朝礼スピーチのねた ブクロ -128ページ目

空飛ぶ兄弟!

今日は、飛行機の日です。


【活用場面】

 科学的思考、挑戦、今を生きる!


ライト兄弟は飛行機の発明者です。

アメリカ・オハイオ州生まれ。牧師の家庭の3男、4男として育ちました。当初は印刷機を自作し新聞事業を行なっていましたが、その後、1892年には自転車会社設立を設立し、販売・修理をしていました。


1896年、グライダーの研究家として知られていたリリエンタール(「空飛ぶ実験」の著者)が墜落したニュースが伝わると飛行機に大きな関心を抱き、1903年、 ノースカロライナ州、キティホークにて、ライト兄弟が人類で初の飛行機による有人動力飛行に成功しました。


弟のオービルが操縦し、飛行時間12秒、飛行距離36.6メートルを達成しました。それまでの飛行の試みの多くが、「ジャンプ」に毛の生えたものでしかなかったのに対して、主翼をねじることによって制御された飛行を行い、飛行機の実用化に道を開きました。


ライト兄弟は当時としてはきわめて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明し、風洞実験によって得たデータを元に何機かのグライダー試作機を作成し、一歩一歩堅実に飛行機の作成を行い有人動力飛行に成功したのです。


その後、飛行機制作会社設立し世界初の軍用機も制作しましたが、他の設計者達によって高性能の飛行機が製作されるようになりました。


ライト兄弟の名言です。


 「いま正しい事も、数年後間違ってることもある。

     逆にいま間違ってることも、数年後正しいこともある。」


今をしっかり生きることが大事なことなのです!

大事な電話のかけ方!

今日は、電話創業の日と紙の記念日です。


(今日の出来事:総選挙の日です。)


【活用場面】

 気配りと情報共有!


電話の受け方一つで会社のレベルが分かります。

基本的な挨拶はともかく、相手の用件も聞かずに「担当がいないので分かりません。」と答えただけで終わってしまう会社のレベルは最低ランクです。仲間である担当の帰社時間すら知らないのですから・・・

 

電話をかけてきた人の気持ちを考えて対応しましょう。相手がどんな気持ちで電話してきたか?そんな返事だけしか貰えなかったら?どのように感じるでしょうか?


同じ職場で働いている仲間の事を知らないでは困りますし、行き先も知らせずに出かけていくのも困りものです。お互いに知らせる、知って貰う努力が必要です。お客様に迷惑をかけないよう、仲間同士の情報交換を図って下さい。


たった一回のまずい対応から数千万円の取引がキャンセルされることもありますから。


電話では相手の様子は分からないはずですが、不思議な物で雰囲気で相手の表情や感情まで分かってしまうものです。口先だけの丁寧な言葉は直ぐに分かってしまいます。

良く受話器を持って頭を下げている人を見ますが、あれが正しい電話の受け方・かけ方なのではないでしょうか?


電話をかける時も受ける時も、先に会社名や名前を名のり、受信者が不在であれば用件メモを残す等の基本的な事項は励行しましょう!

年賀状何時書くの?今でしょ!

今日は、年賀郵便特別扱い開始の日と観光バス記念日です。


【活用場面】

 産みの苦しみ!郵便システム創設の苦労!黒船の影響!

 

 前島密は、郵便のしくみを作った人です。

 前島密は、小さいころは医者になろうと考えて、
江戸に出て医者の家に薬室生として住みこみ、薬の調合や病人の世話の手伝いなどをしながら、医学の勉強に励んでいましたが、18歳の時、アメリカ海軍のペリー提督の軍艦を浦賀で見た密は感動し、じっとしていられなくなり、国を守る方法を考えなければならないと考えたのです。

 それからの密は、旅に出たり、海軍
操練所で勉強したり、函館開成所で航海術を学にんだりしていましたが、桜田門外の変やロシアの軍艦が来航等があり、幕府のふがいなさに日本のこれからがますます心配になりました。


 密はこのあと、長崎で英語を学んだり、鹿児島の開成学校で教えを受けたりしていました。薩摩藩では、西郷隆盛や大久保利通らと話をすることもできました。しかしここで密は、薩摩藩の倒幕計画を聞き、日本の国があぶなくなると思い、それを幕府に知らせるために1年ほどで江戸に帰り、幕府の開成所の数学の先生になりましたが、この年大政が奉還されました。

 明治2年、密は新しい政府の民部省に勤めることになり、しばらくして密は、駅逓司という役所の駅逓権正を命じられました。


 ある日、一通の書類がまわってきました。それは、東京~京都の間で政府の手紙を運ぶ金額について書いてありました。これを見て、密はこう考えました。
「しばらくは、手紙の通信は東京から大阪までの東海道だけにしよう。そして毎日一回、東京と大阪から手紙を送り出すことにする。それには、政府のものだけでなく、民間の手紙も一緒に送り出す。そうすれば、東海道沿いの人たちも喜んで利用するだろう。そして手紙を送る金額は、政府も民間も同じにする。そうすれば、月々の収入は1,500両を超えることは確かである。」

 そう思いついた密は、その日からほとんど眠らずにこの考えをまとめました。いろいろなことを調べたり計画を立てたりしました。決めなければならないことがいくつかありました。まず、「郵便」や「切手」「ポスト」などの名前を決めました。次に、東京と大阪間の郵便物の発着時刻を決めました。それから、郵便の料金をどうするか考えました。

 その翌年、密は、進んだ郵便制度の仕組みを自分の目で確かめるためにイギリスへ行き、たくさんのことを学んで帰ってきました。
 イギリスから帰ってくると、これまでの飛脚の制度を廃止しました。その後郵便の仕事は長崎まで広げられました。
 さらに、密にはどうしても解決したいことがありました。それは外国郵便のことです。それまで日本は、外国との郵便の取り決めをしていなかったので、せっかく日本に届いた手紙を本国に送り返すことしかできませんでした。密はこれが悔しくて仕方ありませんでした。

 密はねばり強く努力し、明治8年、ついにアメリカとの郵便の取り決めがまとまりました。日本の人たちが、日本の切手をはって外国へ手紙を出すことができるようになったのです。外国郵便の開業式の中で、密は「わが菊花、今日よりその秀麗なる光輝を世界の人民に映射せん。」とよろこびの言葉をのべました。

 役所をやめることになった密は、東京専門学校(=今の早稲田大学)の校長になったり、もう一度役所に戻って郵便をさらに活発にする仕事をしたりしました

 そして、大正8年4月27日、84歳で亡くなりました。


 前島密が苦労して作り上げた郵便のシステムです。早めに年賀状を出しましょう!

 前島密の苦労を伝える為に今回は長めです!