自考能力開発講座 -15ページ目

自考能力開発講座

自分で考え、自分で行動するには、何が重要か?”考える”ということはどうすれば出来るのか?過去にとらわれ、今に悩み、未来を憂う人に贈る『自考能力開発講座』



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Historical Idea



豊臣秀吉とは?


明智日向守光秀、謀反!
激震が走る。
天正十年(1582年)、本能寺の変である。

武家、朝廷、文化人…
この事件で、それぞれの思惑が揺れた。

この本能寺の変での最大の利益者は
結局、誰であったか・・・?
それは、羽柴筑前守秀吉その人であった。


日本歴史史上、最高の出世人。
天下一の成り上がり。
位人臣を極めた強運の持ち主。
様々な名称を持つ秀吉。

信長に認められるために、
死に物狂いで働き続けた。

血脈だけで高位を与えられる時代に
真っ向、実力主義をとる上司、信長。
そんな出世昇給システムに
秀吉は勇躍して、信長の要求に応えていく。
そんな中での事件が本能寺。

事件後、秀吉の行動が凄い。
中国大返し・・・
山崎の合戦・・・
清州会議・・・
賤ヶ岳の戦い・・・

本能寺の変が1582年
賤ヶ岳の戦いが1583年・・・

この短期期間で、信長後継の地位を
射止めてしまう俊敏な動きに
当時のどの武将もついてこれなかった。

さらに、朝廷をも取り込み、気を使い
そして金を使った。
今でも大阪は”太閤贔屓”である。

1590年、北条家攻略をもって
晴れて天下人。


日輪の子・・・と言われた秀吉の絶頂期であった。
しかし、時は秀吉をそのままにはしておかなかった。

秀吉は天下を取る前とその後は
その人格の変転をよく言われる。

天下を取る前は、
明朗闊達、人心掌握の天才とされる。
その証拠に、秀吉の周囲には
優秀な人材が続々集まるのである。
竹中半兵衛、黒田官兵衛、千利休、
敵方であった徳川、毛利、島津…
次々に巻き込んでいく

天下様になった時からおかしくなる。
人心掌握の天才も、気遣う相手がいてこそ
必要であった。

しかし、今は最大に”気遣われる”立場。
自分より称賛されるべき対象は排除し、
自分より能力がある人間は力を与えず
自分より人材が集まる武将に嫉妬する…
黒田官兵衛であり、千利休であった。

周囲には、イエスマンばかり…
それも官僚型の人間が取り囲む。

過去、自分を天下人に押し上げて
いってくれた武将たちを退けていく。
自分がダメだった時を知る人間を
排除していくのは、現代でもよく見る。

こんな環境の中で、朝鮮出兵。
戦国の世が、やっと収まったというのに
なぜ、太閤はまだ戦を続けるのか…?
武将たちは、自分の領地を
整備するどころではない。
借金をして戦費を調達しなければならない。
2度の朝鮮攻めで得たもの何もない。


この無謀な海外出兵の最中・・・
天下の英雄、豊臣秀吉は逝った。
その撤兵処理は徳川家康の差配で
粛々と行われていく。

豊臣政権を支えるのは、石田三成を初め
戦を知らない官僚型の家臣・・・


英雄の血筋を継ぐ、遺子、豊臣秀頼。
そこに君臨するのが、豊臣家の重臣で
我慢を重ね続けてきた徳川家康。




そして戦国の最終決戦”関ヶ原の戦い”
この戦いが戦国トーナメントの決勝戦。
家康の深謀遠慮がこの戦いを制する。


そして、大阪の陣。
大阪城にこもる豊臣秀頼、
そして信長の姪、秀吉の側室、淀の方。


後藤又兵衛、真田幸村などの活躍は
あったものの、多勢無勢…
ついに大阪城は落城、豊臣家は途絶える。


激烈な信長・・・
人たらしの秀吉・・・

新しい時代を招くための破壊があり
体裁を整える秀吉がいた。

そして、その盛衰を我慢して見続けた
徳川家康が治世260年間の礎を築く。
江戸時代の招来は、日本にとって
どんな意味があったのか?


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Historical Idea



織田信長とは?



