英雄の末裔 1 負の連鎖 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
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昔から・・・・、家の財産を食い潰すのは、二代目三代目と決まっている。そう、言われてきたけれど・・・・・。これからお話しする家は、4代に渡って様々な御家騒動が持ち上がり。その後も、なにかと苦労をして、生き残りをかけてきた。

 

歴史あるお家のお話しの末路です。

 

そう、そのお家とは・・・・・

 

 

 

 

黒田官兵衛の黒田家。 筑前に移ってからのお話しです。

 

この話しを知らなかった方々には、信じられないお話しとなるやもしれませんが、これは事実なのです。

 

官兵衛が、秀吉により九州へと追いやられて、今の大分県中津市に城を築き。その後息子・長政は、父親から家督を譲られて、筑前・・・・現在の福岡県福岡市に、城を築きました。 父のその知力は、戦国の覇者達からも恐れられたもの。

 

 

 

こののどかな田舎の城。 備中高松城 を、あっという間に水責めにして、この時天が味方したのか。織田信長がその家臣であった明智光秀に、討ち入られてしまった 本能寺の変 が起こり・・・・・  

官兵衛は、この静かな田舎の場所で秀吉に耳打ちしたともいう。 

 

  「殿の御運、開かせたまうときでござる。」 

                                   (黒田家譜) 

 

有名な 中国大返し が始まった。 昨年春に、この地を訪れた私は、ひとつの歴史が変わったターニングポイントに立って、ゾクゾクしてしまった。 秀吉は、この頃から傍らにいた官兵衛の力を、身を持って恐れることとなる。  申し訳ないが、世に大河ドラマの話題で沸騰していた頃。 私的には、この 黒田官兵衛 という人物は、決して英雄ではなくて、どこにでもいるちょっと頭の良い 腹黒官兵衛 だと思うようになっていた。(苦笑)

 

戦国の常識 ・・・・・みたいな事だが、彼も又・・・・・多くの女子も含めて、大勢の人々を殺して、首をはねている。秀吉の九州平定の頃には、小早川隆景の助けを借りて、城兵千人余りの首を切り。 篭城していた老若男女をすべて、磔にしている。

 

 

その息子 長政 にしたって、有名な話しがある。 彼が中津の地を去って、筑前へと向かう時・・・・。次にその地に入ってくる事になっていた 細川忠興 に対して、習慣として当たり前に行われていた新領地入封に対しての・・・・・ 前領地の年貢を、新領主に引き渡す そして、次の土地へ移るとの行いを、長政はしなかったのだ。 彼は、年貢を全て持ち去っていた。

 

困った忠興は、猛烈に抗議したが、長政は聞く耳を持たずして、・・・・・

 

父・如水の指揮下にあった細川家の領地の分で、軍役として領収したもので、筑前での年貢は、前領主小早川氏が、持ち去ったので・・・・先方が返してくれたらこちらも返納するつもりだ。 ・・・・・と、言い訳をした。 もちろん納得のいかない忠興は、一戦交える覚悟でいた。その調停を、土佐の 山内一豊 に訴えたが、一豊は両家と親しかった。 片桐勝元 に調停を頼み。結局は、五万石の内の三万石を、黒田が 金銀・米 をもって支払い。 残りの二万石を、山内と片桐両者が、肩代わりしたという事だ。

 

これが元で、黒田家と細川家は不仲となり。幕府の仲介で和解するまで、136年もの月日がかかる事となった。 実は、この両者の問題は、別のところにもあったようだ。

 

長政は、元々家康から 伊予国 あるいは 筑前 との領地の提案を受けていた。しかし長政自身は、家康家臣の井伊直政に対して、・・・・・・

「伊予 筑前 豊前」 の希望を述べたと残る。 その後、忠興に会い新領地の希望を聞けば、 西国まで流されるのであれば、豊前を望む。同時に豊後も望んだ事で、細川家は豊前豊後を手にし、長政は筑前となったという。

 

黒田家譜と細川家の 綿考輯録 (めんこうしゅうろく) では、記載されている事が違っているようだ。

 

長政の後を継いだのが、二代藩主 忠之 ・・・・・。この忠之こそが、筑前福岡藩における。 黒田騒動 と言わる黒い歴史を作るのである。 ところで、書物によれば・・・・ 福岡の地では、黒田官兵衛という 官兵衛 の名よりも、 黒田如水 という名の方が通っているようで、逆に官兵衛の名は、播磨国の方が有名なのかもしれない。九州に来てからは、中津の地にて 如水 と名乗りその後の人生を生きた事で、この名前の方が知られることとなったようです。

 

まっ、これも失礼ながら・・・・・私。秀吉の傍らにいたと言われても、 軍師 黒田官兵衛 なる人物を、大河ドラマまでまったくノーマーク・・・・知らなかった。(´▽`*)アハハ 「誰?その人・・・・」 てな感じでね。 て・・・・・皆さん知ってたか? 

