抵は暗記などしなくても構成員は出てきますし、これまた故郷(構成員の来歴)をしっかりと押さえておけば、構成員が変身することに一言理由を付けることも容易にできるようになります。また、故郷と構成員をしっかりと頭に入れておくこと、これから描こうとする物語に適した故郷と構成員を選び出すことも容易になります。常に故郷と構成員はセットで押さえられていますから、旅に送り出した戦士たちを道に迷わせることもありません。

中村さんの条解テキストには、
①故郷(条文)
②構成員(文言/要件・効果)
③レッド・ピンクなどの構成員の変化形(定義・規範・解釈論といった広義の法律論)
が、その繋がりが構造的に明瞭な形で(←ここが非常に大事)はっきりと記載されています

対するシケタイに記載されているのは、③の変身後のコスプレの話ばかりです(5分も読めば誰にでも分かりますが)。こんなコスプレ姿ばかりを見せられても、彼らを無事故郷まで送り届けてやる自信は私にはありません(「自信がある!」とあくまでも言い張る人は淡々とそうすればよろしい)。

ここで大事な思考実験を提案します。というか、現実に実験してもらえるともっといいです。特に知識のない初学者の方には是非とも試してみて欲しいです。その実験とは、「カンニングで論文問題を解く」という実験です。すなわち、何か特定の教材を「一冊だけ」机の上に置いて、そのカンニング教材を縦横無尽に使って答案を作成する。そういうルールの論文試験です。

ここではシケタイ条解テキストを採り上げましょう(マークと書き込みで「武装」されたシケタイでもいいですよ)。
まず、特定の論文問題(予備試験問題など)を用意します。そして、(どちらが先でもいいのですが)中村さんの条解テキスト「だけ」を使って、時間内に答案を書き切ってみてください。そして次に、別の問題を用意し、今度はシケタイ「だけ」を使って・・・と言いたいところですが、ここは特別に反則で六法も使っていいですから、同じように制限時間内に答案を書き切ってみてください。

(1時間経過・・)

はい。いかがだったでしょうか。これでほとんど勝負あったはずです。ほとんどの受験生には、私の言っていることは伝わったはずです(でも、実際には、ほとんどの方がやっていないから伝わっていないはずです。人間とはそういうものです)。

カンニング教材として皆さんの傍らに置いた「紙媒体」としてのシケタイ・条解テキストは、いわば、皆さんが本試験までに真面目に勉強すれば試験会場で皆さんの頭の中にインプットされているであろう「情報」そのものです。カンニングなんてずるい行為だと思われるかもしれませんが、通常の試験勉強というのは、このように、紙媒体のカンニング教材を情報に変換する作業に他なりません。あるいは、教材を机の上から頭の中に移動させる作業に他なりません(司法試験はそれだけでは受かりませんが)。机上の紙媒体をカンニングするのか、脳内の情報をカンニングするのかの違いがあるだけで、やっていることはどちらも広義のカンニングです

もっとも、この方法には物理的限界があります。脳の記憶容量の問題です。限られた勉強時間で脳内に確実に移送できる情報量は、(どんな実力者でも)せいぜいテキスト一冊分です。それ以上に手を広げると、本人も自覚できないままに情報に欠落(穴)が生じてしまいます。この「手を広げない」というのも『情報局』のメインテーマの一つでした。それで、カンニングは「一冊に限定」なのです。

前置きはこれくらいにして、実験の検証をしましょう。

ほとんど知識がない初学者の方は、シケタイという迷路のような構造体の中から適切な戦士や変身形態を迅速に導き出してくることは(かなりの高確率で)できなかったのではないかと推測します。仮に中村さんの4A基礎講座で答案の書き方だけは綿密に指導されていたとしても、答案を最後まで書き切ること自体、ほとんどの人ができなかったはずです。上で挙げた①②③でいえば、そもそもどの①からどの②が出てくるのか、どの②からどの③が出てくるのかさえ、うまく辿れなかったはずです。条文という故郷からの出発と帰還という一連の流れを適切に表現できることが大前提の論文答案では、①→②→③が辿れない時点でアウトです。敵(事案)と戦う以前の問題です。さしずめ、エベレストにアタックする前の高地順応の時点でリタイア、といったところでしょうか。

次に、条解テキストならどうなったでしょうか。ほとんど知識のない初学者の方では、さすがに「カンニング」をしたといっても、合格水準の答案を書き切ることまではできなかったはずです。「正解の①②③」を導くことも難しかったはずです(というか、それができたら合格答案なんですが)。しかし、中村さんの4A基礎講座で答案の書き方だけは綿密に指導されているということを前提とすれば、「正解の①②③」は導けなくても、何らかの①→②→③を示すことはできたはずです。間違えた可能性が高いとはいえ、その①②③を事案と戦わせることもできたはずです。論文答案は、主人公たち(①②③)を敵(事案)と対峙させて各々の勝敗を決めれば、それで物語は完結ですから、かなりのショートストーリーになってしまったかもしれませんが、条解テキストを使った人は、最低限物語の体裁を整えること(答案を最後まで書き切ること)くらいはできたのではないかと推測します。