室町幕府15代将軍、足利義昭が
織田信長により京を放逐された1573年。
これを起点に、天下は足利から織田へ
移行したと歴史はみている。



さて、織田信長である。
この人物は、今の時代になっても
様々な評価が付きまとう。
革命児、魔王など両面を持つ。
事績をみると、後の世から見ると・・・
時代をひっくり返した感が大きい。
楽市楽座、安土城、鉄砲戦術、軍団編成・・・


かたや・・・
比叡山焼打ち、戦費強要、苛烈誅殺の仕置き・・・


しかし、一番目指したものは
”日本の王”であったのではないか・・・?

信長により、朝廷は右往左往させられている。
征夷大将軍に並ぶ、右近衛大将の位も
後につき返し、
正親町天皇に退位を迫り、皇太子即位をもって
新たな官位を受け入れるなどを条件付をする。


神格化されている天皇の権威を
崩壊させることにより
自からがそれにとってかわる・・・
この狙いがあったように思う。

いつの時代でも、あまりにも進んだ考えは
容易には世情に受け入れられなく
周囲の反対抵抗により
潰えることを歴史は教えている。

脅威の対象である信長の周りには
武家、朝廷、僧侶、バテレン、商人、文化人・・・
ことごとくに、恐怖を背景に従っている。
人は恐怖が募ると、どこかで沸点を迎える。
それが、”本能寺の変”

この黒幕論争は、平成の今でも尽きない。
では、この事件で一番得をしたのは誰か?

信長が戦国時代の粗掃除を行い
その整備された地盤を引き継いだ・・・
そう、豊臣秀吉である。


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室町幕府の意味するもの?



室町幕府の成立は、内輪もめから
発生したという見かたも出来る。

王政復古を願う後醍醐天皇は
地方豪族に呼びかけ鎌倉幕府打倒を
画策するのである。
途中、島流しの流刑に成ったりすのだが
鎌倉幕府に不満を持つ武士団に支えられ
政権を取り返すのである。
そこから始まるのが建武の親政。



しかし、この施策がことごとく
武士に不評不満なものであった。
鎌倉幕府討伐に貢献した
足利尊氏も命令に従わず
後醍醐天皇は、最大の功労者
足利尊氏討伐の綸旨を出す。

楠木正成、新田義貞の活躍もあり
尊氏は一時、九州にまで落ちていく。
その後、各地の豪族を束ね
再び政権奪取のため、都に上るのである。

尊氏が九州に逃走した際に
後醍醐天皇は、楠木正成に
「尊氏と講和をなされませ。」と助言。
しかし、後醍醐天皇は
「断じてそれはならん!」と退け
正成をも遠ざけてしまう。

後に足利軍圧勝の戦い、”湊川の戦”で
必ず敗れるのを知り、最後まで
後醍醐天皇の命に従い、殉じるのである。
今でも、無茶な戦いを
「そりゃ、湊川だ・・・」と比喩されている。


足利尊氏の勝利で後醍醐天皇は
比叡山に幽閉されるが
そこを抜け出し吉野に皇統を立てる。
それが南朝の始まりであり
日本史上、2人の天皇が存在する
約60年間の時代が始まるのである。
今でも、天皇家の皇統の論争が行われている。
北朝が正しい、いや南朝こそ正統だ・・・と。



足利尊氏は、幕府を開き政治の統制に
苦心することになる。
鎌倉幕府の残した貞永式目(御成敗式目)を
ベースにした建武式目を制定。
各地豪族の統制にかかるのである。


3代足利義満の時に不平勢力は押さえられ
室町時代の栄華を迎えることになる。
この義満は、金閣寺造営や一休禅師との
問答などで有名な将軍。
繁栄を誇るように、この時代には
華美な文化が栄えたのである。
これを北山文化という。
尚、南北朝の統一はこの義満時代の
出来事になる。



さて、「盛者必衰のことわり・・」
栄えた者は、衰えていくのが常である。
8代将軍、足利義政の時代である。





正妻の日野富子も絡み、時代は
骨肉の争いから、権力闘争へ発展していく。
全国に無秩序な戦乱時代を迎えるのである。
10年にも及ぶ内輪もめ、これが応仁の乱。
都を戦乱の渦に巻き込んでいった。
その為、皇族や公家たちは全国に
非難していくのである。

歴史は面白いもので、この戦乱を
避けるがために貴族たちが地方へ
散ることで、京の文化が全国に広がった。
この戦乱の時代に、
能や茶道、華道などの
文化が一気に花咲くのである。
これを東山文化という。

