自考能力開発講座 -17ページ目

自考能力開発講座

自分で考え、自分で行動するには、何が重要か?”考える”ということはどうすれば出来るのか?過去にとらわれ、今に悩み、未来を憂う人に贈る『自考能力開発講座』



自考能力開発講座2 
Historical Idea


小田原評定から見えるものは?



小田原評定・・・
「ダラダラ時間をかけて何も
まとまらない会議集まり」

こんな現状を比喩して使う。

元来は、北条家が月に2回の
重臣会議を持った事から
由来する言葉だが・・・

1590年の秀吉の小田原攻めの際に

籠城するのか?出撃するのか?
降伏か?抗戦か?

・・・と評定(会議)を繰り返しても
結論が出ず、ズルズルと自軍の環境を
悪化させていった故事から
現代では優柔不断な組織の会議
意味するネガティブワード扱い
されている。

しかし、小田原評定を他人事とは
笑っておられない。
現代でも、こんな集まりはたくさんある。

売上が芳しくない。
「皆で意見を出し合うために会議だ!」
「さぁ、誰か建設的な意見を!」
「それもいいが、こういうのもあるが・・・」
「いや、それは・・・なんとなく・・・」
「社長!ご決済を!」
「あぁ、来週までに意見を各自まとめて・・・」


総論賛成、各論反対が延々と続く。

話を戻そう。
北条家は、鎌倉の執権家、北条氏とは
異なる家系となる。
よく混同されがちだが、そこは整理したい。

室町時代の御家人、伊勢氏の流れを汲む
伊勢新九郎盛時が興した家である。
彼が、戦国武将北条早雲である。
知恵と才覚と度胸でのし上がり
次々と領土を広げ
関東の雄として君臨するまでの
戦国大名家となるのである。



三代の北条氏康など
かの武田信玄、上杉謙信などと
丁々発止のせめぎ合いを繰り返し
互いに敵ながら凄い奴!と
評し合うくらいであった。
ここまでは良かった・・・。



親父が大きくした会社を
おぼっちゃんが食い潰す・・・
現代でもよくみる光景である。

氏康の嫡男四代北条氏政である。




この四代目が御家の判断を
見誤った。

秀吉を成り上がりと蔑み
上洛勧告を無視し続けた。
姻戚関係の家康の助言も
聞こうとはしない。

こんな殿様であったので
戦の最中でも、家臣たちの
裏切りや内部通報などが頻発に。

…そして秀吉が仕掛けた罠に
あっさりはまり、朝敵扱い。
あっという間に20万超の大軍に
小田原城を包囲され、そして降伏。

秀吉は高みの見物をしながら
小田原場内の右往左往の情報を
せせら笑いながら聞いていた。

先祖の功績を自分の力だと勘違いし
自分で考え抜くことさえしない。
それはそうである。
おぼっちゃんは、小さい頃から
何でも、そう、考えることすら
周囲がやってくれて育った。

我々はここで学ばなければならない。

自分で考え、
自分で行動し、
自分で省みる・・・

人はこうして冷静な判断が
出来るようになっていくのである。

だから・・・
結論の出ない会議はやめよう!


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清州会議の意味とは?



