色々あります足利家 流浪の義輝 最後まで将軍でいようとした男・・・・・ | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

幕府 とは、幕を張ってそこを中心として政治を行った事に由来。

・・・・・とある。  室町幕府 の成立は、 足利尊氏 が征夷大将軍に就任した 暦応元年 (1338年) 8月や、全国の政権での権力があからさまになった時点での事だと言われている。

 

室町幕府の将軍となった足利家・・・・・うーん

 

多くの後の武将達が、その生まれ育ちの経歴に 清和源氏 の名をあげたように、清和源氏でなければ天下をとる事もできないし、出世も許されないとした風潮は、足利家がもとは清和源氏の源 義家 の子である 義国 を祖とする事と、 源 頼朝 と同族であるとした事で、武家社会を作った 平氏 を破り、鎌倉に幕府を開いた英雄であった事で、人々の注目度が時代的に高かったとした事も関係した。

 

(高知市にある頼朝の弟の墓へ向かう橋の上の家紋)

 

義家の4男であった義国は、晩年下野国の足利 (現・栃木県足利市) に住んだ事で、義国の次男 義康 の末裔が、 足利 を称する事となった。 義康の子 義兼 は、その母親が頼朝の母と

姉妹であり、頼朝の妻 政子 の妹を室として、この後その縁で度々足利氏得宗北条氏から、室を迎える事となったのだ。

 

足利尊氏は、京に上り建武の新政の崩壊を受けて、新たな天皇を立てて 北朝 を作りました。 この時の天皇は 光明天皇 ・・・・

そして京都を脱出して奈良の吉野に逃れた 後醍醐天皇 は、吉野宮にて尊氏らに対抗して 南朝 を作り上げます。真顔

 

約57年間ほどの間だけに、鎌倉と室町時代の間に登場した2つの

朝廷として、これを南朝北朝の 南北朝時代  と言っています。

 

2人の天皇を立てた2つの政治拠点。

 

こんなおかしな事になったお話しは、ここでは長くなるのでしませんが、このおかしな朝廷時代をひとつに統一させて、政治を安定させたのが前回出てきた。 足利義満 といった3代目の将軍でした。

 

南朝の第4代 後亀山天皇 は、敗北したのにかかわらずその後京都へ戻り、義満の怒りをかい・・・・ 「国譲り」 の道具と言われる今でも天皇家の大切な品 「三種の神器」 もすぐには渡さず。

それを最後は仕方なく北朝の 小松天皇 に譲ってからも、身分がなくなり生活困窮・・・・奈良に逃れて挙兵するも、講和条約での約束事も守ってもらえぬままに、失意の中で亡くなってしまい。

 

南朝は完全に途絶える事となった。

 

後醍醐天皇が逃れて政治を行っていた吉野の地には、私も行った事があるけれども、かなりな山間部であり、万葉の時代より度々天皇家の人々や戦国で言えば 豊臣秀吉 も訪れていた地ではあったが、今でも大変な道のりなのに、昔の人々はもっと大変な思いで、ここまで来たんだろうなと・・・・・妙な感動さえ覚えしまった。(笑)

 

 

元々は、後醍醐天皇が吉野に遷幸する前に光明天皇に渡した偽物の神器を、本物だと称して正統性を主張した事で、2つの朝廷が始まったとも言われている。 鎌倉幕府討伐 を計画した後醍醐天皇が、逆に尊氏らの討伐軍に阻止されて、そこからいろいろと私恨な出来事が繰り返されたのだ。

 

 

さて、・・・・・・・

 

 

昨今は今年放送となっている大河ドラマ 「麒麟がくる」 での

足利家の人物らに、ちと話題が集まっている。ウシシ

 

 

写真上の人物は、 足利義輝 という人物だったのだが、彼は将軍家に生まれながらもなかなかそうした地位に近づく事ができず。

長い流浪の生活を強いられていた人物だった。

 

 