弱体、足利政権は力をつけてきた
地方の守護大名に支えられきたが
ぼろぼろになった政権は利用される
だけであった。
戦国大名の出現である。

武田、上杉、毛利、今川、北条・・・
そして、織田。
新しい発想を持つ戦国大名は
運を味方につけ、ついには天下へ手をかける。
その時に足利15代将軍、足利義昭を擁立し
織田信長は、京へ上洛を果たすのである。


義昭は織田信長に対して
涙ぐましいほどの画策を繰り返す。
しかし、その甲斐もなく足利政権は
15代で滅ぶのであった。

いつの時代も、旧体制は、
新機軸に必ずとってかわられる。
歴史の教訓はここにも生きている。


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鎌倉幕府の意味するもの?



おごれる人も久しからず・・・
有名な平家物語の一節である。
平家の栄華と衰亡が記された
物語である。

福岡県と山口県の県境、関門海峡は
壇ノ浦と言われており
平家滅亡、平家終焉の地である。

その平家を討伐したのが源氏。
その統領が源頼朝。

1192年、征夷大将軍に任ぜられ
鎌倉の地に幕府を開くのである。

幕府とはよく聞く言葉だが
元々は、中国戦国時代に王に変わり
出陣した将軍たちの拠点を意味した。

こうして、ついに武家政権の始まりを
迎えることになる。
これまでは朝廷中心の政治であった。
それをじわりじわりと武力と政治力で
のし上がっていったのが平清盛。

平清盛は武家である。
しかし、政権を握ったという
公的な地位はなく。
朝廷政治の大実力者(太政大臣)という
ことになる。



したがって、武家政権、つまり天皇より
武家が、公式に国の政治の経営を任される
事になったのは、今回の鎌倉幕府からと言える。

さて、この鎌倉幕府の初期は
かなり脆弱な政権であった。
頼朝(父)以後、頼家(兄)、実朝(弟)の
3代で源氏の血統が途絶える。



3代目の実朝も、兄頼家の子、公暁に暗殺。

しかし、この政変劇にはちゃんと黒幕あり。
ことの次第は歴史の彼方であるが・・・

状況証拠を並べると、ずばり北条親娘。
頼朝の妻、政子は勝気な妻。
夫の死後、政権維持に奮闘する。
尼将軍と言われる由縁である。


また、真の黒幕はその父親、北条時政。
将軍に変わって政治の実権を握る職名、
”執権(しっけん)”の初代である。
なんとこの北条氏の執権職は16代まで続く。

3代北条泰時の時に
御成敗式目などの政令の整備。

8代北条時宗の時には
元寇(文永・弘安の役)では大艦隊を撃退。

確かに源氏という武家の統領格の家柄が
成立させた政権であったが
政治力のある(国家運営能力?)がある
者がそれを引き継いだということか…。

末期はまた新たしい武家のスターが登場する。
楠木正成、新田義貞、そして足利尊氏・・・
そして、後醍醐天皇・・・。

日本を分断する勢力のぶつかり合い、
天皇家の正当性を左右する問題、
功労者が不遇になる悲哀・・・。

鎌倉の終焉は、さらにドロドロした
新たな戦いの始まりであった。
本格的な戦国時代へ突入する。
時が動き始めるのである。

※鎌倉幕府、初代から6代までの歴史を
記した「吾妻鏡」

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キリスト教伝来後の日本は?


以後よく広まるキリスト教・・・
歴史の年号覚えにこう覚えた人は
多いのではないだろうか?


カトリック教イエズス会の
フランシスコ・ザビエルは1549年に
薩摩の坊津にて日本の地を踏むのである。

この坊津は薩摩の密貿易の港でもあり
古来から、外国船の寄港地でもある。
この絵は、歌川広重作「六十余州名所図会」に
描かれている坊津である。
奥に見える2つの柱石を双剣石と呼ぶ。

ザビエルは、当時の日本へ到達するルート
ヨーロッパから東回りで日本へやってきた。



約350年後に起こる日露戦争で
バルチック艦隊が来航したルートと
似ていると思うが、昔からの
レギュラールートだったのであろう。

さて、キリスト教の宣教師たちは
日本へ何をもたらせてくれたか?
もちろん、キリスト教布教が中心だが
彼らの”情報”は後の明治維新をも
動かしたのである。
そう科学の世界であった。

