自考能力開発講座2
Historical Idea
徳川家康の凄さとは?

江戸時代260年間は
世界的に見ても稀有な政権であった。
鎖国という制度もあったが
陸続きの弱小国は欧米列強に
昔から浸食され、植民地化されていた。
しかし、日本は免れている。
もちろん地政学的な意味もあったであろう。
しかし、徳川家はまがりなりにも
260年の長きに亘り政権を担った。
現代社会でも”老舗”と言われる組織は
それが永らえるシステムを持っている。
徳川家康は、そのシステムを支える
思想を後世に託したから
これだけの長期政権になったのではないか…
その家康を考えていこう。
幼少の頃は、周囲の列強大名に囲まれ
人質生活を余儀なくさせられる。
今川家、織田家とまさにたらいまわし。
家康の人格形成の根は
この時機に生まれているのであろう。
人の機微を上手に読み
生きながらえていく処世術を身に付ける。
少年期にこのような環境で
育つことを考えると人間不信の怯え人間に
育っていくのかもしれない。

後の家康は非常なほどに肉親への
情愛を示していない。
また、徹底した布石を打たないと
行動に移さない。
こんな動静を見ていくと
「・・・やはり・・・」と
思ってしまう。
そんな家康に転機が訪れる。
信長による”桶狭間の戦い”である。
今川義元のくびきから解放される
時を迎えたのである。
苦労を共にした家臣団(譜代衆)とともに
ついに戦国大名のルーキーとして
舞台に上がってくる。

かつては自分を人質として
身柄を拘束していた織田家であったが
織田信長という天才に我が一族の身を
委ねることになる。

しかし、信長も綱渡りであった。
朝廷の扱いもわからない・・・
武田信玄という傑物が上洛を狙っている・・・
軍神、上杉謙信も黙っていない・・・
中国地方の大所帯、毛利家は君臨している・・・
しかし、信長は・・・
ある時は果敢に攻め、
またある時は、相手に従順さを示し
急いで自家の力をつけようとしている。
そんな時、戦国時代の大本命
武田信玄が上洛の途につく。

信長と同盟を組む家康の居城
浜松城の面前を、悠々と武田軍は西へ進む。
家康は歯噛みしながらも
弱小の組織では破滅を招くと自重するが
我慢が出来なくなった。
城から乾坤一擲の迎撃に出る。
この戦が“三方ヶ原の戦い”である。
結果は大惨敗。
その時、城に逃げ帰った情けない姿を
絵師に描かせている。
それが有名な”しかみ像”である。
血気にはやり家臣を死なせた自分への
戒めを生涯の慚愧として残した。

また、妻の築山御前(今川義元の娘)
と嫡男、信康(妻が信長の娘)が
武田と密通し信長へ謀反と疑われ、
妻と嫡男を成敗することを信長から
命ぜられる。
余談になるが、信康を切った刀は
”村正”という名刀。
この村正には謂れがある。
家康の祖父清康、父広忠は家臣の謀反で
切り殺されてしまっている。
その時の刀が、この村正と言われている。
江戸幕府では、この村正の所持さえ
謀反扱いを受けたため村正は”妖刀”として
忌み嫌われていたのである。

話を戻そう。
信玄、謙信が相次いで亡くなり
俄然、勢いに乗る織田信長。
鉄砲三段打ちで武田勝頼率いる
騎馬軍団を撃破する。
これが”長篠の戦い”である。
ズタボロになった武田軍は
織田・徳川の連合軍に追い詰められ
滅びることになる。
これが”天目山の戦い”である。
信長は永年、信玄に気を遣い続けた。
その胸のつかえが霧散した快事であった。
その祝宴も兼ね、家康は信長に
「京に来て、骨休めをせよ」と誘われる。
その滞在中に起こるのが”本能寺の変”