義輝の父親であり、第12代将軍であった 足利義晴 も、実は

流浪な人物でもあった。 1511年3月5日 近江国九里備前守亭で生まれた彼は、母親が身分の低い人間だったと伝わる。

義晴の父親 義澄 は伊豆にて生まれ。 バックに 日野富子 がついていた京都種村で生まれたとされる 10代将軍となった 

足利義稙 (よしたね) との駆け引きで、苦しむ事となった。 富子の妹が義稙の母だったのだ。 富子の子 義尚 には子息がなくて、義稙は22歳にて元服してその後 義材 と名乗るのだが、どうしても日野家の血を引く人間を、将軍候補としたかった富子は、違う家の血が候補となる事を恐れて、妹の子であった義稙を急遽元服させ、その後上洛へと導いている。

 

そんな事で、義輝の父であった義晴も、義輝同様に上洛する事が安易に叶わず。 将軍への道は厳しく、その父親義澄の決死の上洛戦のさなか、生まれてすぐに播磨国の 赤松義村 のもとに預けられて、そこで幼少期を過ごすも、そこでも赤松と家臣らの抗争があり、どうにも落ち着かない人生を送っている。

 

天文5年 (1536年) 3月10日 ・・・・・

義輝は将軍義晴と近衛尚道の娘との間に生を受けた。

後奈良天皇 は義晴に太刀を与えて、彼の誕生を喜び・・・・・父義晴も将軍家の菩提寺である相国寺や源氏との縁が深い石清水八幡宮、摂津の多田神社などにて、義輝の寿命長久の祈祷させている。

 

義輝の生まれた年は父義晴にとっても、ある意味記念すべき年となった。 義晴は 堺公方 と呼ばれた 足利義維 (よしつな) を押す 細川晴元 や 三好元長 に敗れて、近江の国に退去中。  ところが義維が失脚して阿波の国に退去。 晴元も元長も本願寺証如によって討たれて、本願寺が制御できなくなった一向一揆や、京都町衆を基盤とする法華一揆の争いが激化で、上洛できないままでいた義晴が、なんとか洛外の 南禅寺 まで進出してきたところで、洛中まであと一歩に迫った中で、息子義輝の誕生とその年の12月には、いよいよ洛中 政所執事伊勢貞孝亭 に移れた事など、義輝が生まれた天文5年は、まさに幸運を運んできた子供だと思われたのだった。

 

3年後の 天文8年 2月には、将軍御所を造営し始めるが、ここへ来てまたまた細川晴元と 三好長慶 (元長の子) が対立。

軍事衝突となった為に、閏6月16日には義輝を連れて、またもや京を出て 八瀬 に逃れる事となった。 この後8月13日には、京都に戻る事ができたのですが、義輝の流浪な生活は、ここよりもう既に始まっていたのだった。

 

 

義輝が3歳の頃でした。 ショボーン

 

 

(大河ドラマ 「麒麟がくる」より足利義輝)

 

応仁の乱 以降、代々室町将軍職を受け継いできた足利家。

本来ならば将軍のサポートをする側であるはずの 菅領 細川晴元の傀儡となり果ててしまい、その権威は地に落ちたものだった。 

とにかく誰が一番偉いのかとした事を問いたいくらいに、この将軍 といったポジションは、常に危うい中に存在していました。 それが 室町幕府の時代 でもあった。えー?

 

一応ね、室町幕府の将軍って、足利氏の系統が最高位に達した時代でもあり、足利氏であれば将軍になれる可能性もある・・・・とした。

足利の血でなければ、将軍にはなれないんだよとした、まさに

何様俺様なイケイケ足利家の時代 だったんです。

でも、ちょっと待って下さいよ・・・・・、パー足利家は偉くなっても将軍止まりであり、将軍の上にはまだ 天皇 様がいらしゃる事を忘れてはいけません。(笑) 

 

だが、まるで一時代を築き世界を国を、動かしていたような足利家。

 

 

