英雄の末裔 2 血筋 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

 

 

ところで、・・・・・素行の悪い2代藩主忠之の父・黒田長政も、実は戦国以来の黒田家の旧臣と、新たに登用した者達との間にて、特に旧臣達への心配りに悩んでいた。 播磨以来の黒田家にとっては、大名となるまで苦労を惜しまず。身を徹して盛り立ててくれた重臣なれど、今は官兵衛もおらず天下泰平の世の中での藩政。 旧臣と新しい家臣との間に、問題など起こってしまっても困る。

 

 

長政は月一で、 「意見会」 を催して、その時は共に酒を酌み交わし上下関係の壁をとっぱらい・・・・・。日頃藩に仕えていて思うこと、気づいたこと・・・・・長政自体に対しての意見などを出し合った。 それらをうまく国の政に活かそうとしたのである。

 

長政は長政で、努力もしたのだと思う。  

 

 

官兵衛がキリシタン大名でもあった事は、既にご承知の事だと思うが、息子長政も洗礼名・ ダミアン であった事も忘れてはならない。 官兵衛は自らの死の予告をした。 自分がいつ何時亡くなると・・・・・。 そして、その通りに天に召された時、最後の遺言により教会で葬式が行われた。 厳かなその雰囲気にのまれて、長政は感動のあまり新しい教会を、博多の町に建築する事を許したという。

 

だが、秀吉の出したキリシタン禁止令に続いて、徳川家康・秀忠親子においても、禁止令をそのまま受け継ぐ形になり。 呼び出された長政は、その後教会を閉鎖する事を申し渡される。

 

妻が家康の養女という事もあり。 彼は段々とキリシタン禁止に傾いていった。 その余波は、キリシタンを多く抱えていた秋月藩にも及ぶ事になる。 家と地位を失うわけにはいかない!

 

苦悩の中で、父がキリシタンであったことさえなかった事とされた。 黒田家譜には、その記述がない。

 

 

過去に遡ってみよう。 黒田官兵衛・長政親子が、今の大分県中津市に入って、中津の地に城を構えた頃。 ここでも有名な騒動があった。 それまで当時は 豊前国 と呼ばれていた地域を、治めていた。 

城井谷 (きいだに) の 宇都宮鎮房 (しげふさ) 

嫡男・ 朝房 そしてその妹と、騙し討ちにして死に追いやった歴史があった。 妹の方は、うまく逃げ延びたという話しもあるが、磔にされたと一般的にはされている。

 

朝房の妻は、身重の体で山を越えて、彦山をめざした。当時秋月を治めていた 秋月種実 の娘だったという彼女は、 夫が官兵衛に伴われて肥後国木葉の地にて、命を奪われた時には、朝房の子を宿していて、まだ17歳だったという。 生まれた男子の子孫は、後に越前松平家に仕官して、越前宇都宮を残したという。 宇都宮の出は、元々は下野国宇都宮・・・・今の栃木県宇都宮市である。 そして、愛媛県大洲市にも、宇都宮一族の歴史がある。

 

この宇都宮という家も、黒田よりも古い時代からの歴史があった家だった。 騙し討ちにあった鎮房と朝房親子とその家臣一族の怨念は、中津の地から始まり、今も中津城内には彼らを祀った神社や社が残されていて、筑前福岡に移った後にも、城内に彼らを祀ったと言われている。

 

 

 

そして、肥後熊本の現在の木葉の地にも、加藤清正によって祀られた 宇都宮神社 がある。 神社の由来では、清正が秀吉の命にて、鎮房の嫡男 朝房 を殺害したとされていて、毎夜現れる怨念に、元々宇都宮氏縁のこの神社に、彼を祀ったという事だ。

 

ここまで書けばおわかりだろうか・・・・・・。 前回書いた通り、黒田家では官兵衛の黒田家直系の血が、5代で絶えている。 清正にしても、後継には恵まれず。やっと後を継いだ嫡男の時代には、不手際から改易となり。その後家も途絶えてしまった。

 

今でも宇都宮鎮房・朝房 そして祖父の墓がある。

豊前の 天徳寺 の墓所では、奇妙な事に何度石を入れ替えても、まるで袈裟がけにされたような亀裂が、墓石にできるという。

 

