色々あります足利家 足利義教・義持と義満親子 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

 

こちらの画像・・・・・。 見た事がある人はいるだろうか・・・・・・・うーん

あるとしたら、まぁ~~多分その方は 幕末好き なのかもしれないね。にひひ

 

 

これは 「足利三代木像梟首事件」 と言われた。

文久3年2月22日 に、京都の三条河原に晒された 

足利尊氏 から始まる足利将軍家の3人の木像の首を、ある腹いせにここへ立て札と共に、晒した事件での有名な絵図なのです。上差し

 

 

ここに晒された首の主はと言うと、初代 尊氏 2代 義詮 そして

3代目 義満 といった面々でした。 義満と言えば・・・・・以前ブログで書いたことがあるんですが、覚えているでしょうか。

昨年末12月に大阪・京都への旅をした時に、大阪市のあるお寺さんでのお話しです。

 

 

そこは元々戦国大名 細川家 縁の墓所となっていたお寺の1つで、阪急電鉄京都線の 崇禅寺 という駅から徒歩10分ほどの距離にある・・・・・同お寺さんでのご紹介でした。

ここには元々、その数ヵ月前に大阪の旅で訪れた大阪市内の細川屋敷での 細川ガラシャ の死後遺骸が運ばれて、ここにもその墓があるとした事で、訪ねてみようと行った先での偶然の出会いでした。

 

 

 

 

ここには3人の墓石が並んでいたんですが、一番左端にガラシャの墓があり、その真ん中にいたのが 足利義教 のなんと 首塚 でした。 そうこの首塚の主の父親が、実は 足利義満 なんですね。

 

 

義教は以前も書きましたが、首塚の主は くじ引き将軍 と呼ばれた面白い人。 何故そう呼ばれるようになったのかと言うと、義満の子で4代目の 義持 という人間がいました。 

彼はなんと 28年4ヵ月 もの間将軍職を務めて、 43歳 で亡くなっています。 

その後子供の第5代将軍 義量 (よしかず) が引き継ぐんですが、この方は 19歳 という若さで亡くなり、1年11ヵ月といった短い期間を引き継ぎました。 実は名ばかりであったと言われる義量の裏で、その父である義持が実権を握ったままとなっていました。 義量が亡くなりその後も政治を行い続て、自らも病に倒れた時には、次期後継者の任命を拒否して、そのまま自分の栄耀栄華を全うしようとしていました。 

 

一説には、義持自らが次期将軍候補を指名したとしても、周囲の人間が従わなければ意味がない・・・・と、渋ったといった事も伝わっていますが、正直そこまで本当に心配していたのかどうか。えー?

 

むしろそうだとしたら、指名された人間に対しての家臣となる者達に、

「新しい将軍の意思は絶対だ!」 と口をすっぱくして触れ回ればいいんではないか。(笑)  さて、・・・・・それはともかくとして、義持のこの態度に対して・・・・・

 

それでは大変困りますと、群臣たちが評議によって、当時足利家や

今川・武田などの源氏諸氏族から 氏神 としてされていた。

石清水八幡宮 にてくじ引きを行い、義持の弟の4人の中から選ぼうとなったのです。真顔  当時のくじ引きとは、現在の遊びの

ひとつの様なものとは違いって、神様からの御言葉だとした神聖なものでありました。 戦国期では戦場にて、明日の戦をどう攻めるか

どう動くかを、くじ引きにて決める軍師らもいたくらい。ウシシ

 

 

 

義教が何番目の子供かはわからないと言いますが、実は義満の子として生まれた義持と義教の2人は、同じ側室の子であり同母兄弟でありました。 元々将軍になるべく人間ではないと、はじかれていた為に

義教は元服前より僧侶となっていました。

足利家では、そうした行いが頻繁にあったようですね。 それは寺社などとの繋がりを持ちたかったとか、いろんな意味合いが言われていますが、なんと群臣らが行おうと決めたくじ引きの引いたくじを、義持死亡後に開いてみれば、そこには後の義教となる人物の名前があったのでした。 この頃彼は 義宜 (よしのぶ) と名乗っていたと言います。 世を忍ぶ ・・・・「義宜・・・」これを不快と思い改名したのでした。

 

 

ちょっと珍しい事だと思ったりもするんだが、義持 義教 の父親である 義満 もまた・・・・・側室の子でした。 本来ならば正室もしくは、

由緒正しき人間の子供が、後を継ぐと思うのですが・・・・・

やもえない結果だったのかもしれない。

 

後にこの時のくじ引きも、家臣らによる工作があったのではとも言われている。 何故ならば、義教自体は大変学問ができた人物だったらしく、僧としても 153代天台座主 となり、逸材だと言われていた事や、一時 大僧正 も務め・・・先は名僧になるだろうと、人々の期待も強かったからです。 但しその性格的なものに対しては、少し難があったようでしたけどね。にひひ汗

