追記… 御成敗式目 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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今夜は 鎌倉殿の13人

グランドフィナーレでの最後の一日での番組案内をしましたが、その追記としての情報です。


鎌倉殿関連の歴史として、


北条義時後の跡を継いだ、息子 泰時 が江戸時代まで影響を及ぼした書。


御成敗式目 誕生にまつわるお話を、


今夜の10時〜のEテレ

先人たちの底力 知恵泉 にて放送。


現代でも通じるような、悪口や陰口に対する重き罪を表した法。

悪口と書いて「あっこう」又は「あっく」と一般的には読む言葉。

鎌倉時代の「関東御成敗式目」の中の12条に表された内容。

訴訟の場での相手への悪口は裁判での負けとなり、訴訟対象の土地は没収。無気力

所帯の所領のない者に対しては、流罪に処されたとある。父 義時 の時代には、この悪口や陰口にて多くの者が命を落としたりもしたことで、それらを見て感じたことが、泰時にこうした決まり事を作る元にもなったのか…、ニヒヒ


細かく言えば、当時は 盗人 乞食 非人 若党 甲乙人 等これ以外の特定の言葉を浴びせると、有罪に問われる事となった。


今の時代でのSNSなどでの誹謗中傷…、

これの内容によっては、多分殆どがアウトになってしまうんだろうなと、ちょっと笑ってしまう。(笑)

泰時が定めた内容は、相手の社会的地位を不当におとしめるような表現自体が、問題とされる内容となっていたという。



大河ドラマの中でも説明があったように、彼の時代においては、父親の時代ともその後の時代とも違って、比較的穏やかな平和な時代が築かれたとした事だ。

承久の乱 後は、叔父の 時房 と共に戦後処理に勤しみ。在京して朝廷との交渉や西国支配を担当。父である義時が亡くなった時は京にいて、その知らせに急いで鎌倉に戻り、北条政子の裁定にて父の跡を継ぐ地位へと就いた。


この頃の 三浦義村 の娘でもあった泰時の妻は、その後は離別するのだが、その理由はよくわかっていない。真顔
やっとドラマ中でも褒められたと、ニヤけるほどに仲が良かったのにね。
本当に夫婦仲は悪くなかったようですよ。

寛喜2年 1230年とその翌年…、悪天候にて列島を大飢饉が襲った頃、所領支配を巡って紛争が各地で起こり、1232年…
彼は「御成敗式目」を制定する事となった。

ドラマの中の流れとはちょっと違う順番だね。

この式目とは、幕府の法典であり公平な裁きを目指したものだった。
泰時自身は二人の子息に先立たれて、長子であった 時氏 の子であった孫の 経時 を後継者として育てたという。


晩年北条泰時は病のために出家して、その翌月には62歳にて亡くなっている。
日頃は疎遠であったという母親違いの弟。
朝時 も兄の出家に自らも出家して、周囲の人々を驚かせたとあるが、後継者となった経時はこの頃まだ若い19歳…、

心残りもあったのではなかろうか。うーん

本来なら跡を継いでもおかしくなかった朝時と経時との間には、何か問題があったのかもしれないが、朝時の出家はそうしたことでの流れだったのかもしれないね。


ドラマの中では、何やら問題を起こすトラブルメーカーであり、義時からは相手にもされていないような存在であった朝時だけれど、この後しっかりと兄を助けて生きたのであろう。

ちなみに泰時の跡を継いだ経時は、父であった泰時の子·時氏が病に冒されたように、やはり体調を崩すようになり、その後を弟であった時頼 に執権の座を譲っている。
在任期間わずか4年弱…、それでも彼が残した功績もあった。

若くして執権を担ったものの…、
人と人の間に立って、ストレスや疲れも病のもとになったのかもね。汗うさぎ



北条泰時が作った御成敗式目。

今夜のゲストには、ドラマで泰時の祖父…
時政 殿もご来店だとか…、ニコニコ


泰時の残した成し遂げた。

その功績を覗いてみて下さい。ウインク