まさかそこまでの怨念が、黒田と加藤家の子孫繁栄を、妨げたとも思えないのだけれど、これも奇々怪々。 

 

 

まっ、どちらも男子が生まれなかったのではなくて、育たなかっただけ・・・・・。そして、不運に恵まれすぎた。幸運ではなくてね・・・・・・

 

朝房の妻が、福岡藩の分家が入った秋月の地の者であったというのも、なんだか偶然過ぎて怖い気もする。  福岡藩6代藩主 継高 は、分家の1つであった直方藩の藩主・ 黒田長清 のもとからの養子。 その後の養子は、8代藩主が多度津藩 京極 から・・・・。 9代が一橋家から、11代は薩摩藩 島津 から、12代が津藩 藤堂家 から養子として入っている。

 

 

 秋月にしても、本藩と同じ事。 どうやら安政6年の記事では、私の国土佐国の山内家より養子に入っている模様。 私が行く先々には、不思議とよく土佐の方との巡り合わせがある。 どうやら私には、秋月の地は無縁な場所ではなかったようだ。

 

 

こちらの神社は、秋月の黒門を潜って、真っ直ぐ進み階段を上がった先にある。 ちなみにこの黒門は、黒田が入る前からあったそうで、秋月種実以来の城 (館) を、使用することとしたが、新しい主の為に改築は行っていたようだ。その種実の城のものだった門が黒門。

 

 さて、その秋月藩も、幕末明治維新の頃には、佐賀の乱・熊本の神風蓮と肩を並べるような 秋月の乱 が起こる。 小さな城下町に、戦国以来の戦が起こる。 またこの町には、日本で最後の仇討を行ったという人物が眠っている。 秋月藩の家臣の家に生まれた。 

 

臼井六郎 である。

 

父親の非業の死に、既に明治となり 仇討禁止令 も出ていたにも関わらず。 武士の子としての親の敵を討った人物だ。 父親が亡くなってから苦節13年。 時代が変わっても、どうしても成し遂げたいと願い続けた黒田の武士だった。

 

 

 

彼は本懐を成し遂げた後、自ら警察に出向いて捕まり。 明治14年9月に、裁判で 禁獄終身刑 を受けている。 明治6年4月2日に、仇討禁止令が出ていたけれど、一般的には知れ渡っていず、六郎の仇討が広まると、美談として注目を浴び。 裁判所の判決をどう出すかで、苦しんだらしい・・・・・

 

暗殺事件は慶応4年、六郎はまだ11歳だったが、血の海の中首のない父親の死体と、惨殺された母親の姿を、忘れることはできなかった。 六郎は、模範囚として過ごし、特赦を受けて明治24年9月に、34歳で釈放された。 彼の取り調べの記録が、上の写真の蔵の中の資料館にある。それは、1階のガラスケースの奥の奥、 偶然見かけて注目した2,3ヶ月後、・・・・なんとこの物語が、藤原竜也さん主演でスペシャルドラマとして、当時放送された。

 

偶然の出会い・・・・・、これも私の歴旅ではよくある話しだけれど、びっくりしたわ!(;・∀・) 今でもあるかなぁ~、YouTubeの検索で・・・・ 

「明治・最後の仇討」 とでも検索してみて下さい。 レンタルでは難しいかもしれないからね。写真の蔵も、秋月にありますよ。 

 

 

秋月の学問所 稽古館 跡に建つ郷土美術館には、滅茶苦茶レアな黒田の歴史がいっぱいです。田舎と侮るなかれ!!