また、東の果てのジパングに
彼らも驚いたであろう。
金貨、銀貨の流通、識字率の高さ
芸術工芸建築の美しさ・・・
それらは、インドを通じ本国へ報告され
東洋の神秘伝説は積み重なっていった。
今でも欧州で浮世絵や陶磁器、刀剣などの
コレクションは盛んである。
まさにクールジャパンそのものではないか。

ザビエルは、約2年という短い月日で
離日している。
しかし、その後はイエズス会の宣教師は
時の権力者までたどり着くのである。
信長、秀吉の庇護を受けたルイス・フロイス。



家康、伊達政宗の庇護を受けたルイス・ソテロ。
彼は清貧の徒で有名なフランシスコ会の宣教師。



フロイスは、日本の事情を「日本史」という
著作にまとめている。

ソテロは、慶長遣欧使節団の案内役。
伊達家家臣、支倉六右衛門常長を
欧州へ導いている。

1587年、秀吉によるバテレン追放令
その法令を引き継いだ徳川幕府。
このおかげで300年近く秘かな信仰布教しか
行われなかったが、明治維新以後は
西洋文化の流入と同時に日本にも
様々なキリスト教会派が現れる。

現在、日本の
キリスト教信者は
人口の約1%程度という。
仏教、神道の壁はやはり厚いようだ。

しかし、キリスト教伝来は
極東の島国に世界を見せてくれた。
考えや行動が変わるのは
やはり新鮮でエキサイティングな情報だ。
治世者は、政権維持のために
知識人は、我が知識欲のために
医者は、より高度な医療技術のために
そして若者は、まだ見ぬ世界のために・・・

キリスト教は、宗教であり、思想ではあるが
それを伝えたのは生身の人間である。
その人間と日本人との触れ合いは
政治的な思惑とは別に育っていった。

鹿児島の坊津に無性に行きたくなる。
そこは外国船の入港地であったが
逆に、日本の外国への出発点でもあったのだ。



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坐禅の意味すものは何か?


インドに生まれ、中国に渡り
修行した達磨大師が禅宗の起こりである。
その教えは、不立文字(ふりょうもんじ)で
言葉や説法などで伝えられず
ひたすら禅を組むことで悟りを
開くものであった。
仏教のあらゆる宗派で坐禅は
使われているが、禅宗は特に
坐禅を中心にした宗教なのである。

現代でも使われる”禅定”という言葉は
争いなく、心穏やかに地位を
能力のあるものに譲る意味に使われる。
禅という言葉には、”心穏やかに”という
意味合いがある。

さて、日本での禅であるが…
代表的なニ宗を紹介しておく。
栄西禅師の臨済宗
総本山は南禅寺。



もうひとつが・・・
道元禅師の曹洞宗
総本山は永平寺。




この違いの大きな点は・・・
坐禅の時の心持にある。

臨済宗の場合は看話禅といい
公案、問いに対する答えを
考え抜き悟りへと向かう修行。
その問いは無理難解なものが多く
無理会話(むりえわ)とも呼ばれる。
”一休さん”で馴染の一休禅師は
臨済宗の僧侶であった。
禅問答とは、この臨済宗の公案の
やり取りからきている。
だから、坐禅は向かい合うように座る。


曹洞宗の場合は黙照禅といい
ただひらすら座り続けるものである。
道元禅師の教えでもある
”只管打座(しかんたざ)”は
ただひたすらに座り続けることに
打ち込むべしという意味である。
達磨大師の壁に向かい参禅9年の
話を聞くと、なんとなくわかり易い。


坐禅を組むことが修行…
ただ座っているだけで…
やると様々な雑念が生まれて
落ち着かない。

正しい坐禅姿勢とされる形
”結跏趺坐(けっかふざ)の姿を
保ち続けるのは大変である。



しかし、現代科学はこの坐禅に
精神を落ち着けるセロトニンを分泌させる
効果があるとされている。
セロトニンは、ノルアドレナリン、ドーパミン
とともに三大神経伝達物質である。
情報過多の現代社会では
この坐禅は大いに効果があるのではないか?



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浄土思想とは何か?


