私は、二人兄弟の長女として生を受ける。
上には4つ離れた兄がいる。
四国の外れにある電車も通っていない、主に漁業で成り立っている片田舎で育つ。
両親は、教師。
父親は、短気で自分のマナーに厳しい人だった。
母親は、家事が苦手な仕事が出来る束縛する人だった。しかし歪んだ愛情も持ち合わせていた。
祖父祖母と同居しており、保育園はいつも祖父が遠い保育園まで迎えに来ていた。
おじいちゃんっ子だった。
忙しい両親に代わって、祖父がとても善くしてくれていた。祖母は私の記憶では認知症を患っていた。
後に段々理解してくるのだが、当時の田舎の町では、1、2、を争う豪邸だったことを知る。
当時は、だいたい二段ベッドが流行っており、なかなか、一人部屋は与えてもらえなかった時代である。
私の部屋は、フランスベッドが置かれ、ピンクのレース付きのベッドカバーをしており、部屋の内装も北欧をイメージした仕様で、カーテンもオーダーメイドで大人びた色にボンボンの傘がついており、電灯は白熱電球ではなかった。黄色の電気が3つ着いていた。
洋服ダンスの取って、ドアノブもヨーロッパを思い浮かべる仕様だった。
何より、階段が吹き抜けになっていたのである。
今では珍しくないが、昭和40年代の田舎では珍しい造りだったものである。
庭には、池があり、鯉が数匹泳いでいた。
そんな私は、金銭的に困ったことはなく育つのだが、メンタル的には、歪に育ってしまったのだったことは、誰も知らない。
心は、悲痛の叫びを訴えているのに、誰もそれに気づかず、指しゃぶりは、小学6年生まで続いた。
うつ病を自律神経失調症と言われ、薬も処方されず、約2年間、登校拒否児となり、寝込んでしまった。
毎日、父親の怒涛の叫び声に怯え、母の厳しい束縛と母自身が甘えたい時に寄ってくることに不快感を覚え、自由のない家で物音一つ立ててはいけない息苦しさと、味気ない夕食が地獄のように思えていた。
周りからは、お嬢様と称賛されていた事など露ほども知らぬ話であったし、どうでも良かった。
早く県外、いや四国外に出たかったのは言うまでもない。
続く