最後まで廃止を求めたパリの死刑執行人 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

 それが日本に最初に登場したのは、80年代だったようにも思うが、

現在の場所とも違って、ビルの一画・・・・・。 

その頃は期間限定の展示だったのかな? 現在では常設展示となって、ロンドンの分館として存在している場所。 それが東京お台場にある マダム・タッソー館 ・・・・。 彼女の館に展示されているのは、世界各国の有名な芸能人や政治家・ロイヤルファミリー他、著名人や映画の世界などのヒーロー・ヒロイン達。

 

これを見れば、どんだけ精巧に作られたものなのかがわかるでしょ。

 

パッと見どちらが本物と、二度見をしてしまいそうになるかも・・・・・

これらを展示紹介している マダム・タッソー という館の名前となった人物。 その人とは、一体どんな人だったのか・・・・・・。

 

彼女が生まれたのは、フランスのストラスブール。 彼女の父親が、生まれる前の七年戦争にて死去した為に、彼女は母親と共にその後

スイスへと渡ることとなる。 そこでドイツ出身の医師であった男性・・・・

フィリップ・クルティウス という人物の下で、母は家政婦として働く事となった。 クルティウスは、蝋による造形術に優れ、医師としても学ぶ元ともなる 解剖模型 の制作にも力していた。

 

解剖模型とは、人間の手や足など・・・・あるいは、内蔵や骨格などを型どりして制作したもので、現在でもそうした模型が、医学の発展へと繋がっている。 主には人間などの死体から、それらを型どりするのだけれど、マダム・タッソーはこの頃 マリー・グロシュルツ と名乗っていて、後の「回想録」の中で彼女は、このクルティウスの事を

伯父 と呼んでいたとある。 よほど可愛がられていたんだろうか・・・

 

クルティウスがその腕を見込まれてパリに移住すると、その後彼は

蝋人形 なる制作にも着手して、その展示の為の仕事を開始。

その頃フランス国王 ルイ15世 の愛人であった・・・・・ 

デュ・バリー夫人 を制作したとあり、鋳型は現在でも見ることができる最初期のものとして有名だそうだ。 1778年に、マリーは

母親と共にパリへ呼ばれた。

 

そしてここから、彼の技術を教えられて習得していく事となるのだが、

クルティウスは早くからマリーの才能に気づいていたみたいだ。

 

マリーは師匠ともなったクルティウスの紹介で、後にルイ16世の妹である エリザベート とも知り合い、彼女の蝋人形教師になって

からは、ベルサイユ宮殿 に住む事となる。

 

その事が、この後起こる フランス革命 へと、彼女自身も巻き込まれる原因となるのだが、 王党派 として捕えられて、ギロチンの刑を待つ身となった彼女だったが、彼女がその刑から逃れられたのも、師匠であるクルティウスから教えられた技術の高さだった。 彼女の才能が買われる事で、彼女は「死刑囚」から逆にギロチン刑となった

人間の・・・ デスマスク を制作する仕事に就く事となったのだ。

 

彼女が最初に制作したのは、1778年頃のフランスでも人気のあった作家他様々な活躍をした ジャン=ジャック・ルソー ・・・・・

そして、革命の起こるまでに彼女が知り合っていた人々。

私達が現在でも知りうる有名な歴史人たち・・・・・ 王党派として崇拝していた国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネット 他・・・・・当時活躍していたとされる貴族や革命家達なども、その制作された人形達の中に名を残していた。 

 

彼女にはフランス革命時に得た協力者がいた。

それが パリの死刑執行人 として名を馳せていた 

「サンソン」という人物。 彼はサンソン家の4代目当主だったのだが、医師としても名が知れていて、そちらの方で多くの収入を得ていたという。

 

シャルル=アンリ・サンソン ・・・・・・フランス革命においては、あのルイ16世の首を刎ねた人物としても名高い。 彼がギロチンにて刑を実行した人物としては、16世以外にも 「マリー・アントワネット ダントン ロベスピエール サン=ジェスト」など・・・・・歴史的に名の知れた人物達なども多く含まれていた。 彼は医師としては、それまでのあらゆる刑にて犠牲となった人々への治療や、その刑によっての

被害や後遺症などの経過の記録。 当時の難病とされた病に対する

治療など、実際サンソンによって助けられた人々もいたという。

 

だが、身分が低層な死刑執行人なだけに、大手を振っての学問所への出入りや、看板を掲げての治療なども行えず・・・その殆どは、独自での学びであり、それ故仕事の1つが死刑執行なだけに、人々からは怪しい黒魔術や呪詛などで、治療が行われているのではとも思われていた。 そんな彼だが、実はルイ16世を崇拝するような王党派でもあったのだ。 それ故に、崇拝しつつもその国王のギロチン刑を執行した事に対しては、彼自身後悔の念に囚われる事となる。

 

何故なら、国王の首は一度の落ち刃では切れず・・・、数度刃が落とされて、その間ルイ16世は唸り声をあげていたのだ。 崇拝する人物のこの光景は、サンソンでなくても恐ろしくなる。

 

マリーと手を組んだサンソン

 

彼と彼女は、刑に処された死体を、まだ生暖かく柔らかみの残る頃に手にすると、蝋が剥がれやすいようにオイルを塗りその処置に追われた。 そうして制作されたデスマスクなどは、その後街の一角で展示される事もあったが、いよいよ革命の嵐が酷くなってくると、マリーはそれらを抱えて、イギリスへと亡命する事となった。

