自考能力開発講座 -16ページ目

自考能力開発講座

自分で考え、自分で行動するには、何が重要か?”考える”ということはどうすれば出来るのか?過去にとらわれ、今に悩み、未来を憂う人に贈る『自考能力開発講座』


自考能力開発講座2 
Historical Idea

石原莞爾とは何者なのか?

石原莞爾という軍人とは何者ぞ…?
一番よく聞くのが
”満州事変を起こした軍人”

・・・日露戦争後、日本は極東アジアで
大きなイニシアティブをとっていく。
満州を独立させ、日本の勢力下におくために
この満州事変は勃発する。

話は飛ぶが・・・
中国東北部満州はよく戦場となる。
そこは近隣諸国の地勢的な戦略地域。
黄海へ突き出た半島が遼東半島。
日清戦争で三国干渉で返還し
日露戦争で旅順をめぐるエリア。
戦後は、満蒙経営で日本は鉄道経営を
初めジワジワと影響力を伸ばしていく。

軍閥、張学良は日本の軍事力を
利用し地歩を固めていく。しかし、
そのうち日本に反旗を翻しはじめる。

日本の関東軍は、この張学良に
見切りをつけ、意図的に満鉄線路を
爆破する柳条湖事件を起こす。

この仕業を中国側におしつけて
報復の戦闘が起こる。
ここから満州事変が始まるのである。

・・・ここまで聞けば、石原莞爾は
「戦争を起こした張本人じゃないか!」と
なるが、まぁ、その通りではあるのだが・・・。

戦争には、当然目的がある。
当時の日本政府は非戦争論であったが
軍部の一部は違った。
特に陸軍のエリート達は
指をくわえておとなしくしていたら
ソ連(ロシアはすでに崩壊している)の
南下政策や中国軍の自主独立に欧米の
後ろ盾、それを理由に
また欧米列強は中国を貪ろうとするであろう。
そうなると中国も、日本も
国益を失うことは必至。

彼ら陸軍エリートたちは
極東アジアの戦略的占領はソ連や欧米への
外せない鉄板の戦略であったのだ。
満州国をそれら列強勢力の橋頭堡にする…
それが唯一、祖国日本を守る打ち手と
信じたのである。

石原莞爾は、著書『世界最終戦論』で
こう語っている。
最終的は、日本とアメリカの世界覇権を
争う大戦争になる。
その時に、今の日本では資源、兵員など
戦争に耐えうるポテンシャルがない。
ついてはアジアを欧米列強から
守るために日本の“互恵的”占領が必要である。


石原莞爾は、極めて現実主義者であった。
精神論思想論的なことではなく
合理的にそうせざる負えないと考えた上で
満州の武力占領も止むなしとなる。

また、満州国の経営に関しても
石原は満州人たちに任せ、
アジアの盟友を作ることを主張するが
東条英機は日本の影響下にと。
こうして、時の権力者東条と
堂々と確執を繰り返し、
ついに左遷、そして太平洋戦争の前に
退役するのである。

もし、東条と立場が逆転していたら
太平洋戦争も違った形で
終わっていただろう。
歴史の評価は実に難しい。


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Historical Idea

児玉源太郎の覚悟とは?


日露戦争における海軍の
代表的参謀が秋山真之ならば
陸軍の作戦責任者が
今回の児玉源太郎である。


まず日露戦争前後の
彼の明治政府における地位を
見てみると・・・

・陸軍大学校校長
・台湾総督
・陸軍大臣
・内務大臣
・文部大臣
満州軍総参謀長
・南満州鉄道創立委員長

その他、階級は陸軍大将
官位は従二位、死後贈位で正二位
顕彰の最後は勲一等旭日桐花大綬章

明治の元勲達から比べれば
珍しいことではないが
明治政府は薩長政治であったのだ。

長州藩の支藩、徳山藩中級武士の
息子として生まれたが
父も養い親であった義兄も
事件で亡くしている。
家長なき家の嫡男として
貧窮の中、刻苦勉励の後陸軍に。

西南戦争では熊本鎮台(今の熊本城)の
参謀役として反乱軍と戦い
日清戦争後の台湾統治に総督として
政治的手腕も見せる。
第4次伊藤内閣では陸軍大臣
第1次桂内閣では内務大臣&文部大臣
(日露戦争は桂内閣の時に起こる)