そんな事だから、京の都の足利家以外での 鎌倉公方 と呼ばれた鎌倉方の足利家の人間が、自ら将軍となる血筋と認識して、これまでのブログでも紹介した 第4代鎌倉公方足利利持 みたいに、下剋上を起こそうとする輩も出てきたのだ。

 

この 征夷大将軍 といった補任は、もちろん天皇の権限であり、天皇から補任・・・・つまり、任命された15人の足利家の人間が、正式な室町幕府の将軍だった。 そして第3代 足利義満 の頃にて、主に所領 諸職の補任 宛行 寄進 安堵など権益の付与・認定及びそれに関する相論の裁決を将軍の親裁として、評定衆における菅領の発言力を増大させ・・・・・。 引付方の機能を形骸化して所領 年貢に関する最判を菅領が総括とした。 さらに諸国 使節等に対する執行命令を菅領の権限とした。キョロキョロ

 

又室町幕府での菅領は、 斯波 (しば) 畠山 細川の三氏に限られた。 三氏は足利一門という出自を共有していたのだ。

その中でも、細川氏が足利一門守護最大の領域を支配、一族の宗家である 京兆家 が幕府政治の最も重要な一翼を担っていった。

細川氏は同族連合体制と称して、一族の結束が強く・・・・・菅領を独占していく事となる。 

 

 

(大河ドラマ 「麒麟がくる」より菅領細川氏の姿)

 

室町幕府は菅領を将軍よりも軸とした政権としていた。

 

 

江戸幕府の徳川家康と違って、室町幕府での将軍の姿って、この

菅領の動向が、時の将軍らの政治や命までにも、影響していたと思う。 生まれながらにして、将軍筋の家と言われた足利家の人間なのに、その政治の場でもある京都の町中に、ストレートに入る事もできず時に、洛外へと追いやられてしまい。叫びあせる

将軍とは都合のよい名ばかりの座ではないのかと、そう思ったりもした。 本来ならば強い権限を発揮して、菅領以下幕臣達を従えて、

国の内外に対して影響力を及ぼすはずなのに、次の将軍だと思われていても、何故すんなりと将軍の座に就く事さえできないのか。しょぼん

 

 

義輝の元服は 10歳 と言われていて、父義晴は将軍職を譲ろうと考えていた。 名を改めて 義藤 としたのもつかの間、またまた細川晴元と三好長慶 細川氏綱が争い、京都の町にもいられなくなってしまった。 安全な地を近江坂本の日吉社祠官樹下成保の屋敷に移し、ここにて正式な義輝の元服式を執り行ったと聞く。

 

その見届け役には菅領ではなくて、 六角定頼 が務める事となった。 こうして義輝は征夷大将軍に補任されたのだが、本来室町殿と称されるべき人間が、正々堂々と京都で就任できなかった事は、人々の間にも衝撃を与えて、これを知った阿波の国にいた足利義維が、15年ぶりに上洛を目指して動き出し、天文16年2月には本願寺証如へ凱旋を求めている。

 

 

義輝だとて、決してこうした異常事態を望んだわけではないのに、

何故か彼が悪いようにも取られている事は、なんだか可哀想にも思えてくる。 しかし将軍を差し置いて、菅領どもが争いを始めるといった事。 それにて将軍の立場であっても、安全な地を求めて住まいを移さねばならないとした事。 やっぱり誰が一番偉いのですかと・・・・

「将軍しっかりしろや!!」 と、怒鳴りつけてやりたいくらいだわ。(笑) おーっ!あせる

 

 

この後義輝の元服にて 加冠役 を務めた六角定頼が、なんと細川晴元に味方した事で、晴元と長慶との対立で、北白川城に籠っていた義晴と義輝親子らは、城に火をつけて焼き坂本へ没落した。

身内幕臣の裏切りは、先の運命を左右しかねない・・・・、ニヤニヤ汗

義輝が将軍に就いて初めての合戦は、散々な結果となってしまった。

その後同天文16年の11月3日には、阿波より義維が堺へと海を渡ってきて、父義晴の外戚である近衛家と対立する 九条稙通 はこれに通じて、こうした状況下にて義晴・義輝親子は、帰京がまた翌年の17年6月まで叶える事ができなくなってしまいました。叫び汗