天正十年(1582年)・・・
6月21日 本能寺の変 
7月2日  山崎の戦い
7月16日 清州会議

本能寺の変から
清州会議を迎える時間には
驚愕のひと言である。

現代の交通手段でならば
まぁ、政権交代の時間として
そんなものか・・・と思えるが
安土桃山時代の出来事である。

如何に秀吉の行動力が
凄かったかが思い知らされる。

さて、本題。
この会議は亡き織田信長の相続は
誰が適しているか・・・?
これが主題であり
それに付随して、領地の再配分
どのように割り振るか・・・の会議である。

織田家の幹部同士が集まり
それぞれが推す神輿を
なんとか信長の跡目にと
様々な画策が渦まいた会合であった。

本来ならば、長男の信忠であるが
本能寺の変で命が尽きている。
この点がまずこの会議の紛糾
起因になっている。

次男は信雄。
長幼の序でいけばこの次男だが
なんせ統領になる資質に欠けた。
親父の敵討ちへの初動が遅すぎた。
一番近くに居たにも関わらずだ。

三男は信孝。
そこそこの文武に秀で
信雄よりはましであったが
生前の信長により神戸家へ
養子にいっていたのである。
織田本家本流から一旦
外れている
のである。

しかし、柴田勝家が信孝を推す。
この時の織田家筆頭家老は
勝家である。
剛腕強力で決めようとする

そこで待ったをかけたのが
信長の仇を直接的に討った秀吉である。
彼が担ぎ出したのが、
信忠の遺子、三法師である。
まだ幼子であった。
しかし、信長の孫でもあった。
大義はここにありと気付いた
秀吉は三法師を抱えて
嫡流の正当性を主張する。


長子相続が当たり前の時代。
この論理に周囲も反対できず
三法師で決定するのである。
後見役は秀吉。
まさに織田家筆頭家老になった
瞬間であった。

腹の虫が収まらない勝家は
領土再配分で、秀吉が信長から
もらった最初の城、長浜城を所望。

模擬天守(長浜城歴史博物館)

ある意味言葉一つの国盗りである。
しかし、秀吉はあっさり引き渡す。
自分は山城の国を手に入れる。

山城の国というのは京都である。
つまり当時の日本の中心であった
京都を押さえたのである。

後の朝廷愛護のほどを見れば
なぜ、山城なのか・・・?
ということが見えてくる。

領土の大きさではない。
権威の大きさ、大義の出所
最初に押さえたことになる。

清州会議の翌年には
勝家を滅ぼし、さっさと長浜を
取り返すのである。

その後は朝廷へ勢力を伸ばし
権威を味方につけ
家康をなだめすかし
北条家を改易に持っていく。
天下統一(1590年)の完成である。

大事な方向性を決める際には
大義がどこにあるか
誰についてきてもらうか
誰を排除するか・・・

権謀術数に忌避感を示す
現代人が多いのかもしれないが
実は、現代でも組織の中で
日々行われているのである。
皆様、努々お忘れめさるな!


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なぜ、大久保利通は暗殺されたのか?



西郷隆盛の盟友、大久保利通。
幕末維新の中で、軍事的精神的
象徴が西郷だとしたら
戦略戦術的にプランニングしたのが
この大久保であろう。

明治新政府は、いわば統治機構として
脆弱で何が起こってもおかしくはなかった。
そんな初期の混乱を治めていく
統治の中心が大久保であった。

新政府は、これまでの武士の社会を
否定することから始まる。
廃藩置県や市民平等政策
さらに廃刀令・・・

武士のアイデンティを
ことごとく否定する政策

新政府によりガンガンと進む。
それを推進決済していく政府首脳の
中心がこの大久保利通であった。

幕末維新に賛同して
幕府軍と戦った官軍兵士達は
…こんなはずではなかった・・・」と
我が身に沸き起こる
不遇不満のエネルギーを
爆発させていく。
以下の主な叛旗の乱を
見て欲しい。

佐賀の乱(1874年:佐賀)
神風連の乱(1876年:熊本)10/24
秋月の乱(1876年:福岡)10/27
萩の乱(1876年:山口)10/28
西南の役(1877年:鹿児島)
そして・・・
紀尾井坂の変(1878年)

全て明治政府への施策への
フラストレーション
巻き起こした各地の反乱である。
新政府も近代化された兵器を
用いてどうにか鎮圧していく。

しかし、ついに今回の変が起きる。
石川県士族、島田一郎をリーダーとする
大久保卿暗殺テロ、それがこの変である。




我々は、この事件で
何を学べば良いのか?

西郷の起こした西南の役の意味が
新時代に不要なエネルギーの排除。
西郷自ら最後の仕事として
不平士族等を引き連れて
葬り去ったとしたら・・・。

その盟友、大久保利通は
世界に通用する”国家”を作ろうとした。

それまでの日本人には、日本という
国意識はなかった。
かれらの国というのは藩のことであった。

それが欧米列強の襲来を機に
国家観が芽生える。
その集大成、具現化を成し遂げた人物
それが大久保利通であった。

何が今、大切なのかと考えた時に
批判や怨みを怖れず
友の喪失や我の命までも
省みらず、成すべきことをやる。

大望を成し遂げるということは
その覚悟を貫き通すことである。

日々の柔弱な自分自身を
反省することしきりである。

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なぜ、井伊大老は暗殺されたのか?