明智光秀による謀反であった。
その光秀は、同盟者、家康討伐も画するが
家康も必死の逃亡で逃げ切るのである。
その時の逃亡劇が”神君伊賀越の大難”として
江戸時代には語り継がれてきた。
信長というくびきがとうとう外れた。
さぁ、いよいよ天下取りに…と思った矢先
さっさと明智光秀を打ち取った
羽柴秀吉が現れる。
「…天はわしを選ばぬのか・・・」
と嘆いたであろう。

かくして、秀吉はあれよあれよと
信長の後継に収まり
途中、家康ともひと悶着はあるものも
関白秀吉の誕生で、天下は秀吉の手に。
またこれまでのように粛々と
豊臣家の大老として国家経営に
尽力していくのである。
しかし、秀吉には子が生まれない。
生まれても夭逝してしまった。
甥の秀次に関白も譲り
太閤として朝鮮攻めを始める。
この時、家康は秀吉を
どんな眼で見ていたのだろうか・・・?
おそらく、
「…豊臣はもうだめだ…狂っている」と。
そして、秀吉逝去。
家康主導で朝鮮からの撤兵が進められる。
それが、落ち着いた頃から
遂に、家康の野心がたぎり始める。
もう三方ヶ原の家康ではない。
信長、秀吉という天才親分との
せめぎ合いは家康をしたたかな政治家へと
変貌させていった。
後世で“狸親爺”と陰口を叩かれるが
今までの律儀な家康殿から
騙す、居直る、約束破る・・・
苦節の男がついに牙を剥いた。
邪魔な勢力に対して徹底的に怒らせた。
その勢力とは石田三成中心とした
豊臣政権の官僚群である。
そして武将型の大名たちを懐柔し
味方につけていくのである。
”関ヶ原の戦い”
戦国時代の真の終焉はこの戦いであった。
そして、最後の覇者がこの徳川家康。
主家である豊臣家の官位も越え
征夷大将軍、ついに上り詰めたのである。
そしてさっさと将軍職を息子、秀忠に譲り
世間に、天下の持ち回りは
もう終わりだと宣言した。
代々徳川が天下を統べ、日本を統治する…

もうひとつ後始末が残っている。
豊臣家の嫡男、秀頼の件である。
今でも様々な説がある。
大別して2通りだ。
・豊臣家をこの世から根絶させる。
・豊臣家を徳川家の親族扱いにする。
どうなんだろうか・・・?
私の自考だが・・・
両方あったと思う。
それをぶち壊したのが秀頼と淀の方。
家康自身も思ったであろう・・・
昔、天下の情勢を鎮める為に
自分は身をひいて、秀吉に従った。
それを、なんだお前たち親子は!
温室育ちのおぼっちゃんと
気位しかないヒステリックな女が
今の世を治めていけるわけがないだろう!
大阪の陣では、鎧具足もつけずに
臨んだという。
真田幸村らの奮戦はあったものの
豊臣家は滅亡。

家康は、大阪夏の陣の翌年
「もう仕事は終わった・・・」と
つぶやくように亡くなるのである。
戦乱の世を終わらせる為に
生まれてきた男としか思えない。
死期に臨んでも、家康は後事のことを
家臣達に細々と指示をしている。
死後、我の亡骸はまず久能山へ埋葬。

そして、時を経て日光へ移せ・・・と。

2代将軍秀忠には、戦が起きたら
先陣は、藤堂高虎に委ねよとまで遺す。

今では世界遺産として
新たな注目を集める日光東照宮。
伊達や上杉への睨みなのか・・・
久能山は江戸の西に位置する。
西国大名の謀反はまずはここで止める…
さらに隠居城である駿府城が
また面白い。
東に箱根富士山
西に安倍川
北に南アルプス
南に駿河湾
天然の要塞とも言える構えである。
秀吉が築いた絢爛豪華な大阪城に対抗して
金をかけずとも、もっと凄い城を
築くことができるのだと
自負しているかのようにも思える。

こうして、日本は260年間もの間
戦乱の無い時を享受してきたのである。
その布石を打つたために生きた武将、
徳川家康はまさに見事な生き様であった。
神君と奉られるわけである。
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