 

そうした中で、今度は三好長慶が父元長の仇を討とうと細川晴元の元へ挙兵。 天文18年 6月24日に江口の戦いで晴元を打ち破り、そのまま京都に攻め入った為に、晴元に味方していた義晴・義輝親子や近衛一族、六角定頼は近江坂本に逃れ、親子は本来長慶とは敵対関係ではなかったが、幕府の重鎮であった晴元や定頼との関係に引きずられて、またもや京都から没落する羽目になってしまったのです。。 馬馬馬馬馬馬馬DASH!DASH!DASH!

 

こんな風な事が長い間続き、何度も何度も流浪の生活を強いられて、

天文19年 になると、父義晴は病床に伏してしまい、外交的なことを義輝が行う事となっていった。 結局義晴は近江で亡くなる・・・流れ星

死因は水腫とも自害だとも言われているそうで、どれが真実なのかはわからないが、父親の死を見届けた義輝は、6月に京都の中尾城まで進むも、結局洛中に入る事は叶わず。

11月には三好長慶に敗れて、近江堅田に退去している。

 

 

なんでかなぁ~~~、なんでこんなに洛中に入れないのはてなマーク

これではまるで、椅子取りゲームみたいなもので、隙を見て入ろうとしてもその度に誰かに邪魔されて、結局弾かれてしまう。笑い泣き

 

なんともへんてこりんな将軍と菅領らの関係です。

 

日本の歴史を見ても、これほどわちゃわちゃした関係の政権時代ってない気がする。(笑) 大体はトップに従い共に敵となる相手と戦うものだが、この室町時代では将軍と言えども、ないがしろにされているようで、どの将軍の歴史を見ても、辛くなるよまったく・・・・・。ぼけー

 

 

その後義輝は長慶との対決を選ぶも、彼に味方するはずの幕臣らは、義輝を支持しなかっと聞く。

天文20年 ある事から義輝は謀略を駆使し始める。 3月4日には長慶の屋敷に放火を企てて失敗。 実行犯他60余名が捕縛されるが、その後も三好長慶に対する暗殺事件が続く・・・・・えー

だがどれもが 暗殺未遂事件 となってしまい。 その主犯が

義輝だとした噂が流された。 翌年21年には、六角定頼が死去・・・

これが契機となり長慶との和睦交渉が進展して、京に戻る事ができたのだった。 だが、その和睦も長続きはせず、側近であり強硬派であった 上野信孝 を重用し、挙兵の機を窺う事となってしまった。

翌年2月26日には、細川晴元の軍勢を破った長慶に迫られて、上野信孝ら6人の側近を人質として差し出す。びっくり

 

 

3月になると再び上野信孝の意見を聞き入れて、長慶と敵対する事を選び霊山城に籠り挙兵した。 8月1日城は落城・・・・・

義輝は朽木に逃れたが、長慶が義輝に従う幕臣や公家の所領を没収するとした為に、多くは京都へ戻り義輝の軍勢は崩壊した。

 

長慶の本気度を強く感じたためか、義輝は伊勢神宮に帰洛を立願している。 そして 天文23年 2月12日・・・・・、

彼は 義藤から義輝 の名前に改名した。 元服後に義藤としていた名前を、わかりやすくする為に、これまではあえて義輝の名前で通してきました。 m(__)m汗

 

 

義輝は細川晴元や六角定頼といった京都周辺の大名や、上野信孝や 朽木稙綱 などの側近に支えられて、三好長慶に対抗してきたのだが、中には 伊勢貞孝 のようなこの方針に反対とする多くの幕臣らもいて、遂には従兄弟の 近衛前久 ら公家からも、

見捨てられる事となった。 義輝はこの苦境を外交で打開しようとする。 後に近衛家との関係を修復するべくして、近衛稙家の娘と結婚して、その関係の再構築にも成功している。赤薔薇