新しい時代、明治へ回天していく
歴史のうねりは、この桜田門外の変を
境に加速していく。


重要なので年表を確認する。

1846年 孝明天皇即位
1853年 黒船来航
1854年 日米和親条約締結
1858年 井伊直弼、大老就任
1858年 安政の大獄
1859年 吉田松陰刑死
1860年 桜田門外の変
1862年 坂下門外の変
     生麦事件
     松平容保、京都守護職就任
     参勤交代緩和
     高杉晋作、英公使館放火
1863年 薩英戦争
1864年 池田屋事件
     禁門の変
1867年 明治天皇即位
     大政奉還
     鳥羽伏見の戦い
     大政奉還  
1868年 江戸城無血開城 

井伊直弼が斃れて
怒涛の如く時代が動き始める。
思えば、徳川260年の治世の
最後の砦がこの大老だった。

新しい時代を作りたい側は
旧来の体制に立ち向かう。

命を懸けて戦えば戦うほど
旧体制の大きさも感じる。

時代をひっくり返したい
明治維新ボーイズにとって
井伊直弼は大きな壁となった。

「時代を変えたいなら俺を
葬ってみろ!」
と言わんばかりの
最後の奮闘。

徳川幕府の運営の最高責任者が
反する勢力を全力で弾圧するのは
当たり前である。

何故なら、それが自分が背負う
使命なのであるから。

家康の遺訓が蘇る。
…重きを荷を背負うが如し…

見事な最後の足掻きであったと思う。





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なぜ、禁門の変で何が変わったか?



尊王攘夷論の藩論で進む長州。
1863年、公武合体で手を組む
薩摩と会津が長州の排斥を狙って
八月十八日政変を起こす。

長州は与する公家(三条実実ら7人)と
ともに都落ちする。

名誉回復とばかり久坂玄瑞らを中心とした
御所への復権交渉がこじれ
この禁門の変(蛤御門の変)へ発展する。

この事件の背景にはいつものように
時の権力闘争であるが
思想の違う両陣営同士が
天皇という錦の御旗を求め
起こった事件である。



直談判のように、武力を配置し
朝廷との交渉に臨む長州。
おかげで”朝敵”との烙印を押される。

御所を守る会津、桑名藩に対して
大砲、鉄砲をぶっ放すのであるから
その行為は当然、御所への発砲となる。

プロセスではなく、具体的に動いた
姿が誰の眼にも御所攻撃となれば
完全な”朝敵”となるであろう。


我々は長州の決起を見て
何を学ぶのか?

大義も大事、思想も大事、熱情も大事
時代を変えるということは
そういうことである。

しかし、それらのものをどう表現するかで
逆や、別の、異なる結果が往々にして
起こることを歴史は教えている。

ご存知の通り、その後は薩長同盟となり
今度は会津が窮地に陥るのである。

この幕末維新は相対的に
薩摩が常に優勢側、大義側にいる。
当時、一番したたかだった組織で
あったことは間違いない。

しかし、この禁門の変の前年には
薩摩はイギリスと戦争をしている。
薩英戦争である。

この戦後処理で薩摩はイギリスを
味方につけているのである。
世界で一番したたかな国と
手を組んだということで
戦略、戦術の長けた新しい薩摩が
時代を動かしていった。

やはり失敗を活かせて方が
勝のである。






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なぜ、島原の乱は起こったか?



松倉重政という大名がいた。
豊臣家の直臣だったが
関ヶ原で家康に与し
大坂夏の陣で武功をあげ
1616年に肥前日野江藩を得る。

この松倉重政が幕府のキリシタン弾圧令に
従順に従い、島原の乱の起因を作る悪政が
始まるのである。

この松倉重政、幕府に阿ることに熱心過ぎた。
軍役(家臣の数は石高で規定されていた)も
幕府に称賛されるために相当数の数倍も
請負い江戸城普請などに精を出すのである。