 

幕末福岡藩は、佐幕派へ・・・・・そうして少しずつ時代から取り残されていきました。 まだまだあります。長い時代の中では、正妻の子ではない子を、正妻の子と偽ったりした事もあったようだけれど、福岡藩10代藩主 斉清 誕生には秘話があり。 福岡藩と秋月藩との間で、子供を取り替えた・・・・・。つまり、男女を入れ替えたとの話しも残ります。

 

9代藩主 斉隆 急死に伴う緊急処置として、・・・・・・。赤子を取り替えた場所には、 とりかえ松 夜泣き松 などという場所があるとか。 一風変わった方には、秋月藩8代藩主 長舒 (ながのぶ) の4男は、植物学を趣味として、57歳で亡くなっていますが、彼は中年になり失明していたそうです。 そして、この天明5年 1785年 に藩主となった長舒は、戦国時代秋月を治めていた 秋月氏 からの (この時には、日向国高鍋藩) 養子で、同じ秋月氏の出として、名君で有名な米沢藩上杉家 上杉鷹山 (ようざん) を、叔父としていました。

 

鷹山も高鍋藩からの養子として、上杉家に入った人だった。 秋月での最後の当主 種実 は、戦国時代秀吉の九州平定により、石高の低い貧しい高鍋の地へ追いやられた。その秋月氏が再び秋月の地に養子となって、帰り咲いていた事にも、運命の驚きを感じる。

 

 

他藩からの養子は趣味に生き、政治は家老数家の手中に・・・・・。幕府には、円滑関係の為の付け届け・・・・・江戸末期には、他藩と同じように財政的危機がピークに達していた。

 

その時、福岡藩がやった事とは、あまりにも大胆で信じられない事でした。

 

 

ただでさえ財政難なのに、明治に入って戊辰戦争などへの参戦も、その資金繰りにて藩を圧迫する事となった。 その時、話しを藩の会計主宰である 小河愛四郎 に持ち込んだのは、通商局頭取に就いていた 山本兵右衛門 だった。 この頃政府が発行していた 太政官札 の 贋造 である。 しかしこんな事、何も福岡藩だけがやろうとしていた訳ではなくて、多くの諸藩もなんと、新政府側であった私の国高知や鹿児島そして、新政府自体も行っていた事だと言うから驚いてしまう。 ( ̄▽ ̄;) 

 

 

2人の家老にも相談。秘密裏に行おうとしたこの事が、そんなに容易に上手くいく訳はない。 造られた偽札が見破られて、正しいお金と替えさせられた事もあったが、全国行脚をする藩の人間達が、行く先々で品物を買い付けたり、時には派手に遊ぶ事もあり。 段々と大胆になっていった事で、藩政時代幕府直轄の地となっていた。豊後国 日田県 現在の大分県日田市の県知事の耳にも、この怪しい行いが入り、政府に福岡藩の 贋造事件 を訴えた事で、事件発覚! 福岡藩処分に的を絞って断固処分を決意させることになった。

 

藩首脳陣4名は斬首。 直接偽札製造に関わる司計局の役人10人は、流刑10年・・・・・その他徒刑3年以下が20人、それ以外にも処罰された者達が多数いた。 もちろん藩知事も責任を問われる。 明治4年8月23日、 旧藩主家東京移住 というものが発せられたが、もはや黒田家には、東京へ出ていくだけの資金も残されていなかった。 

 

 

その渡航費用も船もないまま。 黒田家は、博多の商人から金を借りて、あるいは餞別として贈り・・・・船は甘木宿の豪商佐野屋の持ち船で、少ない人数の女中と世話係を連れて、秋月の黒田家一家も、東京へと向かったという。

 

ちなみに福岡藩が贋造事件にて、印刷機などを持ち込んだ工場とした場所は、改易となっていた 野村東馬 の空き屋敷が舞台となったが、実はこの野村とは・・・・・

 

中津の地にて、宇都宮鎮房に初大刀を討った 野村太郎兵衛 の子孫であった。 ここまで来ると、偶然だろうが・・・・・黒田家のこの難続きも、もはや騙し討ちにあった宇都宮一族の呪いも、加担していたのではと思ってしまう。…( ゚д゚) 

 

 

偽札製造の処罰にて、黒田家は取り潰しとなる。 慶長5年黒田長政入封以来、黒田家が筑前にて藩政を行ってきてから、270年余りが経ってからの幕切れとなった。

 

・・・・・と、福岡藩史に記されているそうだ。

 