 

そうして彼女は、イギリスはロンドンにて世界初となる 蝋人形館 

を開館する。 この展示においては、別料金を払えばその作品を見れるとした 恐怖の部屋 という場所が設けられていて、そこでは

彼女がサンソンと共に活動していた革命時の作品・・・・・

切り落とされたばかりの首 やフランス革命に関する恐怖的作品など、当時巷を騒がせていた殺人鬼や拷問などの様子。

ギロチンの模型なども公開されていた。 

 

1794年・・・・・師匠であったクルティウスが死去。 彼の作品も、彼女が受け継ぐ事となる。 そして 1795年 ・・・・・彼女は若い年下の男 フランソワ・タッソー と結婚をする。 

マリーが34歳 フランソワ25歳・・・・・、こうして世に知れた名前である「マダム・タッソー」が誕生する事となった。 彼女の知り合いでもあったナポレオンが関わった戦争にて、一時期フランスへの帰国はできなくなっていたが、結局二人の息子達も、彼女の仕事に協力しつつ・・・・

88歳にて、ロンドンで亡くなる事となる。

 

一方サンソンという人間は、ギロチンが登場して、効率よく死刑が執り行われるようになった革命からの 恐怖政治 と呼ばれた時代。

彼がその間に行ったとされる処刑の数は、二千七百人を超えており、その数はナチスドイツが行った処刑の数の次に多いとされている。

 

彼はその死刑執行の立場だったのだが、実は早くから何度も何度も、

死刑廃止 を訴え出ていた 廃止論者 でもあった。 

低層階級ながらも、平民や貴族といったあらゆる立場の人間達との交流もあり、彼自身はどの身分に対しても、分け隔てのない中立を保った人間だったという。 虐げられた人間の気持ちもわかれば、貴族のような人々の立場も理解できたのだろうか・・・・・。

 

彼の手記には、「その仕事から解放されたかった」とあった。

 

意外な話しだが、彼は青年時代・・・・・あのルイ15世の愛人となった

デュ・バリー夫人とも恋人同士だった時期があった。

私が好きな漫画「ベルサイユのばら」などにも描かれた夫人は、・・・愛人となる前はパリにて娼婦をしていたというが、後ろ盾となっていた国王が亡くなってからは、田舎に引きこもっていたと聞く、その後・・・・彼女自身がもう大丈夫だろうと、懐かしいパリの街に戻った時

 

なんと彼女も革命の中で、囚われの身となってしまい・・・・・

命乞いの泣き叫びをする中で、元恋人だったサンソンの手により、

ギロチンの露と消えていった。

 

サンソンは後に日記に書き残している。

 

「みなデュ・バリー夫人のように、泣き叫び命乞いをすればよかった。 そうすれば人々も、事の重大さに気づき恐怖政治も、早く終わっていたのではないだろうか」 と・・・・・

 

「革命」と聞けば、今や凄い祭りのようなイメージを持つけれど、

それを行う事によって引き起こされるものは、改革やいい事ばかりではない。 何よりもそうなる前から事が落ち着くまでに、どれだけの多くの犠牲や血や叫びそして、涙が流される事になるのか・・・・・

 

フランスはフランス革命において、自由と平等そして博愛 を手にしたかもしれないが、今でも革命の手本となるような事柄とも言われているが、その時代の一時期において、残された記録や書物などを見れば、当時の人々がある意味 狂っていた ような感じも受けてしまう。

 

フランスの農民の怒りが引き金となり、政治的最後の事件とも言われた 残虐事件 ・・・・・。 1870年の8月に起こった悲劇・・・・・

1人の青年貴族が捕らえられて、2時間に渡る拷問を受け、村の

広場で300とも800人とも言われる人々の前にて、生きながら火炙りにされた事件は、「共和国万歳」 と叫んだという罪状だった。が・・・・実は青年は、たまたまそこを通りかかった近隣住民にも好かれていた人物だった。 17,8世紀では死者に対する・・・・

儀式的な損壊 も行われていて、それは生きている人間に対してというよりも、死体 となった者に対しての行為だったのだが、これらが段々とエスカレートして、いつの間にか生きている人間に対しての行為にも変わっていった。 こうした残虐行為が見直されてくるのは、

19世紀に入ってからとなる。 

 

日本で初めてマダム・タッソーの蝋人形館が紹介された時、当時も

マイケル・ジャクソンが紹介されて、話題を集めていたと思うが、現在では平和的展示物へと変わり、ロンドンの分館として世界各国にある館を訪れる人々を、楽しませるアトラクションとなっている。

 

古い恐怖映画には、ロンドンのマダム・タッソー館にて起こる事件が、取り上げられた作品もあったが、これはこれで面白かったと記憶している。 

 

マダム・タッソーにしても、シャルル=アンリ・サンソンにしても、・・・・

あのフランス革命が世に送り出すきっかけとなった出来事なのかもしれない。 革命がなければ、もう少し平穏な人生を送れたのかも・・・・

サンソンに関しては、革命以前からの処刑人の家系ではあったがね。

 

今日は5月16日だけれども、丁度1ヵ月前の4月16日・・・・・

1850年の4月16日 が、マダム・タッソーが亡くなった日でもありました。