幼少から青年期初めまでの苦労を
取り返すように新政府内で出世を
重ねていく。
薩長以外の他藩出身で
出世してした人物は
全て能力の高さが故であった。

長州支藩の徳山藩出身の児玉は
やはり本流出身者より
苦労はしたであろう。

歴史の皮肉であろうか・・・
陸軍の児玉、海軍の秋山
この日露戦争の作戦担当者が
明治維新の本流から外れている
藩の出身者である。

しかし、改めてこの履歴を見ると
つくづく、児玉源太郎という人は
”マルチプレイヤー”であった。
それも、技能だけでなく
精神の柔軟さも持ち合わせていた。

日露戦争前夜、児玉は内閣の大臣だったが
陸軍の作戦参謀の柱、
田村怡与造の
急死を受けて、大臣の位を捨て現場への
降格人事を受け入れる。

満州の現場では、関わる人物が
それぞれ特徴があった。

直属上司の総司令は大山巌。
西郷隆盛の従弟である。
この大人的な薩摩隼人が上司で
あったことは児玉を安心させた。
「作戦は全部児玉さんに任せます。
私は負け戦の時に出ていくだけです。」
…覚悟の出来た人物であった。

山縣有朋は、日本陸軍の総参謀長。
危急の時に、薩長人事バランスなどを
拘ることに、児玉は怒りも覚えていた。
長州本流と亜流であった。

乃木希典は玉木文之進の弟子である。
玉木は吉田松陰の叔父。
児玉とは盟友であり、
二百三高地でのエピソードには
諸説あるが、戦後も
「乃木でないと陥落できなかった」と
語り続ける。精神的思想的な乃木を
児玉は終生、尊敬していたいう。


薄氷を踏む思いで、満州の地を戦い続け
首の皮一枚の勝利であった満州の諸会戦。
神経をそれほどまでにすり減らし
終戦の翌年、脳溢血で命を落す。

児玉源太郎像は近年、研究が進んでいるが
この小柄な男の中に吹く
明朗で、洒脱で、俊敏であり
毀誉褒貶に頓着することなく
さらに道理違いには激情をもって
憤る快男児・・・大好きである。

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秋山真之の役割とは?

歴史を学んでいればあることに気付く。
それは、組織危急の時には
必ずと言っていいほど天才が現れる。
この秋山真之などは、まさに天才であった。

幼少の頃より、喧嘩するにしても
どうすれば勝てるかを考え抜き
実行に移す。

知らない世界を学ぶその集中力は
見事なまでの取捨選択力を発揮し
無用無駄を徹底的なまでに排除し
目的遂行に対して一心不乱に考え抜く。

二百三高地を落とせば
旅順は落ちると進言したのは
真之であったという話もある。

その秋山真之は連合艦隊作戦参謀として
日露戦争における海戦とどめ
日本海海戦に最強海軍バルチック艦隊を
殲滅する作戦を任されるのである。

海戦で殲滅というのは、当時の常識として
ほとんどありえない世界であった。
まず、戦艦の大砲が当たらないのである。

当てるためには・・・
出来るだけ敵艦に近づき
正確な射撃の技量が要した。
しかし、この出来立ての連合艦隊は
それをやり遂げたのである。

この当時の連合艦隊総司令
東郷平八郎は、薩摩海軍の出身。
薩英戦争などで海戦とは何ぞやを
知る抜いた軍人であった。

その総司令が作戦を真之に一任するほど
真之に対する信頼と期待を
寄せていたのであろう。

さて、この日本海海戦の戦略が
バルチック艦隊の殲滅である。
6:4、7:3で勝つなどではない。
殲滅である。
そしてこの作戦を成功させる為に
真之は寝ていても天井に日本海の
地図が浮かび上がるほど悩みぬく。
そこで考え出されたのが
七段構えの作戦である。




