色々あります足利家 思い込んだら命がけ!幕末天誅事件☆ | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
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私達がよく言う 戦国時代 という時代とは、歴史年表で言えばほんの100年そこらの間の物語。 室町 と言われた時代の中での事であり、前回ではそんな武家や官僚・将軍らの関りが、その後の戦国・・・・ 下剋上 の時代を生み出したのだと、少しだけご紹介しました。ニコニコ

 

 

室町時代と言えば、少し前に突然脚光を浴びた 応仁の乱 が

有名だと思うのだが、私的にもなんかちょっと地味な時代でもあり、平安や江戸などとした豪華絢爛さもない短い印象があって、せいぜい

アニメでお馴染み 一休さん の 足利将軍 の時代としか印象がない。ニヤニヤ

 

 

そんな室町幕府を開いたとした 足利尊氏 から、3代将軍義満 までの木像の首を、何を思って京の三条河原に晒す者がいたのかとした謎。 今回はそんなミステリーな室町から一気に 幕末 の時代へと飛んで行ってみたいと思います。 にひひ

 

事の起こりは 文久3年2月のある日の事。

 

平田派の国学を学ぶ者達が、洛西にある 足利将軍家 と縁ある 等持院 を訪れた。 ここは、足利家歴代の菩提所であり、5代将軍 義量 と14代 義栄 を除く歴代将軍の木像が、安置されている場所としても有名な寺なのです。

 

その中には、何故か 徳川家康 の木像も共に安置されていたりもします。 家康の像は42歳の厄除けの霊験を受けて、元々ここではなくて、石清水八幡宮豊蔵坊の方にあったと言いますが、後に等持院の方へと移されたとある。  (等持院のHPより・・・・ 霊光院)

 

 

世界遺産となっている 天龍寺 派の院としても有名な等持院は、

応仁の乱より度々戦火や火災にあっていて、秀頼が立て直しをした事もあるほどに、昔から大切にされてきた場所でした。

足利15代 およそ230余年の間の貴重な文化財が、今も保管されていて、明治維新の頃に一部損壊したり、映画のロケ地としての撮影でも傷つく事があり、何度となく修復を重ね。

今は年一回の 寺宝展 にて、文化財を公開をしているのだそうです。 (等持院のHPより・・・・・)

 

 

そんな当地を訪れた者達が、将軍たちの木像を見たいと申し出た時に、寺の僧侶から 拝観料200文 がいりますといった言葉に、

それを聞いた彼らは・・・・・・・

「逆賊足利尊氏の木像を観るのに、賽銭を払う必要があるものか!」 と、腹を立ててそのまま立ち去ったのでした。プンプン

 

その後仲間の寓居にて、その事を持ち出して 「けしからぬ」 と話している内に、段々と話しが盛り上がってエスカレートしてしまい、

気持ちが収まらなくなっていった者達が、仲間を集めて22日の夕方

等持院へと向かい。 僧侶を脅かして・・・・・

 

初代 足利尊氏 2代 義詮 3代 義満 の木像の首をもぎ取り、

位牌とともに勝鬨をあげてその場を立ち去り。 夜陰に紛れて京都の三条河原の南側にて、3つの首を晒し・・・・・

晒し首の脇には立札が置かれた状態で、夜明けとともに京の都の人々の目に触れる事となったのでした。 この時寺に襲撃かけたのは9人とも言われていますが、途中待ち受けた同志らが三十人余いたと言います。 びっくりあせる

 

 

側に立てられた札には、・・・・・・

 

「逆賊足利尊氏同義詮同義満名分を正すや今日にあたり、鎌倉以来の逆臣一々吟味を遂げ・・・・・・」

 

なにやらもっともらしい事を並べ立て、まっ結局のところはこうあったという。下矢印

 

「これまでの罪を悔い改めなければ、天下の有志は大挙してその罪を正すであろう」 そう言った事を述べていたのだそうだ。

 

当時の京都や大阪など、 天誅 と称して多くの輩どもが、それぞれの正義の名のもとと言いながら、さまざまな人々を襲い・・・・・

その遺体や首を町中に晒しては、その罪状を立札にて表し。

人斬り と言われて恐れられた人々も世の中を騒がせていた。

そんな中での今回の騒動・・・・・・びっくり

これまでの生首とは違い何故か、足利将軍家の木像の首を晒すとした行為は、一種異様な晒し首として人々が驚き、たちまちその噂は、世の中に広まっていく事となったのでした。

 

 

 

当時京都の治安を預かる役職として、京都守護職を務めていたのが

会津藩の 松平容保 ・・・・。 彼は幕府側の人間でありながらも、相手の身分や置かれた立場云々ではなくて、相手も何かしらの考えがあって今、こうした行いをしているのだとした。

彼らのような 尊王攘夷 の志士たちにも、国を思っての言動だからと示し、厳しい取り締まりはしてはいなかった。

そうした理解を示そうとした相手として話を聞き、一定の許しを持って

こうした危ない輩らの行いにも、距離感を持って目をつぶっていました。 だが、今回の 足利三代将軍 の晒し首と、そこにつけられた立札の言葉には、これまでとは違う意味合いがとれるとして、これは幕府への当てつけであり、徳川将軍家を指すものとして、・・・・・

「大挙してその罪を正す」 とは、いよいよ 倒幕 かと

それが本心かと、共に共存の道を探ろうと努力も惜しまなかった容保としては、これは許すまじき事だとして、遂にはその犯人捜しを始めるのだった。

 

