先日、高市首相がモンゴルのオチラル首相との会食(ワーキングディナー)で、モンゴル語の「トグトーイ!」という掛け声とともにグラスを頭の高さまで掲げて乾杯した映像が話題になりました。
これに対してSNSや一部メディアでは、「下品だ」「居酒屋じゃない」「国際マナーを覚えていない」といった厳しい批判が巻き起こりました。しかし、この騒動を一歩引いた視点から見つめ直してみると、現代のメディア空間やSNS社会が抱える根深い問題が浮かび上がってきます。
1. 相手国の文化を汲んだ「トグトーイ」と「乾杯の作法」
西欧型のプロトコール(国際儀礼)では、「グラスは静かに目の高さまで上げ、音を立てずに合わせない」のが標準的なマナーとされています。しかし、モンゴルの伝統的な宴席文化において、グラスや杯を意識的に高く掲げたり、しっかりと合わせたりする動作は、相手への深い敬意や親愛の情、そして場の祝福を表現するごく自然な振る舞いです。
事実、過去に皇居で行われた宮中晩餐会などの公式な場でも、来日したモンゴルのフレルスフ大統領がグラスを比較的高く掲げて乾杯するシーンが見られます。
相手国の言葉を使い、相手国の文化的な「敬意の示し方」に合わせた振る舞いは、外交における非常に重要なコミュニケーション(潤滑油)です。しかし、日本のマナー報道やネット上の声は、西欧型マナーという「単一の型」だけを絶対基準とし、相手国の文化や前後の文脈(コンテキスト)を無視して「型から外れている=悪」と決めつけてしまいました。
2. 「切り抜き」と「落ち度探し」に群がるSNSの構造
なぜ、このような背景を知ろうともせず、嬉々としてバッシングに同調する声が広がってしまうのでしょうか。そこにはSNS特有の構造的・心理的なメカニズムが存在します。
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文脈の喪失: 数秒の短尺動画では、前後の和やかな空気感や「トグトーイ」に込められた意味が削ぎ落とされ、「グラスを高く上げた」という動作だけが一人歩きします。
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正義感と優越感の錯覚: 「自分が知っているマナー」を基準に、「間違いを正してやっている」という歪んだ正義感や優越感から、感情的な同調が加速します。
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アルゴリズムの煽り: 冷静で多角的な解説よりも、怒りや嘲笑といった強い感情を伴う「切り抜き」や「レッテル貼り」の方がバズりやすく、拡散されやすい仕組みになっています。
複雑な外交課題や相手国の文化を理解する努力を放棄し、目に見える一部分だけを捉えて「冷遇された」「失敗した」と格付けゲームを楽しむ風潮は、まさに現代のメディア政治やSNS空間の浅薄さを象徴しています。
3. ガス抜きの存在しない「完璧な監視社会」の恐怖
こうした「過剰な正しさの押し付け」や「一方的な叩き」は、ネット空間での不満のガス抜きとして機能している側面もあります。しかし、これが国家主導で完全にコントロールされた「超高度な監視社会」となると、事態はさらに深刻な局面を迎えます。
例えば、中国が推進する「天網(スカイネット)」や社会信用システムのような完璧な管理社会では、SNSでの言論統制や街頭の監視網により、不満を発散する「ガス抜き」の場が完全に塞がれています。
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表現の自由の喪失: 些細な不満や批判すら即座に検閲・削除されるため、個人がストレスを発散する手段がありません。
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復帰の途絶(社会的詰み): 社会信用システムなどで一度ブラックリストに入ると、移動や就職、家族の進学にまで制限がかかり、社会復帰の道が絶たれます。
管理や監視を強化すれば表面上の犯罪率は下がりますが、それは問題を解決したのではなく、不満というマグマを地下深くへ押し込めただけに過ぎません。
救済措置もガス抜きの安全弁もない社会で追い詰められた個人は、やがて失うものが何もない状態になり、突然社会全体へ牙をむく「無敵の人」と化してしまう危険性をはらんでいます。実際、中国国内でたびたび問題となる突発的な「報復社会型」の無差別事件は、この「完璧な管理社会」が抱える強烈な副作用と言えるでしょう。
まとめ:表面的な情報に踊らされないリテラシーを
一瞬の映像だけに飛びついてバッシングに狂奔するSNSの風潮も、不満の逃げ場を奪い「無敵の人」を生み出してしまう監視社会も、根底にあるのは「文脈の欠如」と「多角的な視点の喪失」です。
流れてくる情報や切り抜き動画の表面だけを舐めて議論した気気になるのではなく、「その裏にはどのような文化や文脈があるのか?」「客観的な事実はどこにあるのか?」を一歩引いて確認する姿勢。
情報が過剰に溢れ、簡単に「極論」へ傾きがちな現代だからこそ、私たち一人ひとりの冷静な情報リテラシーが問われています。