 

 

義教は偉大な父親と思っていた 3代将軍 義満 でさえ叶えられなかった。 関東 吉野 九州の平定 を成し遂げて、白河上皇や信長さえも手を焼くほどだった 比叡山延暦寺 の制圧 に成功。

 

将軍としての権は最高に達していたものの・・・・・

それらを叶える為にとっていった行動は、 鎌倉公方 と呼ばれた

関東の 足利持氏 が、延暦寺と通じているとした噂を耳にすると、自分のいる幕府と将軍から正式に任命された幕府行職でもない・・・・将軍が留守をしている鎌倉を、将軍の代理として統治しているだけの持氏が、只の地方政府の長というだけで、自分の政治の行いを妨げようとしていると懸念。 えー

 

 

軍勢を送り込み延暦寺の門を囲ませて、降伏した宗徒を許したと見せかけて、その首謀者 4人 を誘い出して殺害。

 

 

その後和平の使者としてやって来た僧侶を、義教の命において斬捨て、それに抗議した僧侶 24人 を、今度は根本中堂にて火をつけて、焼身自殺に追い込んだ。 鎌倉公方と呼ばれた持氏は、確かに

将軍職への野心があったのだろう。

義教を僧侶から俗世界に帰り咲いた人間として、 還俗将軍 と呼び馬鹿にする事もあり、また彼の姿を見たとしても、すぐさま近寄り挨拶をしてくる事さえなかったと言う。

 

 

義教の幕府安泰を脅かす人間になるやもしれぬとして、持氏の事を

義教自身も疎ましいと思っていたはず。

 

 

京都へ上り義教を討とうとしていた持氏も、 永享の乱 にて

1438年に関東官領であった 上杉憲実 らに攻め入られて、その行動を阻止されただけでなくて、翌39年には自害へと追い込まれている。 そしてその遺児となっていた2人の子供達。

春王丸 12歳と 安王丸 11歳も、叛乱を起こした際に、兄弟を京へ護送中に斬っている。

 

 

目があったから義教に対してニコッと笑顔を見せとした、家臣であった 東坊城益長 という人間を、将軍を笑ったと激怒して所領を没収した上に、蟄居させてしまった。

 

闘鶏の人だかりで、自分の行列が通れないと激怒して、闘鶏を禁止した上でなんと、京都中の鶏を洛外に追いやってしまった。

 

比叡山での根元中堂での24人の僧侶を焼死させた炎上に関わる事で、その噂を流したとした商人を見つけ出し斬首。

 

他にも酌が下手だと侍女を激しく殴り、無理矢理断髪。

自分に説教をしようとした日蓮宗の僧に対して、灼熱の鍋を頭から被せて、二度と口がきけないようにと舌を切った。叫び汗汗

 

 

「料理がマズい」 「献上された梅の枝が折れた」 その度に使用人らが罰せられたなどと、記録に残る事実としてその在任中での処罰例が 80人 ほどあり、これ以外にも確認されていないような事も多々あったと、歴史は物語っているようです。

義教の絶対権力の為にこうした行いがおこなわれて、生まれ持った

性格の問題ともとれるのだが、人々からは 「万人恐怖」 として恐れられていった。 

 

彼が将軍へと指名された時には、彼自身・・・・・・

「自分の言う事に従えれるか」 とした約束事のような事を、条件としているだけに、 将軍絶対 な政治に対する強い気持ちがあったのだろうと思う。 但し家臣や仕える者達にとっては、まさかここまで残忍な事をやってしまうなんて、思いもしなかったと思うけどね。(苦笑)

けれど歴史的に見れば、こうした人間が厄介なのは、やる事はきちんとやってのけたうえで、残忍ともいえる事をやっているとした事。 

信長や秀吉・家康なども、そうたいして変わらないと私は思う。

 

 

 

全てが  ならば、まだ攻めようがあったのだけどね。(笑)

 

 

 

1441年6月23日 そんな義教の時世はそう長くは続かない・・・・・ この日 赤松満祐 といった今の兵庫県周辺を治めていた人間が、足利持氏の遺児 春王丸と安王丸 らの叛乱を同年 4月 に鎮圧した事と、その合戦 (結城合戦) での慰労と邸の鴨が沢山子供を生んだので観に来て欲しいと、義教を邸に招いた。

 

 