 

(大河ドラマ 「麒麟がくる」より近衛前久・・・・)

 

                 (京都 大徳寺内の近衛家廟所にて・・・・)

丁度昨年末に行った大徳寺内には、近衛家の廟所があったけど、門が閉められていて中へは入れなかった。 ここには前久の墓はないようです。 彼の墓は京都の別の場所らしいです。ほっこり

 

 

後三好長慶の譲歩によって、義輝は京都へ戻り地位の安定に務める事にした。 様々な戦いの調停役を積極的に引き受けて、甲斐の国の

武田信玄 と越後の 上杉謙信 が起こした抗争の調停を行った事に始まり、様々な戦いを鎮める事に成功。 その成果が後の

上杉や 織田信長 らの上洛へと繋がり、義輝に謁見した事が広まって諸大名に、将軍健在のアピールをする事ができたのだった。

 

 

だがそのアピールさえも、実は義輝個人のプレーで終わってしまい、

上手く相手方に伝わらなかったと・・・・・・

失敗に終わったとした、辛口意見もあったりもします。うーん

書物によっては著者によっては、地方の紛争に積極的に介入するも、和睦を主導する事で将軍としての権威を示したかった義輝に、中国地方の 毛利隆元 からは、上意に背いたと噂されてもかまわないので、毛利家を保つ事を優先する として、和睦調停を拒否されてしまい。 また上杉謙信も同様であり、どれも中途半端なままで終わっている・・・と、紹介しているものがあったりもする。 目汗

 

 

こうして都の将軍様が、自らの存在アピールも兼ねた調停役を、あちこちでやっていながらも、本人も実は三好長慶との和睦にて、心の底ではイマイチまだ信用しかねていて、 永禄2年11月 ・・・・・

洛中にある将軍御所に堀を掘り、城郭化を進めていたとも聞いている。 彼の場合は、幼い頃より父親に連れられて、幾たびもの戦によって洛中洛外を行ったり来たりの生活であり、信じた相手には裏切られて、その都度に自らを守る事を、心がけなければならなかった事。

それらが大人になるまでの性格を作り出し、心底信じられる相手を得る事が、とても難しくなっていっていたのかもしれない。真顔

 

誰かの為に何かができたとしても、自分の為に相手を信じる事ができない。 これって今年の大河ドラマ 「麒麟がくる」 の中でも、度々主人公 明智光秀 と絡むシーンにて、そんな本音がポロリと出てくる場面もありました。 見ていた人は覚えていると思いますけど・・・・なんだか幸薄い足利義輝の姿を、俳優 向井 理 さんは、とても上手く演じていたと思います。ほっこり

 

 

室町幕府の中の将軍さんって、どれもこれも似たような背景やエピソードを持っている事が多いんだけど、何故かドラマ性で言えば、この

義輝が一番悲劇として取り上げられるんですよね。

 

 

大河ではあまり私生活面での姿は描かれなかったけど、彼にも妻子がちゃんといて、 永禄5年 (1562年) 4月11日に生まれた嫡子 輝若丸 を同年7月15日に亡くしています。クローバー

また教興寺の戦い以来高まっていた三好長慶との緊張を、緩和する為だとして 永禄6年 3月19日には7歳の娘を、松永久秀 の元へ人質として差し出してもいます。 おとめ座

 

永禄7年 7月4日・・・・因縁の三好長慶が死去。

 

その後養子としていた 義継 が、長慶の後を継いでいる。

 

この義継とは、長慶の末弟 十河一存 と九条稙通の養女の子供でした。 義輝は三好氏に対して謀反を企てたというが、長慶の死を知り勢力回復に図ったと思われています。 

義継と松永久秀の子 久通 が、永禄8年 5月18日に率兵上洛して翌日白昼堂々と、義輝を攻撃しました。 それまで何度も和睦を破ろうとも、騙し討ちにしようとも・・・・長慶に命まで取られる事はなかったのに、長慶の場合はまだ諸大名が将軍への戦いを挑む事に対しての 家格秩序 を配慮した考え方があったようだったが、慎重だった長慶とは違ってその子供らの世代においては、義継が継いだ