当然、藩財政は火の車。
その付けは年貢の厳しい取り立てに始まり
キリシタンへの弾圧を沸騰させていった。

住民達は反発する。
それに対して、残虐な仕置きを繰り返す。
民意は限りなく薄くなっていくのである。
全ては幕府への忠誠度を示す
典型的なスタンドプレーで突き進む。

百姓・キリシタンへの圧政が
遂に爆発したのが島原の乱である。

組織の象徴は神秘的であれば
あるほど良い。
その点では天草四郎は適任であった。

この乱は最終的には収束するのだが
幕府軍の恐怖の一つが
「死兵」との戦いであると言える。

我が身の命を投げ出して
眼の前の敵に突き進んでいく。
浄土思想である・・・
死んだら幸せになれる・・・」
嬉々として向かってくる一揆側。
幕府が老中までが前線に
現れることになる。



未来の見えない人々にとっては
希望の光となり、反乱エネルギーの
象徴として祭り上げられたのは天草四郎。

次第に戦局はただの一揆に収まらず
日本最大の内乱へと沸騰していくのである。
その居城が原城という破却城。

天草四郎は傀儡政権の
錦の御旗であったであろう。

面白い仮説がある。
天草四郎の祖父は豊臣秀吉という。
秀頼の息子との説があるのだ。
原城(島原の乱の要塞と言える)を
劣勢になっていく中、原城を脱出した後
ルソン(フィリピン)で御家再興(豊臣家)
を練り上げていくのであった。
歴史のタラレバはいつも尽きない。




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なぜ、光秀は信長を討ったのか




以前、堺屋太一氏の「鬼と人と」という
小説を拝読した。
歴史小説なのだが、現代の縮図が
投影されて大変面白いものであった。

上司信長と部下光秀のそれぞれの
立場、心情、思考を交互に織りなしていく
一種のオニムバス形式の構成である。

人間は集団の中で生きていると
他人への思慮がないと
物事がうまくいかないことが多い。

また、その思慮もレベルが問われる。

ましてや上司と部下などの関係は
部下が上司の満足度を計れる思慮
持ち合わせていると覚えもめでたい。

信長と光秀は、共に優秀な人物であった。
信長は、新しい日本を作ろうとした。
軍事の先鋭化や運用は斬新であり
効果も素晴らしかった。
楽市楽座などの施策は経済を
活性化した。
その変革プロセスの中で、天皇を廃し
自ら日本の王たらんとした気配
がある。

片や光秀は文武に秀でた人物で
武将としても当時、一級の人物であった。
典雅古典に通じ、天皇を中心とした
日本の歴史を尊重敬愛し
伝来の秩序を守ろうとした。


凄腕の上司にとって、出来るN02が
自分と思考展開や思想が異なるのは
面白くはないであろう。

次第に信長は光秀の処遇そのものも
嫌がらせの如く冷たいものになっていく。

現代社会ならば、辞表を叩きつけて
会社を辞めれば良いが
この時代でそれをやれば”謀反”とされ
一族郎党根絶やしにされてしまうのである。
ならば、やられる前にやる!・・・
これが戦国の論理なのである。

信長との関係・・・
朝廷との関係・・・
宗教界との関係・・・
家康との関係・・・
秀吉との関係・・・

まさに日本史最大のミステリー。

誰が信長暗殺の真の黒幕か・・・?
朝廷説、秀吉説、家康説、キリシタン説・・・
未だに喧々諤々の研究が
専門家たちによって行われている。

その中で一番ワクワクするのが
光秀=南光坊天海説
この内容は、面白すぎるので
別の機会にする。

ともかく、信長という稀有な人物を
抹殺した光秀の真情は
未だ闇の中である。




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なぜ、応仁の乱は起こったか?



応仁の乱…歴史では定番のフレーズである。
では、なぜ定番なのか・・・?