日本海を升目に区切り七段の
攻撃機会を作り、一艦たりとも逃さない・・・
そんな作戦であった。

その第一波が大きなポイントであった。
最初の一撃で徹底的に相手を叩くことを
決意する連合艦隊。
その後、残存勢力を落ち武者狩りの如く
駆逐していく作戦であった。

その第一撃が戦術が当時の海軍戦術の
常識を覆す「丁字戦法」


艦隊同士がすれ違う寸前に
艦隊全体の舵を切り
相手にとうせんぼするのである。
しかし、その舵を切る転回ポイントは
艦隊の速度が落ち
尚且つ、敵艦に戦艦の横腹をさらす・・・
極めて危険な作戦であった。
開戦当初は、案の定ボコボコに
やられるのだが、転回がなってからは
これまでの艦隊訓練の成果が
まざまざと出た。
並行して、バルチック艦隊と操行しながら
相手を反対にボコボコにしてしまう。



そこには作戦の凄さもあるが
それを決断した総司令、東郷平八郎の胆力が
この作戦を成功させたと言える。

戦後、真之は中将止まりで退役。
自分の作戦を敢行した日本海海戦での
あまりにも悲惨な惨状が心を痛ませ、
その罪の意識で出家まで考える。

日露戦争の勝ち戦で湧く日本国内の
喧騒をよそに、真之の悔恨を募らせていく。
兄、好古よりも早くこの世を去ったのも
そんな経験が彼の死を早めたのか・・・。

作戦参謀は、その結果云々に責めを
負うのが武士道でもある。

現代、企画だけをやらせて、上手くいかなくて
平気な顔をしている企画立案者がいる。
出家しろとは言わないが、その結果を
心の心底まで落とし込み、
本物の反省を成して欲しいものである。

秋山真之の人生を省みると
作戦の重さをつくづく感じるのである。




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本多正信という参謀とは?



本多正信という徳川幕府黎明期を
支えた文官(事務方)は
歴史考察の中で評判は芳しくなかった。
それは、徳川政権を樹立するために
あらゆる謀略を重ねてきた…ためである。



しかし、近年・・・
徳川家康に真の忠義を尽くした男
頭脳明晰、作成立案の名参謀
立身出世に見向きもしなかった男

…こんな評価が上がり始めている。

しかし、なぜそれまで評価が
上がらなかったのか・・・?

謀略は、なかなか表には出てこない。
しかし、徳川の豊臣家殲滅作戦の
あこぎなやり様は、後世に瑕疵を
残したのである。

眼の上のたんこぶ、石田三成を
政治的に追い込み一線から去らせ

上杉の挙兵を使い、三成を動かし
関ヶ原へもっていく・・・。

その関ヶ原前夜、あらゆる諸将への
寝返り、不戦などを画策し
本戦では「戦う前に勝つ!」を
おぜん立て。

戦後処理でも、調略された毛利への
領土安堵は、ばっさり反故にし
中国地方の太守は、本州西方へ
追いやられてしまった。

そして大阪の陣を仕掛ける。
悪名高き難癖事件が
方広寺正銘事件。

豊臣家法要のため、方広寺の釣鐘に
刻まれた文言に難癖をつけるのである。
その内容がひどい。

「国」「君臣豊楽」
意味は、この国が安らかに運営でき
君臣がともに豊かな治世を・・・。
それを、
家康の文字を分断し、豊臣が繁栄
とこういちゃもんをつけたのである。
徳川家呪詛の文字と解釈したのである。
その難癖に豊臣家はついに切れた。
しかし、それこそ徳川が待っていたもの。

