小学6年生から高校生まで、物音一つ立たされることも許されない、そんな家庭環境に身を置いていたが、県外の大学に行ってから、私は何もかもから開放された生活を送っていた。
そして、親の期待を裏切り、私は4つ年下の男性との間に、一つの命を授かり、結婚する運びとなったのだった。
実父は、最初は、激怒し、許さない姿勢を示していたが、私の揺るぎない決意の元、最後は祝福してくれたのだった。
結婚資金、結納金では不足分の資金、新生活を送る上での100万もの資金を調達してくれた両親には感謝しかない。
無事、第一子、長男が産まれた頃から、生活は慌ただしくなった。
夫は、24歳になったばかりであった。
高校を卒業して、しばらくして私と付き合ったので、まだ遊び足りなかったのだろう
長男が産まれた直後から、夫の友達が遊びに来るようになった。
私はまだ、夜も眠れない日々である。
夫の友達が来ると、料理を作ることになる。
最初は、遠慮ぎみだった夫の友達も、お祝いと称して大勢で来て、夫と共に何処かへ遊びに行ってしまった。
夫は、18時には夕飯を食べれるように…おかずは3品以上作るように言って来た。
年上女房の私は、しっかりしないといけないと、家庭を守ろうと心に誓った。
夫も長男を、とても可愛がってくれていたのだ。
しかし、若い頃遊んで来なかった夫は、付き合っている時も、女性の陰がちらほら見えていた。
浮気もしていたと思う。
長男が産まれた後も、お構いなく夫は、友達を沢山我が家に呼んで、酒を酌み交わしていた。
私は、長男の世話もあり忙しかった。
長男が二歳の頃、次男も産まれた。
益々忙しくなってきた。
私は、自分の手で子育てをしたかったので、「仕事は、二人が小学校に上がってからにして欲しい」とお願いしていた。
私は、料理も頑張ったが、家が汚いのが嫌で、毎朝掃除機をかけ、布団を干し、整理収納をしていた。
それと、車では童謡を流し、絵本を大量に買い、玩具は、少し高い、知能が伸びてコミニケーションが取れるモノをわざわざ買いに行っていた。
積み木も白木だった為、高い出費だった。
トイレトレーニングも自宅でやり、泥んこ遊びに、粘土遊び、鬼ごっこ、段ボール箱遊び、新聞紙遊び、等、一緒になって遊んであげた。
その内二人共、幼稚園に上がり、お弁当は夫の分を合わせて3人分、水筒3人分、持たせていた。
朝、6時起床、洗濯機を回しながら、お弁当作りと朝食作りをし、掃除機をかけ、夫を送り出し、子供達を着替えさせ、準備する。TV「おかあさんといっしょ」を見せながら、布団を干す、洗濯物を干す、そして、子供達と三人で、幼稚園バスの停留所まで送って行くのだ。
ママ友達と、会えてお喋り出来る唯一の楽しい時間もあっという間に過ぎ、バスが来る。
「おはようございます!!」
満面の笑みの幼稚園教諭の優しい態度にホッとする。
長男、次男、に、「行ってらっしゃい」と手を振り見送る。
それから、少しママ友達と雑談して、車がないママ友に、一緒に買い物に行こうと私が声をかけるのである。
ママ友が行ける時間まで、私は掃除をする。片付けもする。そして買い物に行く。帰宅し、ご飯を食べたら、洗濯物を取り込み畳んで収納する。布団は軽く叩いて裏返す。そうするともうお迎えの時間である。
お迎えバスに行き、怪獣二人が元気良く帰宅。
ママ友と雑談しながら、次男は何処かに走っていなくなる。帰って、お弁当箱と水筒を洗い、手帳とお手紙を読む為、五分だけ椅子に座って読み、ファイルに閉じていく。
干していた布団を取り込む。
少し子供と遊ぶ、どっと疲れる、お片付けをする。
トイレはオムツだったか?トイレトレーニング中だったか?の時もあった。
部屋中、ぐちゃぐちゃになる…。
子ども同士、喧嘩することもあった。
午後四時、夕飯の支度にかかる。
六時に食べるので、四時には夕飯の支度にかからないといけない。
釜でご飯を炊く。
炊けたら、ご飯を炊飯器に移す。
おかずは、中華鍋で炒めものは作る。
なるべく、既製品は使わない。カレールーくらいである。
六時、夕飯。
揚げ物は、窓から覗いて、夫が車を駐車場に入れている時に、油に投入する。
夫の着換えをお風呂場近くに持って行き、夫の着ていた作業着は、直ぐ洗濯機で洗う。
子ども達も、お風呂に入る(?)私が入れていた気もする。
夫は、ビール🍺で晩酌する。
子ども達は「お父ちゃん、お父ちゃん」と群がっていく。
夫は子どもと遊ぶ方だったそうだが、いつからか、夜飲みに行くことが増え、昼間も家を空けることが多くなっていった。
土曜日は、夫の友達が遊びに来る日。
朝から、ピザの生地をこね、作り発酵させる。
筑前煮や、ロールキャベツ、コロッケ、塩おにぎり、焼き鳥等、作っておく。
ピザは、来客時に焼いていた。
新年会、忘年会、ウチでやっていた他、突然来る時もあり、ジャーマンポテトや、エリンギィーのバター炒め等、酒のアテにしてもらっていた。
私は、料理が嫌いである。
不得意ではないが、嫌いであった。
片付けが好きで、いつも何かしら片付けては、掃除していた。
あと土曜日の昼間、子ども達にたこ焼きを作らせたり、かき氷🍧を作らせたりしていたが、途中で飽きて、食べず、散々散らかし、何処かへ行ってしまうのは、勘弁して欲しかった。
そして…
「抱く子は良い子に育つ」と言う本を読んでからと言うもの…次男をしょっちゅうおんぶしていた時期もあった。
今考えると
インフルエンザになっても、走り回っていた私である。
結局、最後はヘロヘロになって病院に行くと、医師に「入院!!」と言われ、「子どもがいますので、出来ません」と言うと
「貴方は、入院と言わなければ、動きっぱなしでしょう!!」と叱られたことを覚えている。
長男が、小学校に上がった頃、私は何でも出来る気がして、団地の班長も既にやっていたことだ、長男の学級委員に立候補し、役員にも立候補していた。
次男は、まだ幼稚園だった。
この間、私の実父と義父が亡くなり、義父の葬儀の時は、夫の親戚分のご飯を準備したり、お風呂掃除したり、テキパキ動いていたので、お義姉さんに「見直した!!」まで言われた。
離婚するまで、毎夜、寝る前は子ども達に絵本を5冊、読み聞かせしていたが、正直クタクタに疲れていた時もあり、次男がなかなか寝てくれないのが、可愛い辛さだった。
そんな私は、次第に、ガリガリに痩せていっていたのが、この時はまだ気づいていなかった。
直ぐ近くまで、「うつ」が忍び寄って来ていたのは知る由もない。
続く