上級者だったらどうでしょうか。上級者なら、複雑な迷路を潜り抜けて、シケタイから①→②→③を探し出すことも可能だったかもしれません。しかし、それができる人が、条解テキストから①②③を探し出せないということはまずあり得ません。そういう人は、簡素な条解テキストを使ったほうが、迅速に「正解」を探し出せたはずです。

【論証集なんてものは絶対に要らない】
余談ですが、そもそも実践的な③の表現自体が、シケタイにはほとんど書かれていません。条解テキストには全部書かれています。実は、③だけをみても条解テキストの勝ちなのです(シケタイに詳しく書かれているのは③の成り立ちなどの非実践的内容です。そんなものは冒険にはほとんど必要ありません)。シケタイを「カンニング教材」に選んだ人は、現場で自分なりの論証表現をゼロから考えなければならなかったはずです。これだけでも重大な時間と労力のロスです。
ちなみに、中村さんと同様の小型テキストを使っているLのS先生もK先生も、テキストの構造はシケタイとほとんど一緒です。内容は③(法律論)にほとんど偏っており、①②についても明瞭な繋がりはほとんど示されていません(K先生のほうには①自体が全く記載されていません)。
そして、もう一つシケタイと似ているのは、実践型テキストを謳っていながら、やっぱり実践的な③の表現自体はテキストには全く書かれていないという点です。実践的な表現(あなたが実際に本試験の現場で答案に記載する表現)は、では一体どこに書かれているのでしょう。答えは、論証集です。あぁ、また増えるのです。教材が。こうやってまたひとつ、論証集という意味のない教材が、あなたの本棚に無駄に付け加わってくるのです。自信を持って言いますが、テキストになんだか分からない抽象的法律論をダラダラと書いておきながら、その実践的な表現は別教材にお預けするなんていうのは、本人が勝手にそうすることが必要だと思い込んでいるだけの全き「無駄」に他なりません(人間のインプット力の容量に限界がある以上、無駄である以上に有害です)。彼らは単に自分がそういう風に勉強してきたから、慣性の法則に従ってそうしているだけです(別の言い方をすると、彼らは①→②→③という法律の基本構造をそもそも大事にしていないので、それらを無限に切り離していくことに何の痛みも感じないのです。結局これも、「彼らがそういう風に勉強してきたから」なのですが)。伊藤塾も○○先生も、ようするに皆同じなのです。本当に大事なことはなんにも考えていないから、こういうカンニングにさえ役立たないテキストを作ってしまうのです。
私だけではなく、おそらくは中村さんも、シケタイやその他の予備校テキストがやっているような①や②や③をいちいち切り離して記載するという編集方針の「意味が分からない」だろうと思います。③について、答案に書く表現をわざわざ避けて、なにやら自分が講義をしやすくするためだけの理解的表現(←よくわかんないから適当にネーミング)でテキストを埋めていることについても「意味が分からない」だろうと思います。真面目に考えれば考えるほど、本当によく分かりません。たとえば、論点は100%帰るべき「故郷」を持っているのに、彼らのテキストでは、その論点の来歴は毎度のように巧妙に隠されてしまうのです(もうイジワルなのかと・・)。彼らのテキストに出てくる論点は、まるで無国籍のコスモポリタン星人のようです。ほとんどの論点が、どこから来たかも分からない国籍不明の不審人物です。伊藤塾は世界市民主義だから国籍隠しをするのはまだ分かりますが、「試験対策をする」と明言しているような予備校講師までが、なんで揃いも揃ってこんな「イジワル」をわざわざするのでしょうか。
皆さんも、漠然とではなく、ちゃんとテキストを見てください。伊藤塾の○○先生のテキストを見てください。Lの○○先生のテキストを見てください。もう一度言いますが、論点ひとつとっても、それぞれに帰るべき故郷があります(もちろん彼らもそれは知っています)。それなのに、彼らのテキストでは、故郷の存在はおろか、論点発生の「直前現象」である構成員の存在さえ、書いてあったり書いてなかったりです(書いてある場合もめちゃくちゃ分かりにくく書いてあります。初心者では簡単には繋げないように書いてあります)。私が特に酷いと思ったのは○○先生のテキストです。実践型テキストを謳っていながら、やっていることは前半で基本書(法律論)の箇条書きまとめをして、後半部分からは(どこから来たのかもわからない形で)ひたすら論点を並べるわ並べるわ並べるわ・・・。もう全てブツ切り。司法試験に必要な知識は、全部その繋がりを断たれてブツ切りです。こういう現場で何の役にも立ちそうもないテキストを、かつて絶賛した(ふりをしてしまった)自分を恥じます。
結局、現場に持ち込めば(そのテキストで問題を解いてみれば)そういう自己欺瞞には最初から陥らずに済むのです。私も最初からそういう観点(試験対策という観点)のみに立って物を言うべきだったのです。