初戦の冬の陣では、停戦条件である
堀の埋め立ての範囲を徳川方で
約束以外の堀まで埋め立て
大阪城を完全な裸城にしてしまう。
夏の陣ではあっけなく落城。


それらに全てこの本多正信が
裏で絵図面を書いていたという。

徳川には徳川四天王がいる。
酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政
いわゆる徳川武将四大スターである。
しかし、全て武官。
彼らは、常に正信のことを
「臆病者」「腸の腐れもの」などと
毛嫌いし、忌避していた。

だが天下が収まるとこれら武官の出番は
無くなるのは歴史が証明している。
文官の時代が来るのである。
そこに政治の世界が始まり
法令による国家の仕組みが
出来上がっていくのである。
その中心を本多正信が担うのである。

徳川が260年間という長きの政権を
担えたのは、この黎明期における
本多正信の施策があったこそである。

その礎を作った本人は、
家康の度々の加増(昇給)を固辞している。
そして、家康が亡くなるとすぐに
自分自身も追うようにして亡くなる。

家康大事、徳川大事を貫き通した
真の忠臣の姿がここに見えてくる。
戦略戦術、人間洞察、組織構成、都市開発…
あらゆる才知を発揮した政治の天才。
他藩の者や旗本から蛇蝎の如く嫌われ
悪名を一身に背負い、世を去った。
今後研究が進めば、まだまだ事績功績が
認められる人物であると考えられる。


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黒田官兵衛の凄さは?



織田信長が家臣、明智光秀の
謀反により命運が尽きた。
羽柴秀吉が主、信長の敵討ちに
向かう行軍が世にいう
”中国大返し”である。
当時としては考えられぬ速度で
羽柴軍は移動した。
その差配をとったのが
黒田官兵衛と言われる。



さて、その直前と言える作戦が
”高松城の水攻め”である。

竹中半兵衛亡き後、秀吉の帷幕の
中心はこの官兵衛であった。

中国攻略の総司令官、秀吉は
武人の義を貫く備中高松城主
清水宗治を調略できず
官兵衛に新たな作戦を問う。

「水の中に沈めてしまいましょう!」
周囲は唖然とする。
秀吉「・・・ど、どういうことじゃ?」
官兵衛「されば、ここに堤を築けば・・・」

瞬く間に、高松城は水没状態。
城主、清水宗治は将兵の助命の代わりに
わが命を差出しこの戦は秀吉側勝利。
救援の毛利家は、手も足も出せず
高松城を見殺し。
この戦の降伏条件を話し合っている最中、
秀吉軍にとんでもない情報が
舞い込んでくる。
”本能寺で信長、討死!!”
”明智日向守、謀反!!”


さっさと毛利を騙すよう交渉を
続けながら、片や仇討の戦功を
秀吉にとらせようと、
大返しの準備を街道に張り巡らせる。
あっという間に光秀を討ち
清州会議、賤ヶ岳の戦い、北条攻め・・・
見事に秀吉を天下人まで導く。

豊臣の世になったある夜
座興の席で、秀吉が取り巻きに尋ねる。

「もし、わしが死んだら天下は誰に?」
「家康?前田?毛利?伊達?」
「…おぬしらは分かっておらんの…」
「黒田官兵衛よ!あの男ならやる!!」と。


この夜話の座興とはいえ
この言い伝えを聞き及んだ官兵衛は
「これは、いかん・・・」と。
隠居を申し出て、如水と名乗る。

秀吉は、官兵衛の知恵度量才覚を
最後まで怖れていた。
天下取りの最大の功労者に
九州中津12万石程度しか与えなかった。

天下人が怖れた軍師、それが
黒田官兵衛孝高であった。

後年、関ヶ原で黒田家が徳川に
味方したことを考えると
つい、あの時もっと厚遇していれば…
などと考えてしまうのである。



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竹中半兵衛の凄さは?