極楽浄土、往生浄土…
耳にしたことのある言葉である。
この浄土とは仏教の概念。
文字の如く、浄き世界という意味だが
それは現世がつらく、苦しい世界であるから
命尽きた時には、清浄で苦の無い世界
浄土が待っている。
現世を穢土(えど)と対比している。
人間の現世の苦労からの解放という
憧憬がここにある。

さて、この仏教の概念で”浄土”は
複数あるのであるが、
最もなじみ深いのが西方浄土を司る
阿弥陀如来、阿弥陀仏である。



仏教のどの宗派は概ねこの阿弥陀如来を
重んじているが、中でも浄土宗、浄土真宗は
本尊として崇めている。

浄土宗とは法然が開祖である。

南無阿弥陀仏・・・という念仏を
唱え続けることが重要。

浄土真宗の開祖は親鸞。
南無阿弥陀仏の念仏は同じだが
そこには心の部分、信じる気持ちが
大切で、例え声明しなくても
思っていれば人は救われるという教え。



親鸞は法然の直弟子である。
親鸞自身は、自分は新たな宗派を
開祖したつもりはなく、後々の弟子たちが
やはり、分派していき浄土真宗という
形が生き残ることになる。

ここで出てくるキーワードが
【他力本願】という言葉である。
これは、自分は何も努力しなくて
人に頼って生きていく・・・誤解である。
本来は信心深い生き方をしていれば
全ては阿弥陀仏が背負ってくれる・・・
という意味で他責の世界ではない。

さて、この浄土真宗について少し述べたい。
まずはこの系図を見てもらいたい。



親鸞から数えて11代目の顕如。
彼の時に静かな宗派は
過激な教団となっていく。
それらが一向宗といわれる。

顕如自身は浄土真宗の教えである
”王法為本”(現政権を支える立場を貫く)
であったが、
様々な拡大解釈があったのであろう・・・
現世に浄土を築く・・・という考えが広がってきた。
その代表事例が加賀一向一揆。
領主殺害まで発展し
一時的ではあるが、一向門徒の国が
誕生した瞬間でもあった。

戦国末期の出来事でもあり
各地の戦国武将は、この勢力に
悩まされて、弾圧したり、取り込んだりと
一向門徒たちの扱いに苦慮した。

その混沌に痛烈な打撃を加えたのが
織田信長である。

比叡山焼打ち(浄土真宗ではないが・・・)
長嶋一向一揆の殺戮
各地での一向宗門徒を惨殺殺戮を
繰り返す。その数10万人と言われる。
これは広島長崎の原爆死傷者に
匹敵する。

これを契機に一向門徒の暴走は
沈静化していき、大阪石山にあった
本願寺本山を退去することになる。

後に豊臣秀吉がこの地に
大阪城を築城するすることになる。
この意味合いは、宗教も権威の
下に位置するという意思表示でもある。

現在、浄土真宗(真宗)は
西本願寺と東本願寺に大別され
それぞれがまた分派している。

親鸞は今、浄土で自分の子孫や弟子の
流れが諍い、分派していることを
どう思っているのだろうか・・・
自分自身が死を迎え、
浄土というものに出会えたなら
聞いてみたいものである。

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法華宗とは何か?




鎌倉時代の僧、日蓮は天台密教の中の
法華経を大本とすべきであるとし
教えを広めていった。
日蓮入滅後は、弟子や孫弟子たちの
教理違いにより各派に分派していく。
それらを日蓮宗と呼ぶことも多い。
基本は法華宗から派生していったものである。

さて、この日蓮はお題目が大事とする。
よく題目と念仏はどう違うのか?と
疑問に思うことも多い。

題目は経典や釈迦そのものを唱え
念仏は仏を唱える。

南無妙法蓮華経…題目
南無阿弥陀仏…念仏

日蓮は架空の仏などを本尊にするのは
間違いである。
釈迦そのものや釈迦の説いた経典を
唱えることによって真の学びが出来る…と。

そのために、浄土系の信徒や信者にも
命を狙われたり、時の執権、北条家に
都合3度も諫言の書「立正安国論」を
届ける。



その内容は、今の政権の信じる宗教を
法華宗に変えねば、大変なことになると…。

執権、北条時宗の時には実際に元寇が起き
世相は、「日蓮の予言通りだ…」となる。
しかし、世情を騒がせた罪に問われ
佐渡ヶ島へ流刑。

法華経以外は認めないという姿勢は
他流派や他信者の反感を買い
諫言の建白書なる「立正安国論」も
まともに取り上げられることはなかった。

朝に題目、夕に念仏などの柔軟性許容性の
高い天台法華宗と世間の受け入れ格差は
かなりあったと思われる。
しかし、江戸時代の商人たちには
日蓮宗を信仰する数も多かったという。