まずは日本史上一番長く続いた内乱である。
日本人同士が東西に分かれ
約10年もの間続いたのである。

それだけではない。
その結果、時の統治者や権力者が
ことごとく疲弊し、勢威を落としていった。

そのために地方豪族たちが
雨後の竹の子のように
誕生していったのである。
それが俗に言う戦国武将である。

応仁の乱が無ければ
後の信長も、秀吉も、家康も・・・
明治維新までもなかったかもしれない。

さて、話を本題に戻そう。
争いの発端は、跡目争い。
歴史をふり返ればよくある話である。
今も、昔も・・・。

その主役が日本三大悪女なる
人物評で毎回上がってくる
日野富子



8代将軍、足利義政(銀閣寺建立)の正室である。
義政との間に子供をもうけることが出来ず
僧籍に入っていた義政の弟を還俗させ
嫡子とするのであるが・・・

歴史というのか、運命というのか・・・
富子に男子が出生することになる。
後の豊臣家と同じ状況になるのだ。

そうなると母は強しである。
可愛い我が子を次の将軍へと
運動を開始するのである。

その中で、日野富子の凄さが目立つ。
東西両軍へ資金援助をしていたところだ。
どっちに転んでも生き残るしたたかさ。

乱の終息後も、治安と朝廷保護のために
京都七口に関所を設け、通行税を徴収。
その資金を朝廷維持に使う名目ながら
その収入を我が懐に入れたという・・・。

この乱は権力の亡者たちが
複雑に絡んでいる。

義政の弟、義視を推す東軍と
息子、義尚を推す西軍。
細川VS山名の権力闘争。
室町幕府を支える管領職の思惑。
さらに地方豪族の与力を
自軍に引き入れて両軍とも勢力を
増強し続けていく。
両軍合わせて25万超のにらみ合い。

御家騒動がこんな大合戦へ
つながってしまった。

この背景にあるのは・・・
女の意地から始まり
現政権での覇権闘争
そして・・・下剋上。


応仁の乱は室町幕府崩壊の発火点
それは権威名族の既成概念を
吹き飛ばす実力主義の到来でもあった。

裏切り、謀反、謀略・・・
人間の持つ醜い本性がまかり通る
世の中が始まってしまったのである。

これを実質終わらせたのは1600年の
関ヶ原と位置付けるとなんと150年近く
日本人同士で争ってきたのである。

毎度思うことは、闘争には勝敗が決まり
勝者の驕り、敗者の怨みが生まれる。
そして時はそれぞれを深く育て始める。

小さな諍い・・・全てはこれからである。
我々はそれを見過ごさず
早めに解決する知恵
身に付けたいものである。




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なぜ、日本は第一次世界大戦参戦したのか?



1905年にヘトヘトになりながら
日本はロシアに辛勝した。
その10年前は
眠れぬ獅子、清国に勝利。

欧米列強は、日本を無視することが
出来ない存在となってきた。
そこに、人類史上最初の世界大戦勃発。
主舞台はヨーロッパである。

発火点は、オーストリア皇太子夫妻の
暗殺がきっかけとなる。
サラエボ事件という。


国境を接している欧州は
常に領土の諍いが絶えない地域である。
ちょっとしたきっかけで
紛争につながってきた。
スケールを小さくすれば
日本の戦国時代なども
同じようなものである。

しかし、この時は当事国も
予想だにしないほど規模が拡大した。
そこで日本の状況だが
日露戦争(1904年)の布石として
日英同盟(1902年)を締結している。

日露戦争時、英国はバルチック艦隊への
妨害や国際世論の操作などで
側面的な協力を果たしている。

その日英同盟はこの時も効力を持ち
今度は、英国の要請
中国のドイツ租借地を攻略。

しかし、ここから日本の野心
露わになってくるのである。
対華21か条の要求・・・
ここで満州での地位を固めていく。
戦いは、次の戦いの布石を
作りながら進んでいくのである。


日清日露で三国干渉や賠償金で
国力消耗の割に報いられなかった怨み
沸々と湧き始めるのである。

欧米にとって中国大陸は
魅力ある果実である。
欧州で手一杯の隙に
日本が中国を席巻する危惧が
気になってしょうがない。

対華21か条の要求にも
諸外国だけでなく
当の中国もクレーム。

満蒙の権益を確保することで
この交渉は落ち着くが
ここが第2次世界大戦への
序章
となっていくのである。

余談になるがこの大戦から
兵器の大変革が起きる。
爆撃機の登場である。

戦争は悲惨な出来事ばかりである。
しかし、ある側面として科学技術を
促進
させるきっかけになってきた。

現代でも戦争を欲する利益追求集団は
世界中に存在するだろうが、
人類の知恵として、戦争しなければ
科学技術が発展しないという前提は
もはや通用しない。

SFではないが、地球外からの侵略でも
無い限り世界はまとまらないのでは
ないかと憂いている。

関ヶ原~第一次世界大戦まで
「戦を考える」という点で進めてきたが
戦いというのは・・・まさに
思考の偏り、独善、驕りなどが
絡み合って引き起こされる。

21世紀を迎えて久しいが
人類の知性はまだまだ鍛えて
いかねばならないと思う。










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なぜ、日本はロシアに勝てたのか?