戦国武将、竹中半兵衛は美濃の人である。
斎藤家の家臣に名を連ねる。
その時の主は、斎藤義龍。
織田信長の妻、濃姫の義兄。

斎藤氏の居城は難攻不落の稲葉山城。
信長に奪われその後、岐阜城と呼ばれる。


信長は妻の実家である斎藤氏と
領土争いで衝突する。
しかし、何度攻めても落とせない。

そんな中、家臣である半兵衛は
斎藤義龍の後を継いだ龍興に
屈辱の仕打ちを受け、それを諫言する
意味でこの稲葉山城をわずか16名で
奪ってしまうのである。

信長は、半兵衛に譲り渡すように
勧告するが、それを無視。
なんと龍興に返却、そして致仕(退職)。

その後、その知恵深き武勇を見込み
信長は、秀吉に半兵衛を
引き入れるように命令。
しかし、半兵衛は何度も通う秀吉に
「信長殿に仕えるのは義を欠くことに」と
固辞し続けるが、秀吉に根負け
「では秀吉殿にならお仕えいたしましょう!」と。




こうして秀吉の天下獲りの武運は
上昇し始めるのであった。

秀吉の知恵袋であり、最大の恩人である
半兵衛は、黒田官兵衛と並び
秀吉の天下統一に貢献していくが
志半ば、労咳のため若くして世を去った。

孫子の兵法を初め、軍略の天才であった。
その作戦の中で、有名なのが
「十面埋伏の陣」である。
これは、信長が稲葉山城を攻略した時に
撃退された作戦でもあった。

戦術家の面とともに、半兵衛は義の人。
もし、あと20年でも命が長らえていたら
秀吉の世も変わった形で後世に
伝わったであろう。

知恵と義・・・当時の尊崇を集めた
戦国武将であった。




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熱海会談は何を教えているのか?



2020年、東京オリンピックが決定した。
喜ばしいことである。
それに向けて各業界は様々な角度から
商品開発や企画を練っている事であろう。

1964年、東京オリンピックが開催された。
カラーテレビが大普及・・・。

しかし、オリンピックが終わった後
パタリと売れなくなった。
業界を主導していた
松下電器(現パナソニック)は
一転、売上減の状況に陥る。

当時170店の販売代理店を有していたが
約20店ほどしか利益を出せていず
構造的な問題が表面化してくるのである。

そこで当時、すでに一線を引いていた
松下幸之助は、全国の販社社長を
熱海に集め懇親会を開催する。


しかし、それは今で言う懇親会という名の
親睦会ではなく現状を見つめ直す真剣勝負
販売現場の経営者と徹底的に話し合う
大会議の場であった。

販社経営者からは
「松下の商品が悪い!」
「松下のケアがなっていない!」
「もっと売れる商品を回せ!」

対する松下幸之助も黙っていない。
「経営努力が足りんのやないか!」
「もっと自助努力をしてもらいたい!」
「松下への依存ばかりではないか!」

双方、上手くいかない現状の不満を
徹底的にぶつけ合い、怒号が飛び交う。

予定の2日でも平行線の両者。
さらに3日も同じような罵声の応酬・・・。

残りわずかになった会議の時間。
松下幸之助は

「・・・松下が、悪かった・・・
思えば、電球1個から売ってくれたのは
皆さんでした。」

「今の松下のあるのは
皆さんのおかげだったのです。
松下は心を入れ替えてもう一度
見つめ直します。」

「だから、皆さんへも
厳しいことを言うと思います。
でも、これだけ本音を吐きだしたわけです。
お互い前を向いて、もう一度経営を
見つめ直しましょう・・・・」

時折、涙ぐみながら自社の非を認め
再生を販社経営者達へ誓う。

販社社長達も涙をにじませ
我々も努力が足りなかったと・・・。


この熱海会談の後、松下幸之助は
営業本部長代理として
全国を指導して回るのである。
その後、業績は回復。

松下幸之助の気迫溢れる言葉は、
経営者は常に矢面に立つことを怖れず、
現状に真剣に向き合う事の大切さを
我々に教えてくれる。

取引先である販社経営者、
そして松下電器の社員も
この姿に諭され、
今の自分自身を
自ら変革していくことを
学んでいったのである。

心に響く言葉と気迫と覚悟・・・。
経営の神様と言われる由縁である。




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水師営の会見の意義は?