そして、黒田が去った後の福岡の政治・経済的衰退の激しさから、福岡の町を救ったのも、最後の大老と言われた 黒田一雄 だった。 この一雄とは、あの黒田官兵衛が有岡城に幽閉された時、唯一味方となって牢獄の官兵衛の世話をしていた。 牢番の 加藤重徳 の息子であり。 官兵衛が、無事牢を出られたならば、お礼に子供を1人預かって、自分の子の1人として育てよう。・・・・・と言って、重徳から預かった 黒田一成 その人の末裔だった。 

 

黒田において、2代藩主忠之に・・・・二十四騎の中の1人として、処分されようとしていたところを、幕府の・・・・・・・ 

「知恩の者に報復してはならない」 との厳しい達しのおかげで、手出しができずに、幕末まで唯一大老として生き抜いた家の者だった。 

 

一雄は、黒田家に仕えていた元家臣や士族 平民 商人 等に声をかけて、銀行設立で財政基盤を計り、福岡の復興と発展に務めたのである。

 

 

英雄と言われた人々の末裔は、思わぬ方向へと向かう者が多いけれど、最後の最後で・・・・黒田の地 福岡を救ったのは、やっぱり窮地に立たされていた黒田家を、その危機から救った者の子孫。 あの有岡城にて官兵衛を、長きに渡って励まし続けた血筋でした。 

 

もしかして、どうしようもない黒田家の終焉を見て、官兵衛の見えない力が動いた? いえいえ、本当は・・・・・ず~~~っと、最初から最後まで見てたのかもよぉ~~。 (笑) でも、やっぱり宇都宮の事も気になる。(´▽`) '` 

 

ここまでなんだかドロドロとした。物語を語ってきましたけど、今回1と2にて使った写真は、秋月と福岡城 熊本県・宇都宮神社 でした。丁度今年2017年3月25日、今年2番目の桜の開花宣言が、福岡でもありました。 桜の花の福岡城は、昨年のものですが・・・・・

 

これから満開を向かえるまで、10日ぐらいあるそうです。お時間ある方、ここで黒田騒動があったんだなと、思いながらも・・・・桜の素敵な福岡城へ行ってみませんか。いろんなものを売る屋台も沢山出るし。桜まつり期間は楽しいですよ。 ちなみに、城内のトイレは紙の不足も多いと思います。人出が多い時には、ティシュなど持ってると助かりますよ。 

 

これは去年私が感じた事ですけどね。(苦笑) 

 

また、官兵衛縁の大分県中津市の中津城でも、4月10日まで桜まつりが行われています。

 

 

 

 

中津城近くには、あの 栗山利安 の縁者の和菓子屋さんもあります。官兵衛の赤い兜を模した最中もありました。(#^.^#)  官兵衛の弟の子孫の方が、中津市のお寺にいるって、知ってましたか? 昔はねぇ~、国を移るにしても、情報を仕入れるためや何かがあった時や・・・・もしも、また戻る事があるやもなんて、いろいろな理由から身内や子供を残して行くことは、珍しくありませんでした。 だから福岡でなくて、中津にいてもおかしくはないのだ。

 

 

そして、こちらが中津城内にある。宇都宮鎮房など、宇都宮一族 そして長政達により命を落とした宇都宮の家臣達を祀る場所です。 中津城の広場の一角、川沿いに近い場所にあります。

 

 

栗山利安が福岡県朝倉市に、官兵衛の為に建立した寺がある。 朝倉市と言えば秋月も近いのだが、 円清寺 という寺に伝わる官兵衛の肖像画。 なよっとしなだれたような座り方をした画だけれども、足が悪かった官兵衛が、同じようなポーズをとる 柿本人麻呂 の姿を真似たのではと・・・・言われている。 この絵姿が、官兵衛亡き後二十四騎の間で流行ったという。

 

長政も同じような姿を残している。 見比べてみると、確かに似ていることにクスッとしてしまう。 今の人が、好きな俳優やアニメの主人公になりきり画を残すように、やはり官兵衛もあの時代、家臣達の憧れの人だったのだろうか。 大分の企画展で、官兵衛と長政の座って向き合ったような・・・・。ふたつで1つな肖像画も見たことがある。 

 

それを見て、なんだか微笑ましくも思えた。