死んでしまえば自分の身体はどうなってもよいか? | 青い柳の樹のように  - counselor's blog -

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名古屋の老舗カウンセリングルーム「アンフィニ」の代表カウンセラーの青柳と申します。
少しでも多くの人にカウンセリングや心に関心を持つ機会になって頂ければという願いを込めたブログです。
皆様の生活に身近に感じられ「気づき」になれますよう。

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心理カウンセラーと心理学を身近にするブログです。
皆さん、本日の心の天気はいかがですか(^^

さて、今回は「献体」について。

皆さんは、この世に産まれましたね?

産まれたから今、この文章を読んでいます。

 

そして私たち人間は、例外なく、

いつかはわかりませんが、やがて「死」を迎えます。

 

自分の「死」というものは、

通常の日常からは遠く、想像しがたいものですし、

考える必要のある事からは除外されています。

 

「明日、あの仕事しなきゃ。」

「来週はあの子に会える。」

「週末はビザを食べに行こう。」

「来月はついに結果発表か。」

「老後のためにお金貯めなきゃなー。」

 

明日が来ないとは思いません。

来年も生きているのが当然。

なんなら老人になることを心配しています。

誰もに命の保証はないのですが、

命に感謝を感じる機会は、なかなか訪れません。

 

最悪の場合、心がボコボコのボロボロになってくると、

生きる活力が失われ、

【生きている】=【苦】

という図式になってしまいます。

「生きていても仕方がない。」

「生きる意味がない。」

「もうどうでもいい。」

 

こう心に過るとき、心の感度は鈍くなっていますし、

視野は有り得ないほど狭くなっています。

もう「死」して、その後のことはどうでもいいのです。

 

関わった人たちに訪れる悲しみ。

身内の人たちが抱え続ける後悔。

死体を発見した人の心の傷。

 

通常の日常なら、想像には及びますが、

心がボコボコのボロボロになると、見えません。

心がギリギリですから。

 

どれだけ常識的な人でも、

普段は優しいとか思いやりがあるとか関係ないのです。

 

「死」を考える必要が無いときこそ、

健全に「死」を考えることが必要なのかもしれません。

例外なく、誰もに訪れる「死」について。

 

皆さんは、どう考えますか?

明日、また続きを書きたいと思います。虹
 

 

 

いつも有難うございます。

死が過ったときはアンフィニへ!

.

ご予約は052-253-5040まで!

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