人は前を見ているつもりで、実はバックミラーを見ているのである        | 井蛙之見(せいあのけん)

井蛙之見(せいあのけん)

毎日、いい音楽を聴いて、好きな本を読み、ロードバイクで戯び
楽しく話し、酒色に耽り(!)、妄想を語り、ぐっすり眠る。
素晴らしきかな人生!
井の中の蛙 大海を知らず 
されど、空の蒼さを知る
(五十路のオッサン、ロードバイクにハマる。)

 

 人間、「自分ほどわかっているものはない」と考えがちである。

 これは橘玲さんの「バカと無知」の話とは少し異なる。

 (あれは面白い本なので、まだ読んだことのない方には

  おすすめするが今回の話は少しばかり違う。)

 

 SNSを読んでいると時々、「ハッと」することがある。

 この前も「東京の味は関西と比べてまずいですよね」という投稿への回答があったが

 東京(関東かな?)の人からすれば大阪の「出汁文化に象徴される旨味を前面

 に感じさせる」味付けは、ときに「甘すぎる」ので好きではない、といったものであった。

 関西人の私からすればあの関東の蕎麦のだしの○○さ(うまみの質が違うのだが・・)

 こそないな、というのが正直な感想である。

 しかし、以前、「料理の鉄人」で関西の料理人のシャリを「甘すぎる」といって

 受け付けなかった審査員の言葉を思い出した。

 食味に関しては特に味覚云々以前に「何を食べてきたか」は大きい。

 

 今、動画を観れば結構「日本の飲食店やら食べ物の味」の評価は高いが

 これは「イメージが変わってきたこと」(知識として知っている)とか

「実食してやはり旨味を 含んだ味のバランスがよい」のだろうと想像する。

 特にアニメの影響はバカにならない。

 外国人にとって、正直、蒲焼、らーめん、焼き鳥、お好み焼きなどの評価は

 実食してみて、かつての紋切り型の和食(実のところ、生ものへの抵抗はまだ高い

 らしい)である「寿司、てんぷら、サシミ」などを超えているだろうと思う。

 

 「誰が食べてもおいしいものはおいしい」という人がいる。

  程度や感動の質は違うが、私はそうは思わない。

  音楽でもそうだが、「ライブが一番いい音楽が聴ける」などとは思わない。

 「その場の雰囲気」といった別の要素が絡んでそう感じるのだと思うが

  病室のラジオで聞いた貧しい音の音楽がいまだに人生最高の音楽だった

  ということもあるかと思う。

  なんでもそうだが「対象が存在している」ものは、これを享受する側のTPOなり

 「精神状態」「置かれている状況」「理解や感動の仕方」によって変わるのが

    アタリマエだろう。

  

   音楽の世界でも「これは録音に収まりきらない」などという超能力者の

 意見を見ることがあるが同じ会場にいた人たちでさえ

 「それこそ誰でも同じようにそう感じるわけ」ではない。

 「自分ほどわかっているものはない」「どうして理解できないの」などと思いがちな

 「頭のいいひと」というのは、そのあたりがどうにもよく理解できていないらしい。

  音楽でも本でもそうなのだが、「読む側の状態、知識量、理解度」によって

    印象が大きく変わる。

  人間というのは特に入れ込んでいるものだと「同じように感じるでしょう?」

    と思いがちである。

  しかし、いくら数字を示されたとしても「普遍的なもの」と理解しろ、

  というのは合点がいくまい。

  このあたりが「温度差」といわれるものなのだろう。

  いくらあなたの「推し」を語ってくれても私にはわからない、むしろそれが自然だ。

 

 うんざりするほど毎日「サイコーのラーメン」のキャッチーなタイトルの

 記事が躍る。

 (みなさん「コピーづくり」のお勉強の跡が見て取れる。)

 ラーメンの作り手は日々完璧を目指して切磋琢磨しているのだろう。

 ラーメンは「塩・だし・油」が基本である。(確か石神さん?)

 そこに「情報という余計なバイアス」とか

 「その人なりの好きな理由(いいわけ)」が入り物語が紡がれる。

 しかし、完璧を目指すがゆえにどうしても「食べ手側の都合」は排除される。

 

 私が福岡で食べたすべての食事で一番おいしかったのは「八ちゃんらーめん」だった。

 他の飲食店が「情報をたっぷり詰め込んだ」食べ手の意思を拒否するかのような店

 だったのに対してここのラーメンは「食べ手の自由が許される」

 「少しスキがうかがえる」作り、ある意味「不完全さ」がすばらしかった。

 「ウチのラーメンはこの味わい方でないと許さない」といった押しつけがない。

 私はそこにこそ、このラーメンが地元で何十年も愛される理由があるのだと思う。

 

 すべてのものは受け手が「その対象と接したときに」どう感じるかで異なる、

 のが自然である。いつも同じではない。

 無垢に受け手が対象と交わることではじめて価値が生まれる。

 感動とはそういうものではないだろうか。

 

 

 人は前を見ているつもりで、実はバックミラーを見ているのである 。

 (M・マクルーハン)