特定の教材が「試験対策という観点」からどれだけ役に立つかは、このように実践の場に教材を持ち込んで実際に「武装」(カンニング)させてみることが、教材の優劣をはっきりさせる最良の方法です。ぐだぐだと観念論を戦わせるより、このほうがはるかに生産的です。
大事なのは、きれいに加工されたシケタイをうっとり眺めながら「完全武装したなぁ~」と悦に入ることではありません。大事なのは、その武器が本当に現場(試験)で使える「武器」になるのかをきちんと見極めることです。それには、実際に「武装」をして(教材を傍らに置いて)、現実に戦場で戦ってみる(答案を作成してみる)だけで十分です。そうすれば、その教材が「試験対策という観点」に立っているか否かは、誰にでもすぐに分かります

インプット学習というのは、ドラえもんの「暗記パン」みたいなものです(のび太が暗記パンの食べすぎで最後は全部吐き出してしまったように、暗記パンには一定の容量がありますが)。今ここにドラえもんが出てきて、一冊分を暗記できる暗記パンを貰えたとしたら、あなたはどの一冊を選ぶでしょうか。観念論で考えるのではなく、実践の観点から(試験対策の観点から)考えてみてください。思う存分、カンニング(武装)をしてから考えてみてください。初学者も上級者も、この思考実験を、思考から現実に移せば、ほとんどの受験生が同じ結論に辿りつくはずです(でも、実際はやんないんです。それくらいは私も分かってます。人間とはそういうものだからです)。

結論です。「試験対策という観点から」みれば、どんなに嫌でも適切な「武装」をしているのは条解テキストのほうだと言わざるを得ません。「いや、ちがう。論文の勝負どころは①②③じゃなくて、その①②③を事案と適切に結び付けられるかどうかだ。条解テキストを使ったからって適切に結び付けられるかどうかは分からないぞ」と言う方がいるかもしれません。その通りです。シケタイや条解テキストをマスターしたところで、論文試験の難所はクリアできません。あなたの「勝負どころ」はそこではないのです。だからこそ、インプット教材は簡素で(つまり時間がかからず)、①→②→③の構造が明瞭に分かる条解テキストがベストなのです。対するシケタイ(その他ほとんど全ての司法試験・法学教材)は膨大でかつ①→②→③の構造が迷路のように入り組んでいて分かりにくいです。こんなに「難解」でマスターに時間のかかる教材は、どんなに上手にマークで加工されていようと、いまや私は少しもおすすめしません。これが今の私の偽らざる気持ちです。


【3】シケタイにマークは本当に必要か

呉先生の「マーク」が、試験に不必要な膨大な情報を含むシケタイの森の中から試験(インプット)に必要な情報を炙り出してくれる。そういうメリハリ作業をやってくれるところがいいんだ。・・・と言う方がいるかもしれません。私自身そう書いてしまいました。それはその通りなのですが、そうやってメリハリの末に炙り出されてくるのは、司法試験のインプットとして必要な①②③のうち、あくまでも③の部分だけです。シケタイも呉先生の講義もほとんど全ての予備校講義も、①②は全然大事にしていません。しかも、③を炙り出してくれるといっても、その③は、答案に書く表現としては、そのままでは答案には書けない非実践的な生煮えの③です。事実上は③になる前の「3」みたいなものです。この「3」を、呉クラスでは2年もかけてマークで炙り出してくれるだけなのです。実践的な③はまたしても別教材(論証集)にお預けです。シケタイだけをマスターしても、実践的な③は表現できないのです。このように伊藤塾(だけじゃないですが)は、色々なものをどんどん別教材・別講座に「お預け」にしていきます(そこで配布される論証集というのが、これがまたどの予備校のものも出来が悪くて困ったものなんですが、そういうことまで言い出すと際限がないのでもうやめます・・)。

中村さんの条解テキストにはマークが要りません。なぜ要らないのかというと、呉先生の講義スタイルに繋げていうと、試験に不要な膨大な無駄情報から試験に必要な情報だけをマークによって炙り出した「後」の教材が条解テキストだからです。そもそも最初から試験に必要な情報しか書かれていないから、「試験(インプット)に必要な情報を炙り出してくれる」という親切な過程もないだけなのです(その過程は中村さんが家出・・・じゃなかった家で済ましています。徹夜で・・)。

時として、あまりに周到な親切は、人に「親切」を感じさせないことがあります。Eテレの行動経済学の講義で紹介されていたのですが、ある鍵職人さんは、鍵を開けるのに30分以上かかったド下手時代には顧客に感謝され毎回チップまで貰えていたのに、技能の習熟とともに鍵を開ける時間が短くなっていくとともに(最後は5分で開けられるくらい上達したらしい)、次第に感謝もされずチップも貰えなくなっていったそうです。このように、人間は無駄な「苦労」を、ただ苦労をしてもらったというだけで有難がってしまう不合理な生き物なのです。

鍵屋さんが30分苦労する現場に一緒にいて苦労を分かち合いたいという方には、シケタイクラスは最適です。長い期間に渡って講師と受講生が「苦労」(という無駄)を共有することができます。その充実感(エクスタシー)はハンパないはずです。「私は他にもいろいろ用事があって急いでるの。お願いだから5分で開けて」という方には、4A基礎講座をおすすめします。実際に6倍くらいの違いはあるでしょう。