いつからか、大きな音や小さな音にも敏感に反応するようになった私。
HSP?
発達障害?
といろんな診断がつく中、一番大きく影響されたのは、父親の暴言であると思う。
割と裕福な家庭環境に育った私の外側からは見えない闇黒の家の中。
超がつくほど綺麗好きだった父親は、とにかく徹底的に部屋を綺麗に保つことに精進していた。
門限は、高校生になっても17:00。
帰宅後、直ぐ靴を揃えて玄関を上がり、夏は靴下を脱いで、かかとで歩き風呂場へ直行し足を洗わねば部屋に上がれなかったほど。
私物は、何であろうと部屋から出してはいけない。
出したとしても、直ぐ片付けなければ、父親の怒鳴り声が家中に響き渡り叱責される。
両親共に教師であった為、幼少期はいつも離れに住んでいる祖父のところによく行っていたものだ。
祖母は痴ほう症になっていた為と厳しいイメージがあり、なつかず、祖父の布団にいつも潜り込んでいた記憶がある。
10LDKの広い家に一人居るのは、幼少期の私には、とても寂しく感じていた。
兄がいるのだが、兄と遊んだ記憶は、ほんの少し。兄の方がいつも父親に叱られていたように思う。
音は、ほんの少し、例えば二階の部屋でビー玉を一つコンッと落としただけで、父親の逆鱗に触れるのであった。
だから、ドアを締めるのも、階段を上り下りするのもソッと静かに行うことになる。
父の言うことには絶対的権利があった。
こうやって書いていると、父親もとても臆病で繊細で外では、凄く気を遣っていたように感じる。
毎朝、父親は廊下と玄関の掃除をして出掛けるのだが、日曜日は本格的な掃除の日である。
庭にある池の鯉を出して、ブラシで底を掃除してまた新しい水を入れ、鯉を戻す作業も何度か手伝わされた。
母親は、仕事ばかりに追われていた。父親の仕事の代わりもしていたくらいだったので、いつも小さな机に座って作業をしていた。裁縫が得意で何かしら作っていたのかも知れない。
私が高校生の頃だか、日記を全て母親に読まれてしまっていたのにはショックが大き過ぎた…。
喧嘩しても、まだ母親が強かった時期である。
甘えたい時に母親に甘えられず、指しゃぶりが小学6年生まで続いた。
消毒液を塗られたり、絆創膏を貼られたり、色々されたが、全て失敗に終わった。
高校三年まで、私はガリガリに痩せていた。
ガリガリ過ぎて、可哀想な目で見られていたが、大学に入って両親から離れて、普通の体型になった。
心理的な面で痩せていたに間違いないと思う。
大学は四国から出たくて、東京を志望していたのだが、母親に却下されたので、兵庫に行った。
大学時代の自由さは、今まで経験したことのない開放感があり、今考えると勿体ない期間だった。
神戸のちょっとした都会にワクワクしたり、大阪まで足を延ばし、キラキラ光る都会にはしゃいだり、20歳前半までは、本当に無茶もした。
それでも、自分の殻を破ることが出来ず、無理に明るく振る舞っていたように思う。
今は亡き両親ですが・・・
憎んではいない。
皆さん、同じ人間で未熟な親であって
その中で、必死で育ててくれた愛情は後から感じられるようになった。
鬱になってしまった原因は、両親が原因かも知れないし、私の生まれ持った性格かも知れない。
核心は分からないが、息子達に自分が受けたものを継承せず、ここで断ち切る、と断言した子育てだったように思う。
長文失礼致しました。
ありがとうございました。