その屋敷は京都にあったようだが、その時御機嫌が良かったという

義教は、いそいそと御付きの者達を連れて赤松邸を訪問。

猿楽やらなにやら楽しく過ごす内に、いきなり障子が閉まる音がして、それを気にした義教だったが・・・・・・

最後は首を落とされて殺害されてしまった。 この時彼の護衛や取り巻きらは、抵抗する様子もなく一目散に逃走したと伝わります。

義教の人望の薄さだという人もいるくらいだ。目汗

 

また 伏見宮貞成親王 という人は、日々の事を書いていた日記でもあった 「看聞御記」 といったものの中に、この時の義教の事をこう書いているそうだ。 「自業自得」 世の人らは、彼の死を 犬死 だと囁いた。

 

 

満祐はその後嫡男の 教康 と共に、赤松の領国へ帰る途中で・・・・私が立ち寄った細川家の菩提寺の一つと言われた。

大阪の 崇禅寺 に義教の奪った首を置いて行ったと伝え聞いている。 ・・・・・・しかし調べてみれば、 (首塚) とされたものが、あと2ヵ所ほどあって・・・・・。 1つは墓として京都の 十念寺 そしてもう1つは、赤松の領地である兵庫県加東市の 安国寺 となっている。

 

崇禅寺では、ガラシャの墓と義教ともう1つ、寺の僧侶の墓が並んでいたけれど、朝早く訪れたと言うのに、その墓の前はきちんと清掃されていて、全ての墓に花が飾られていた。

今でも大切にしているのだろうと思いました。

その時は、私もガラシャ以外の方の事がよくわかっていなくて、帰宅してから調べて首塚の経緯を知った。 足利家とは、日本人ならば誰しもが聞く歴史人の家の名だし、将軍職だよねとすぐわかるものだが、

その将軍の中にこんな終わり方をされた人がいたとは、ちょっと驚いてしまいました。うーん

 

騒動の後幕府は混乱し、菅領であった 細川持之 が義教の子である 千也茶丸 後の 7代義勝 を将軍として、なんとか政局を安定させて、 7月 にはようやく 山名持豊 (後の宗全) 率いる討伐軍を出陣させて、約1ヵ月余で赤松氏を討伐させている。

 

 

義教といった将軍職の人間を、暗殺などとした事で失うとした事は、

将軍権力の弱体化・・・・・後・細川氏が立てた時期将軍である。

義教の遺児がまだ年若い子供であった事で、守護大名らの台頭を

助長させてしまう事となり。 

義教の死が、京都を焼け野原とした 応仁の乱 や、守護大名らによる争いが発端なったおよそ100年にも渡る事となる 下剋上 の世となる 戦国時代 の幕開けとなったといった事を言う人もいます。

 

 

さて、話しは一番最初の 足利三代木像梟首事件 へと戻りますが、京都三条河原に晒される事となった 3つの首 の内の1つ。 ここまでの 足利義持 義教 の父となる 足利義満 といった人物の事ですが、彼は10歳にて父に代わり家督を継ぐこととなりました。

その後数々の乱を経て、勢力争いのもとであった 山名 大内 などの弱体化を図ります。 この他にも様々な家柄が出てきますけど・・・・・・・。

 

そして 南北朝の統一化 を実現させて、中国の  との貿易。 勘合貿易 も始めます。

京都北山にあの有名な 金閣寺 を建立させて、北山殿 との呼ばれました。

有力守護大名を抑えて、幕府権力を確立。

能楽の保護など北山文化といったものを形成させました。キョロキョロ

 

子である義持に  4代将軍 として職を譲り隠居するも、出家後も死ぬまで実権を握ったとも言われている。 

 

義満は室町に 花の御所 を建てて、室町時代に清和源氏の流れが将軍となる事を、定着させた人物としても知られています。

 

ところが義満が亡くなると、その子であった義持は、父親が開いた

日本と明との貿易を中止させて、それまでの義満の政治批判の傾向が強い改め方を進めていきました。

それを義教の時代には、もう一度明との貿易再開をするなど、義教は父親が好きだったのでしょうか。 それともその重要性に気がついていたのか・・・・・・。

 

 

次回はこの「足利三代木像梟首事件」の顛末を、ご紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

追伸: 

足利義満 第3代将軍 在位26年 51歳にて没 室町殿とも呼ばれた。 足利義教 第6代将軍 在位12年3ヵ月 48歳にて没 その子である 第7代将軍であった 義勝 は、在位8ヵ月 10歳にて没 次の 第8代将軍 も義教の子 義政 が引継ぎ 24年8ヵ月 55歳にて没しています。

 

嘉吉の乱 (かきつのらん) 1441年6月23日

美作の守護 赤松満祐 が足利義教を暗殺した。 満祐らが最後は幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの騒動。

 

足利義教も、当初は重臣たちの意見を聞いていたが、次第に強硬な政治力をとるようになった。