二百三高地・・・
日本人の心の底に
今も複雑な想いとして残る。

日露戦争の戦死者の数を比較。
日本・・・約9万人
ロシア・・・約4万人


陸海両方での戦死者の数であるが
この二百三高地での死者は
およそ3,000人と思われる。
ロシア側は極めて少ない。

全体での比率は大きいとは
思わないかもしれないが
この高地を攻略するだけに
失った命にしては途方もなく大きい。

こうなったには様々な原因があげられる。
日清戦争時には全くと言っていいほど
この高地は要塞化はされてなかった。
日露開戦当初もそうである。

両国がこの高地に戦略意図を
見出したのは日本海海戦のための
ロシア海軍温存策である。

旅順港に軍艦をキープさせていれば
回航してくるバルチック艦隊と
この旅順艦隊の艦隊2セットで
日本海軍を壊滅させる作戦である。
そんな戦況になれば、
日本は制海権が奪われる。
ひいては満州で展開する陸軍が孤立。
全戦局が日本敗北へ傾く・・・

この陸海軍の恐怖
二百三高地奪取の作戦を敢行させた。

そしてこの攻略を担うのが、
後に軍神と称される乃木希典大将。


しかし・・・どう考えても作戦が拙かった。
正面攻撃一本槍なのである。
強固に武装された要塞のマシンガンに
突入する兵士たちは次々と斃れていく。

日本軍は、虚しさを抱え突入していき
ロシア軍はそれを撃ち殺しつづける・・・。



停戦となった時には、双方の兵士たちが
互いに肩を抱き合い涙したという・・・
ロシアの降伏手続きの交渉が行われたのが
この水師営という村であった。



日本は乃木希典、ロシアはステッセル。



後ろの納屋のような家屋で
その会見は行われた。
両軍の将に驕りも卑屈さもない。
あるのは虚しさだけであったろう。
この水師営の会見場には
今もその虚しさが漂っている。


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西郷は何故江戸を救ったか?


東上してくる維新軍(官軍)は
いよいよ江戸に到達し
江戸そのものを取り巻く布陣。

しかし、結論から行くと
江戸城は攻撃に合わず
徳川家は粛々と立ち退き
遂に江戸城は無血開城となった。


官軍の西郷隆盛は、当初は将軍の
首を獲る決意で江戸に
攻め上ってきている。

薩長を中心とした官軍の大半も
同じ気持ちであり、そうせねば
これまで幕府の弾圧で命を
失った仲間たちに申し訳が立たない。
・・・敵討ちの発想が”常識”と
なっていたのである。

では、なぜ西郷は江戸城攻撃を
中止したのであろうか・・・?

そこに登場するのが、徳川幕府の
最後の立役者、勝海舟である。

勝は、早くから佐久間象山ら見識者と
深い交流を持ち、
開国による欧米の技術輸入により
立ち遅れた日本を諸外国から守れる
近代国家の形成を願っていた。

外国を学び、外国に触れ、外国を計る・・・
物事を判断する上に極めて当たり前の
ことを行えた人物であった。
その勝が、徳川家の対処を任される。

決戦間際まで、西郷との交渉は続く。
開城条件の第1要求は
「将軍、慶喜の身柄引き渡し」

勝はこの一条を断固として拒否

勝は言う
西郷さん、もしあんただったら
島津久光公の首を引き渡せと
言われて、すんなり引き渡すかい?
」と。

武士の世界の論理は忠義である。
ほとんど壊滅状態の幕府の代表が
堂々とその条件だけは呑めないと
啖呵を切ってくるのである。

勝は言う。
それでもゴリ押ししようってんなら
あんただったら、どうするよ?
最後に大暴れして華々しく散ろうと
しないかい?この死兵となった幕臣は
強いぜ。」


既に官軍と幕軍の勝負はついている。
勝った方は命は惜しものである。

勝のこの交渉でほとんどの条件を
呑んでいる。しかし、この一条だけは
どうしても譲れない。
この交渉を迎える前に勝は
もし決裂した場合は
江戸を火の海にする手を打っていた。

