うつ病経過 | うつ病 闘病記

うつ病 闘病記

34歳でうつ病を発症し、壮絶なシングルマザー年月を経て、うつ病を繰り返しています。その中で、うつ病の体験を元にうつから解放される為に何かに気付いたり、生きる糧になればと願っております。


私がうつ病というものを発症したのが、小学4年生時期・・・・その当時は、うつ病という病名がなく自律神経失調症と言われた。


学校に行くと朝からダル重く、机の上に顔を伏せて、大きな重力により顔が上げられないほどだった。


それで、小学4年生の1年間、学校に行けず休んでいた。小学5年生の時も人が怖くてきちんと行った記憶がない。


小学6年生から、学校に行けるようになり、中学、高校、と普通に通学。県外の短大へも行った。


県外で就職し、運転免許を取る為に一時帰省した時に息子達のお父さんになる人と出会い、向こうからのアプローチで付き合うことになり、四国に帰ることになり、その後紆余曲折ありながら結婚、出産しました。


二人出産後…妙に疲れやすくなっていた私。それでも家事、育児、は全力でやらなければ!!と必死でした。

ある日…夜中に目が覚め、突然、津波が襲って来る感覚に襲われたのです。海の波の音が聞こえたような気がしました。不安で不安で・・・・仕方なかったです。


次は、次男をおんぶしたまま両手に買い物を沢山した重いレジ袋を両手に持ったまま、激しい動悸に襲われ、息が出来ない状態に・・・・死ぬと思いました。


その次に襲って来たのは、喉の異物感です。
ドクターショッピングをしても、喉は悪くないと言われ、内科で漢方を貰いました。


それから数日、何とか過ごしていましたが、元旦那の浮気が発覚し、私の中で我慢していたものが全てパーンと破れてしまい、それと同時にうつ病も発病したのです。

一気に動けなくなってしまった私は、即入院しました。今まで出来ていた家事が出来なくなってしまったのです。

うつを理解するような旦那とその家族ではありません。

私は、入院した時の体重は・・・29㌔でした。

食事を持って来てくれて、はじめてご飯をまともに食べていなかった事に気づいたのです。

肋骨が浮き出ていました。

子どものお世話もお願いしていたので、電話でお礼を言うと、烈火のごとく叱責と罵倒の言葉を叫んでいた元旦那の母親。私は公衆電話の受話器を握り締めたまま、そこに倒れ込んだのは言うまでもありませんでした。


そこから、離婚までは、涙の親権を奪われて弱っている私が、なぜか、謝ると言うまさかの展開でして…

思い出しても、身の毛がよだつ話でした。

そこから、長男と会わせてくれず、あの元母親が『あんたは、もう母親じゃない!!』と玄関前に立ち塞がり、泣いて帰った事もあります。


長男も『会いたい』と電話で言って来た時も、隣りで嫌味を言うアノ人の声が聞こえていました。

憎い…。

今でも憎い…。

許せたと思っていたのに、今幸せじゃないので、余計腹立たしく思います。


それから、私は弁護士を立てました。

それで、面会が出来るようになりました。

着手金25万で面会出来るようにさせたのです。

それから16年・・・・以上(2度寛解しました)

何度、自殺未遂したでしょう

ほぼ毎日していた時もあります。

私が死んで、死ぬほど辛かったんだと教えてやるーと当時は思っていましたが、そんな人達に死ぬほど辛かったなんて、解るハズもなく、死んでくれてラッキーと思える人達なのに、バカみたいですね。

自殺未遂行動

リストカット
OD,
入水自殺
首吊自殺

全て未遂で終わっています。


しかし、ODだけ、一度100錠以上飲んだ時、危篤状態になり、ICUへ。今夜が山です、と。

目覚めたら、凄い重症患者さんがいる部屋にいて、後ろを振り返るとガラス張りのナースステーションで、キョトンとしていました。


左手首には、無数の傷で流石に隠せない跡があります。こんなに自分を殺したかったんでしょうね。
今では、可哀想になります。


長文になったので、ここで一旦終わります。


皆さんは、自分を傷つけないであげて下さい。
希死念慮が出たら、安定剤を飲んで、寝逃げして下さいね。苦しいでしょうけど諦めないで下さいね。