日露戦争で日本が勝利した。
その勝因は?
そう問われたら…「様々。」と
答えるしかない。

当時のロシアは、欧米諸国も
1対1の戦争などと考えられないくらいに
強大で、強暴で、強圧な超大国。

もし、日清戦争での賠償金が
無かったならばおそらく結果は
逆になっていたかもしれない。

では勝てた要因は?と
問われれば・・・
運が味方をした・・・。」と
言わざる負えない。

ここでいう運とは
何もしないで天から幸せが
降ってくるのを待つ運ではない。

軍部、政治、技術、国民・・・
あらゆるカテゴリーの人々が
英知の、知力の、死力の限りを
尽くして後の”運”である。


その中で強いて1シーンを
上げるとするならば
ニ○三高地の戦い。

これは戦略的に陸軍海軍の
両方に関わってくる戦いであった。

前回の「日清戦争」での三国干渉を
思い出してほしい。
遼東半島の割譲を三国によって
返還せざる負えないことになったことを。

このニ○三高地はこの遼東半島の
先端近くにある港湾都市、旅順を
見下ろす高地でもある。

そんな状況の中、新たな恐怖が
迫りつつあった。
以下の海路を見て欲しい。



日本を殲滅させるためロシアが
当時世界最強の呼び名の高い
バルチック艦隊を日本海に派遣する
ルート図である。
まさに波濤万里を越えてはるばる
日本海までやってくる。

さて日本は慌てる。
満州の陸軍も苦戦を強いられている。
その時に物資輸送ルートである
日本海や黄海などの制海権を
抑えらると陸軍孤立。

そこでロシアの旅順艦隊を
早々に滅ぼして、バルチック艦隊迎撃の
備えをしないといけない。

黄海海戦にて旅順艦隊へ
かなりのダメージを与えたが
残存艦隊が軍港でもある旅順港へ
逃げ込んだままバルチック艦隊が
来航するまで息をひそめている。

日本軍は陸軍に陸から攻撃して
旅順から残存艦隊を追い出してくれ
要請する。

その攻略地点がニ○三高地の奪取
旅順港が丸見えのそこに大砲を備え、
山の上からつるべ落としに攻撃すれば
旅順残存艦隊はさっさと逃げ出して
くるから、そこを海軍が叩く。
そうして晴れて海軍のメンテナンスが出来
バルチック艦隊の迎撃準備に入れる。

日清戦争の時に変哲もない山間は
10年の間にロシアよって
堅固な要塞へと
変貌してしまっていたのである。

史実としては結果ニ○三高地は奪取
するのであるが、あまりにも犠牲が
多かった。三国干渉のツケ
ここで大きく日本を苦しめたのである。

その後、ニ○三高地を攻めた陸軍は
本戦の地である満州へ戻り
海軍はメンテナンスに入れて
日本海海戦に備えることが出来た。

海戦に関していれば、
バルチック艦隊はほぼ全滅。
海戦史上、これほどまでの完全勝利は
今でもありえていない。


我々は日露戦争を知ることにより
追い込まれた国民の死に物狂いの
自国防衛戦を知ることになり
英知の結集により新しい技術が
開発され、指導者たちの
魂魄の政治決断や戦闘決断を
垣間見ることが出来る。


しかし、本当に学ばなければ
ならないことはもっと深い。

超大国とのあり得ない勝利。
我々には神風が吹くという誤謬。
日本だけはどこにも負けないという過信。

結果、この神風思考は悲惨な
太平洋戦争へとつながっていく。

終戦記念日を間近にして
戦争とは何なのか?
是非、自考して欲しいものである。