三好家においては・・・・・・

天皇より天皇家由来の桐御紋を拝領し、外戚は足利氏と同じ摂関家であった事。 若い義継からすれば義輝との家格の差など、感じる事が無かったのかもしれない。 かお

 

 

もはや世代交代とも言うべき中での、長慶と義継との考え方の違い。

 

 

これまで何とか難をクリアしてきた義輝も、この時は何故か逃走する

チャンスもあったのにもかかわらず、好機を逃してしまい遂には運命尽きてしまう事となるのだった。 彼はもはや自分の運命尽きる時を、悟っていたのかもしれない。ショボーン

 

 

 

 

今年の大河ドラマの中では、こうして義輝の最後の姿が演出されました。 物語としての歴史の中では、これまた随分前にNHKで放送された 塚原卜伝 の直弟子として 新陰流免許皆伝 だったとも聞く義輝の姿。 床に無数の名刀を突き刺して、襲い来る敵兵をバッタバッタと、刀を取り換えながら斬捨てていき・・・と、そんな風にも伝わっている義輝の最後の勇姿ですが、この時 30人余り の人を斬ったといった武勇伝は、後に創作されたものだとも言われています。

 

フロイスの日本史 にも、義輝は自ら刀で戦ったとある。

だから彼が、刀を確かに手にしていた事は本当だろう。

 

将軍とは言えども、こうしたイチ人間としての技や知恵・・・・・

生き方もあって、自ら刀を手にして敵兵に挑むなど、お飾りではなくてそこには人間としての生身の将軍の姿を垣間見ることができる。

 

空想妄想の中での 王様や王子様 とは違い。

なんだかカッコよくも思えてくる。

 

 

NHKさんでは、今回皆さんが知る畳に多くの刀を刺して、敵兵を刀を取り換えながら、最後まで戦ったとした義輝ではなくて、義輝の人生の

儚さを表現したかったとして、美しくも悲しいラストシーンを、演出したとありました。 私的には、あぁ~して障子で囲み目隠しをされたような形で、不意打ちをしかけるなんて、なんて卑怯な真似をと思って見てたんだけどね。プンプンあせる

 

 

今回義輝の人生をブログに書く事で、いろいろと調べていく内に、改めて 9月13日 放送の第23回 「義輝、夏の終わりに」 24回・・・・ 「将軍の器」 9月20日 放送回での義輝のシーンを見ると、初めに見た時と違い彼のこれまで生きてきた儚くて憂いな人生模様に、ちょっとうるうるきてしまいました。

NHK大河ドラマでのHPでは、これまでの予告編や5分間でまとめた。

放送回での内容を見る事ができます。

私のブログを読んでくれた方で、描かれなかった中での義輝の姿や、背景を思い描きながら、そうした映像をもう一度見てみると、改めて

義輝の哀しみや思いが伝わってくるかもしれません。 ニコニコ

 

 

ドラマでは描かれない部分も知って、改めて見てみると・・・・・・

義輝といった人物像に対しての、理解が増えたように思います。

そして、その分ドラマを見る事にも、最初と今での違いがありあり・・・・

皆さんも歴史ドラマなどでは、予習復習でより見る目が違ってくるかもしれないので、ドラマや映画・漫画でもいいけど、見たり読んだりした後でもいいので、自分なりに歴史人の事や背景を調べてみる事をお勧めします。 きっと知らないより知っている方が、登場人物らに感情投入できると思います。

 

できればその人物らが関わる場所に、足を運んでみる事もいいかと。

 

 

一介の大名侍の立ち回りではなくて、それらの人々を率いる将軍の最後の姿。 「麒麟がくる」の刀を持つ義輝役の向井 理さんの姿も、りりしくて素敵でした。 時代が違えば・・・・立場が違えば・・・・・、