官軍は、これから新しい時代を
作っていかなければならない。
江戸のインフラを灰塵にされては
たまらない。

さらに勝を見ていていても
幕軍には、様々な能力に長けた人材が
たくさんいるのだ。
それを活かさない手はない。

しかし、問題があった。
幕府を滅ぼさずには
将士兵士たちの溜飲が下がらない。

この不満をどこかで霧散させねば
今後の国家運営に支障をきたす。
結局、そのはけ口になったのが
彰義隊で有名な上野戦争であり
白虎隊で有名な会津戦争である。


西郷の頭の中には
近代国家の経営という課題があった。
この新しい日本の軍事総統は
武力に関する人材は心配していないが
おそらく戦後始まる仕組作りには
マネジメント能力を持つ人材
幾らでも欲しかったはずである。
戊辰戦争も、榎本武揚率いる
函館五稜郭で幕を閉じる。
この榎本も新政府に登用されている。

戦後、勝も新政府の要人となる。
しかし、西郷は不平士族を引き連れ
その身を滅ぼしていく。

時代が変わる時、いつの時代も
開拓者や改革者が
先頭に立ち命を落とす。

その後を文治の世界が到来し
時代を切り開いた人々は
お役御免となり、リストラされ
戦いの後ろにいた人間や
幼き人間たちが後を継ぐ。
時代の成り立ちであろう。

今自分が何を成すべきか・・・
損得で考えると誰も前線には
赴かないであろう。

西郷や勝は志や義で命を懸けた。
我々は今でもそれを美しく思えるのは
何故であろうか?

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小山評定の意図するものは?



400年以上も前のこの1600年。
まさに、歴史が変わった年である。
豊臣五大老の筆頭、徳川家康が
積年の忍従を解き放ち
天下取りを露わにした。

中でも一番手強い相手が
上杉120万石。
政治的な策謀でも揺らがず
高圧的な脅しにも屈せず
義に忠節を尽くす・・・

そんな上杉家に難癖をつけ
強引に秀頼から上杉討伐の
命を取り付けるのである。

このなりふり構わぬ姿勢に
諸将も眉をひそめるが
時の勢いを持つ家康に皆
しぶしぶ従う。

家康は上杉家の天下騒擾の疑念を
問いただすために召喚状を送る。

ここで上杉家からの返書が
俗に言う”直江状”である。



内容を乱暴に略すると・・・

「城の修復、武器の整備などを
謀反の準備と言うが
領地の整備をせよと領国に
帰るのを勧めたのは
他ならぬ、家康自身ではないか。
その途上にまたすぐに大阪へ
出て来て申し開きをしろとは
なんたる申しよう。
当方には謀反などさらさら
起こす気はない。
それが気に食わないならば
軍勢を連れてかかって来い!」


誰もが怖れる時の大老筆頭に
上杉家の名家老、直江兼続
厳然と言い放った。

ブチ切れた家康は、上杉討伐へ。
諸将を引き連れて、東海道を東へ。
小山(現在の栃木県小山市)まで
来た時に、西で石田三成挙兵の報。

さて、どうするか・・・?
このまま東上し上杉を討つか?
逆戻りして石田を討つか?

各々方ご意見を賜りたい・・・。
この会議(評定)が小山評定である。


家康に同道している武将は
官僚派閥の頭、石田三成に
不満や疑念を抱く武断派揃い。
それだけに武門の誉れでもある
上杉討伐には最初から乗り気でない。
大勢が”三成討ちべし!”で固まり
途中から西へ戻ることとなった。


・・・すべては、家康の筋書き通り
言われている。
大阪を留守にすれば
必ず三成が兵をあげる。
豊臣の最後の砦、石田三成討伐こそ
家康の描いた天下取りの絵図面であった。

Aを動かすために、Bを刺激する・・・
現代でも、必要とあらば使える発想である。


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