さて、どんな熱情を込めて説いても
国は日蓮を認めなかったが
身延一帯の地頭、南部実長の知遇を得て
身延山を寄進されたことから
この身延山が日蓮宗の総本山となる。
寺名は久遠寺。



日蓮の一生を追いかけていて
ふと、ある人物が浮かんできた。
その人物は、剣豪、宮本武蔵。
柳生家の勢威のため。幕府や諸藩に
評価されず、静かに隠遁した孤高の天才。
日蓮の一生は、権威との戦いではなかったか…。

この身延山から南へ眼を転ずると
霊峰、富士山が拝める。
日蓮も観たであろうこの光景に
信念に生きた僧侶の姿は良く似合う。


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密教とは何か?


日本の仏教伝来には2説ある。
538年説と552年説。
その後、遣唐使の派遣を皮切りに
大乗系(インド>中国>朝鮮>日本)の
師が渡来し、国産の教祖も生まれる。

その中にあって、教えを秘する
密教という教えがある。
誤解を恐れずに解釈すると・・・

悟りは自分自身の中にあり
自らの体験経験によって
感じるものである。
他人にとやかく語るでなく
秘して自分の中で学ぶべきものである。

日本での密教の代表が
弘法大師、空海。
伝教大師、最澄。
ともに同じ時代にこの密教思想の教えを
日本で誕生させている。

空海の教えは真言宗。

言葉ではなく、仏の声(真言)を心で
聞く教えである。曼荼羅の世界。


一方、最澄の教えは天台宗。

この教えは、懐が広い。
他の教えも受け入れて、
人はどこから教えに入っても良いとする。
経典は、法華経である。


もっと、身近な世界が寺である。
本山意識を脇において、
どの宗派も修行の場の方が馴染み深い。

空海の真言宗は高野山(金剛峰寺)
総本山的には京都の東寺であるが
高野山の方が、空海の教えに近づけそうである。





内八葉外八葉という深山の中全体が
修行の場になる。

最澄の説く天台宗の本拠は比叡山(延暦寺)。
京に近く、琵琶湖を見下ろす霊山である。


比叡山全体が修行場である。
千日回峰行とい荒行は有名である。
「この行に失敗したら”死ね”」というもの。
比叡山の山中を初め、京の町中を
ひたすら歩き続けるものである

密教を修めようとする僧侶には
厳しい修行が課される。
それは自分自身への秘めたる大願に
命をかけて挑戦しているのである。

高野山や比叡山に上らなくても
我々も自分に課す現代の修行は
たくさんあるように思えるのだが・・・?


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神道とは何か?


神道は他の宗教のように
経典はなく、特定の教祖もいない。
神々を祀っているだけだ。
自然信仰、民間信仰を基盤としている。
森羅万象に神が宿り、
人智の及ばぬ世界への畏敬の念がある。



それでも、神典と呼ぶ規範になるものはある。
古事記、日本書紀などがそうだ。

ところで、神宮、大社、神社は
何がどう違うのか・・・?

まずは神宮。
伊勢神宮を中心に全国に24社ある。



神宮と号するのは皇室の祖先を
祀っていることが基準。
因みに伊勢神宮は天照大神を祀っている。
明治神宮は、明治天皇である。
全国に小さいながら宮と称されるのは
やはり皇室の祖先を祀っている。

次に大社。
出雲大社など全国に24社ある。



神々を祀って、規模の大きいものが大社。
因みに出雲大社は大国主命を祀っている。

奈良時代以降、江戸末期まで
神社では仏教と神道を混合する
神仏習合であったが
明治になり天皇を中心とする
国家運営に変わったことを機に
神仏分離が全国の社でなされている。

神道は、神話の世界がベースになっている。
古事記や日本書紀などの神典を見ると
神道というのはシンプルなのだが
様々な神々の関係性が複雑に思えて
なかなかとっつきにくい。
例えば、イザナギ?イザナミ?スサノオ?・・・
関係性を調べていくと実に面白いのだが・・・。

ギリシャ神話やローマ神話と同様
人間の営みに対する導きや諭しや警鐘が
ちりばめられている。
一度、身近な神社の成り立ちを
調べてみることをお勧めする。

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