 

 

ところがね、その犯人らはあっけなく捕まる事となった。グラサン

 

 

何故ならば、犯人らの中に偵察と称して、会津藩の人間が紛れ込まされていて、その男は等持院への襲撃に対してわざわざ参加して、その後すぐさまその事を犯人らの名前と共に、会津藩邸へと急ぎ密告していたからだった。 その密偵の名前は、 大庭恭平 と言ったそうだ。うーん

 

 

会津藩はこれをきっかけにして、 壬生浪士組 を配下に置いて、京の市中取り締まりを強化。 動乱の最前線へと向かう事となった。 そう・・・・壬生浪士とは、御存じ後の 新選組 の事だ。キョロキョロ

 

 

「足利三代木像梟首事件」 と言われたこの事件は、こうした経緯があったのだが、簡単に言えばもうわかっていると思うが、上差し

 

国学を学んでいた者達が、等持院へ行って尊氏らの木像を観たいと言ったら、寺の僧侶に拝観料を請求されて、それに腹を立ててけしからんとして、盛り上がったところで仲間を集め。

 

腹いせに等持院へ夜の闇に紛れて向かい、皆で有名どころの首を

3つばかし持ち帰り、流行りの晒し首として人目につくようにして晒した。 腹立たしさまぎれに、どデカい事をいって文句を書いた札を立てたとした事だ。(笑)

 

 

捕まった犯人らの中には、その場で切腹して果てた人もいたそうだ。

 

 

拝観料たった 200文 の為に・・・・・・・ぼけー汗

 

 

 

うぬ?うーん その200文っていったいいくらになるんだろうか?

調べてみたら、通貨の価値ってその時代時代で、多少価値が違うとした事があったが、大体現在のお金で言えば、 4,5千円 となるんだそうです。 う~~ん、4,5千円かぁ~~~・・・・・ キョロキョロ

今のお金で言っても、お寺の拝観料としてはちと高すぎだよね。

今の時代は、拝観料が必要とされてもそこまではいかない。

 

 

美術館などでの○○展なんて~のも、せいぜい千円~1500円内だよね。 そう考えれば、平日サービス無しで観る映画館の料金のなんて高い事!! まぁ~、余程でないとサービス無しな日に、映画を観る人なんていないと思うが、4,5千円だと知れば・・・・・

確かに仲間内で 「高すぎだーー!!」 って盛り上がるかもしれないね。(笑) にひひ汗

 

 

だとしても、天誅しちゃうのはやっぱり、世の時代といった背景なんだろうなぁ~~。(笑) 当時の武士らのお小遣い事情だって、そう高くはないと思うから・・・・・やはりこれは、犯人らの怒り心頭な気持ちもわからんでもない。

 

 

但し彼らがもっともらしい言葉をつけて、幕府を指して倒幕臭わすような事を述べたのには、学者らしい考え方もあったのかもしれない。

日本国では 天皇 中心の政治が行われているけれど、当時だとて

長い間日本国では、一番上に「天皇」が鎮座していて、その下に将軍や官領や武家他がいた訳だ。真顔

その天皇を差し置いて、政治を行い幕府を開いて自分達が日本の中心だとした事には、 征夷大将軍 とした長きに渡っての徳川家の行いにおいて、やはり時代を変えようとした者達の考えによる。

天皇を差し置いて政治の中に 将軍 なるものを誕生させた足利家に対する怒りもあったのかもしれない。えー?

 

 

幕末・・・・・この事件の首謀者らを捕縛した会津藩の松平容保は、

随分と前にブログに書いたことがあるが、会津に入った松平こそ・・・・

徳川家に救われたような家柄でもあったわけだ。

容保もその事を重々わかっていて、徳川があったからこそ今の自分もいるのだと、恩を感じているところがあった。

 

それなのに、自分が治安を守る京都の町中で、その徳川家に反旗を翻して決起するやもしれない、「朝廷から官位を賜り政権を預かった者を、辱めることはそのまま朝廷への侮辱と同じ」 として、町奉行らに犯人らの追捕を命じた。おーっ!あせる

だが、当時京都市中には約500人もの過激浪士らがいると、噂が流れていた事で・・・・・・。 町奉行も三条実美らからも、その中止を求める声が上がっていた。 だが松平容保は・・・・・

 

「たとえ浮浪の徒が幾百いようとも、国家の典型は正さねばならない」 と言ったという。かお

 

 

たかが200文されど200文にて、大事になってしまったこの事件。

皆さんならば、 「拝観料5千円頂きます。」 と言われたらどんな行動をしますか?(笑) 今ならば SNS を使って、怒りの拡散をするのかな・・・・ウシシ汗

 

 

 

ちなみにこの 「足利三代木像梟首事件」 の 梟首 とは・・・・・・

読みを キョウシュ と読むんですが、夜鳴くあの  と同じ漢字だけれども、その意味合いが違ってくる。

「梟首」と書いて、これを 斬首した人の首を、木にかけて晒す とした事。 つまり 「晒し首」 を指すんだって・・・・・ドクロ

梟さんは可愛い鳥さんなのに、なんとも残忍な意味合いになるものですね。

 

 

さて次回の足利家は・・・・・・、いよいよ大河ドラマで話題のあの人が出てきますよ。爆笑