最も怖いグルメ評論家 | 井蛙之見(せいあのけん)

井蛙之見(せいあのけん)

毎日、いい音楽を聴いて、好きな本を読み、ロードバイクで戯び
楽しく話し、酒色に耽り(!)、妄想を語り、ぐっすり眠る。
素晴らしきかな人生!
井の中の蛙 大海を知らず 
されど、空の蒼さを知る
(五十路のオッサン、ロードバイクにハマる。)

 

 今でも鮮明に覚えている光景がある。

 小学校主催の祭りで疑似屋台を出していたのだがうちは焼きそばの屋台だった。

 実は、この祭りにはもう一組焼きそばの屋台があった。

 もともと、そのグループが離れるということでうちに声がかかり

 うちが参加を打診されて始めたが、ある特に復帰して二か所で焼きそばが

   売られる時があった。

 

 その屋台は、実に大規模で10人以上かかわっていただろうか。

 ソースも某オ〇フクソースでいいものを使っていた。

  麺や豚肉も少なくともうちよりはいいものを使っていた。

 そして、うちと比べて盛りもよくパックにいっぱい入って200円だった。

 うちは焼き手と販売(パックに詰める作業含む)が2人で回しており、

 値段は同じだが量は品物をうっすらとパックに並べる程度だった。 

 

 焼きそばがすべて捌けて、ざるに放り込んでいた金(テキヤ方式ですね・・)

 の計算をするために開放されていた事務室に向かう。

 そこで勘定をしていたのだが

 目の前で親子連れがおり母親が低学年の女の子に

 「うちとは違う方の」焼きそばを食べさせていた。

 しかし、子供は途中で食べるのをやめてしまった。

 「おいしくないの?」という母親の問いかけに

 無言で頷く子供と母親の姿を今でも忘れることができない。

 どうしてもその先、食べようとしないので

 仕方なく母親は3パックほどあった焼きそばをしまって

 子供と事務室から出て行った。

 

 食べ物を扱うものにとって、あれほど怖く残酷だった光景はない。

 

 「小学校で焼きそばを売る」ということに際して何年も

 観察していたが売れ方にある傾向を感じることができた。

 年々、「受ける味の傾向」を強めていったが正解だった。

 特に、小学校の低学年の女の子は「スパイシーなもの」は忌諱する

 傾向にある、ということ。

 先述したように、うちの焼きそばは正直盛りが非常に少ない。

 ところが、同じ女の子が3回くらい来た。

 しかも、一人二人ではない。

 (あの白い粉が効いたのか?…ウソです)

 つまり、限りのある小遣いのなかでも

 人は「口に合ったものを選ぶ」ということだ。

 値段や量は二の次だ。

 妥協するとろくなことがない、ということを

 子供たちはよく知っている。

 

 オ〇フクソースのような高いソースだろうが何だろうが

 私は焼きそばを作る際に「焼きそばソース」は使わない。  

 誤飲を防ぐためにこどものおもちゃは苦みがつけてあるが

 「嗜好品レベルのもの」や「スパイシーなもの」はどうにも

 子供には「まだ早い」ということになる。

 「苦味」や「酸味」などは後天的な獲得味覚なので

 子供には忌諱するべき対象となる。

 もっとも大人になっても子供の好きな食べ物を好む大人を

 「子供舌」と揶揄するようだが「家庭の味」とか「幼少期から

 食べ続けてきたもの」というのは体に染み付いているものだ。

 

 人間というのは食べなれたものをおいしく感じる。

 幼少期の味の記憶は忘れない。

 マク〇ナルドがどうしてフライドポテトをセットに加えているのか?

 そして、(最近は違うようだが)フライドポテトは値段を下げないのか?

 これは、子供の時に食べたフライドポテトの味が忘れられなくて

 若いお母さんになっても子供を連れてきてくれる。

 子供が喜ぶもので、しかも自分も嫌いではない、となれば

 マク〇ナルドが選ばれるのは自然な流れだろう。

 特にフライドポテトは利幅が大きいので実に理にかなった戦略である。

 

 そうしたこともあって、私は「最も怖いグルメ評論家」は子供だと思っている。

 SNSに批評が多いラーメン・カレー・カツ・焼肉などは

 「塩・だし(うまみ)・脂」が味の大きな要素を占める。

 ゆずだのなんだのは後の話。ここがしっかりしていないと薬味も生きてはこない。

 子供はそういう意味では最も怖くある意味、適切で「残酷な」態度を見せてくれる。

 私にとってはどんなに名の売れたインフルエンサーやグルメ評論家よりも

 情報に頼ることなく、能書きではなく、本能で本質をおいしさを理解し、鷲掴みする

 子供の「純粋な舌(味覚)」の方がよほど恐ろしい。