義輝も剣の腕前を活かして、剣豪として活躍できたかもしれませんね。 

 

そこに生まれたら、立場が 将軍の家 だった。

 

 

将軍として前へ前へと出れば、何故か誰にも相手にされないとした事。 自分をサポートする側の菅領である細川晴元が、晴元の重臣でもあった三好長慶の台頭において、幾度も争いを繰り返し自らも洛外へ逃げ延びなければならなかった事。

 

そんな日々の度に、近江へ亡命しては軍勢を募って勢力回復の為に、京へ攻め込むの繰り返し・・・・・

大河ドラマに義輝が初めて登場した頃のセリフの意味が、今更ながら重みを増して伝わってきます。 しょぼん

 

 

三好家のブレーンでもあった 松永久秀 。 光秀がドラマの中で義輝襲撃について、真意を確かめに行った奈良の多聞山城 

この多聞山城の城の造りは、後に今でもあちこちの城址に残る

多聞櫓 などの元となったものでした。上差し

 

 

多聞櫓とは、主に城壁などの上に平らな長屋状になって造られたものを言い。 「多門櫓」 とも表示されます。 戦時には防衛の施設となり、元は兵や人々などが暮らす (控える) 場としても用意られました。 福岡城などに残る多聞櫓は、内部に何層もの仕切りがあり、武器などを貯蔵したり鉄砲の狭間などもあって、ここが戦場となった時には、軍事拠点の1つとなる事が伺えます。

 

 

(福岡城の多聞櫓と鉄砲狭間)

 

つまり久秀の城は、この時既に軍事的な役割もできる城だった事になる。 もう1つ有名なところでは、大阪城大手門を潜ってすぐの多聞櫓

 

                           (大阪城の多聞櫓・・・・・)

ここでは徳川の時代に、毎月 「市」 が立ち並び・・・・・ほっこり

城内の人々の買い物の場として賑わい、 市多門 とも呼ばれていたといいます。 当時も内部に人が暮らせるくらいの施設があったとか。

 

松永久秀の名前を聞くと、私はこうして多聞櫓の事を連想するのです。(笑) 大和の国の久秀の城は、実は奈良市内のこの多聞山城だけではない。 多聞山城は、後に信長らの襲撃を受けて、あの光秀も預かる城となっていました。 現在奈良の大仏殿で有名な東大寺近くにあったとするこの城址跡は、若草中学校の敷地内となっているとか・・・・・。 多聞櫓の使用には、天守や高櫓を繋ぐ場合もあって、この場合は 「渡櫓」 と呼ばれたと言います。

 

この久秀は、本当に良い人なのか本当は悪い人なのか・・・・・えー?汗

クセが強すぎて、なかなか大変なキャラなんですけどね。

今後は大仏を燃やすなどとした大事件も起こしている。 彼が大和の国に進出した事で、ここも戦国の動乱へと率いられる事となったのであった。

 

 

尚・・・・・、本文中に登場する三好長慶の後を継いだ 義継 が、15年ぶりの阿波からの上洛を狙い、その為の連絡を取ったとする人物。 本願寺顕如 の事は、またいづれ紹介させてもらいますが、その三好家の養子となった時の父親 十河一存 とは、我が故郷土佐国の長宗我部とも関わる人物なのだが、その息子・・・・・ 

十河存保 (まさやす) は、私が今住んでいる大分市戸次での 戸次川の合戦 にて、長宗我部の嫡子 信親 らと共に、亡くなっている・・・・・

 

息子と言っても、長慶の弟の子供であり、後に十河氏を継ぐために、

養子となって一存の子となった。

 

阿波の三好家も、十河氏も四国の戦国時代では、なかなかな曲者だったようですが、毎年戸次川合戦の供養を兼ねた合戦祭りでは、故郷讃岐の国から多くの子孫や関係者らが、当地を訪れています。

 

 

 

 

 

     さあ~・・・・次はまたまた大河繋がりですよ。 ウシシチョキ