 

お父さんが偉いと、二代目は辛い。 ご先祖様が有名だと、子孫も大変。・・・・・ 武功をあげて、国取りをしてきた時代と違い。家康によって天下泰平となった江戸期には、武功をあげる事よりも、いかにして家を残してゆくのか。 国造りと、御家存続 そして、幕府への配慮というものがのしかかって来たわけだ。

 

 

 

ここは黒田家の分家となった。福岡県 秋月藩 があった場所。 今は静かな佇まいの小さな町となっているが、藩政となる前から・・・・・実はなにかと騒がしい歴史を持っていた場所でした。 昔の城下町に残る秋月城の長屋門と、昔城の入口にあったという黒門。 この辺は、桜の馬場に面した場所にあり。春は桜 夏は青葉 秋は紅葉で有名な場所となっています。

 

今は、長い長い馬場の道沿いを彩る。桜の名所となっていますが、実は藩政時代には、杉が両サイドに植えられていたとの事です。(笑)

 

 

 

現在の学校の場所が、当時の城の跡だとも言われていて、福岡藩を追いやられた黒田家に仕えるキリシタンとなった家臣や民達が、ここへ移り住み・・・・一時期は教会も造られて、学校建設時には、土を掘り起こせばそうしたキリシタンに関わるような品も、出土したんだそうですよ。 この学校は、数年前大分県の酒造会社の有名CMでも、登場したことがありました。

 

行ったことがある人だけにしかわからないような・・・・。本当に、小さな山間の町です。 私はもう何度も足を向けていて、四国時代から知った場所で、九州へ行ったなら行ってみたい場所の1つとなっていました。 旅行雑誌には、桜や紅葉の情報写真が、よく載っていました。 そこが、官兵衛の子孫や黒田家の歴史と関わるとは、知らないでね・・・・・。

 

そんな話しは、何度となく米沢藩の上杉家や戦国のお話しで、紹介してきたので・・・・今回は、その部分は省略します。 (#^.^#)

 

 

この地へ入った黒田家の人間とは、福岡藩二代藩主 忠之 の弟。長政にとっては、三男となる 長興 でした。 忠之は素行が悪く、それを危ぶんだ長政の考えによるものでした。 もしも本藩が、改易などを受けた時・・・・・に対しての もしも対策 に対しての実行でした。 長興を秋月藩五万石へ、四男 高正 を、東連寺藩四万石・・・・今の直方辺りへと分藩しました。

 

だが、ここでも忠之の歪んだ性格が出てしまう。 彼は、表向きはそれを了承しておいて、その内これらの藩をも、吸収しようと考えていたのです。 秋月へ入った長興は、長政が徳川方についた頃に娶った。家康の養女 栄姫 の生んだ子で、父の愛情を一手に受けて育った長興を、忠之は憎んでいたとも言います。

 

 

そんな思惑を知ってか・・・・・、秋月藩の家老 堀 正勝 が、ある日行動を起こす。 長興と江戸に上り、将軍に御目見えして、秋月藩を 独立藩 として認めてもらったのだ。 忠之は、要所々に検門所を設けて阻止しようとした。 その中を上手くかいくぐり江戸へ出れたのは、関門海峡で熊本藩が、舟の提供などを申し出た結果でもあったらしい。

 

熊本藩は、参勤の折には・・・・・肥後街道を豊後鶴崎に出て、飛び地としていた地域からのルートと、関門海峡を渡るルートという。二つのルートを持っていて、そこに船を日頃から停泊させていたのでした。 後に東蓮寺藩は、3代目 長寛 の代に直方藩と名を改めたが、本藩である福岡藩での後継問題において、養子を出したり様々な問題において、最終的には本藩に吸収されている。 

 

暴君・・・・とまで言わしめた忠之の事を、長政は廃嫡まで考えるほど、それをとりなしたのが、家老の 栗山大膳 だったが、大膳のお陰でやっと2代藩主になれたのに、忠之は黒田家最大の功臣と言われた。 大膳の父親 栗山利安 (善助) が死去すると、こともあろうに大膳の抹殺を命じている。 

 

 

これは改易の恐れもあると、焦った家臣に必死に止められて、実行される事はなかった。・・・・が、大膳は後に、遠く盛岡藩預かりの身となっている。 これは大膳自身が、幕府に忠之の行いを、訴えた結果・・・・。 大膳の訴えは虚言とされ、忠之は無実・・・・福岡藩は改易を免れたが、幕府はその内情を知っての事か、忠之の家臣で大膳と対立していた者達を、幕府の命令で藩から追放。 大膳に対しては、我が身を捨ててまでも、国を救おうとしたと、忠義を認めての盛岡藩預かりとしたようです。 盛岡での大膳の生活は保証されていて、岩手・盛岡の歴史にも、名を残しているとか。  只、 黒田二十四騎 と言われた人物達を、次々に処分し。 大膳の家臣が、久留米藩にて仕官すると、久留米藩との不和が持ち上がり、参勤交代では福岡藩の領地を通ることを許さず。 久留米藩は、秋月藩を経由して、熊本藩の船で関門海峡を渡るという。 こうした子供じみた問題を、忠之は起こしている。

 

 

これが黒田騒動という。 御家騒動とされた事柄だった。事件後福岡藩では、 栗山大膳の栗山という名を、語る事はタブーとなったとか。

 

これ以外にも、この騒動では・・・・官兵衛の弟達の家の召放し 千石以上の者共々、家禄減知なども行ったという。 忠之の性格の悪さ、人間性の悪さは、幕府の耳にまで届いていたのだろう。 彼以外にも問題多き時代を生きた藩主がいたが、その問題含めて藩政改革に尽くしたのが、6代継高だった。 

 

 

忠之の子 3代藩主 光之 は、忠之とその父長政との関係を思い出させる。 光之も・・・・父から疎まれていたのだ。そして、その腹いせなのか。忠之の息のかかった家臣達を排除。 自分自身で新たな人材を登用して、 側近政治 を行った。 そして、彼も嫡子綱之の行状を危ぶんで、廃嫡して直方藩から綱政を迎えた。 だがこの4代目 綱政 も、政治で光之と対立。

 

光之の側近を追いやり綱政自身も、気に入った人間を取り立てて、側近政治を行うことに。 

 

ところが、その側近の中の 隅田清左衛門 が野心から政治を一手にする。藩政は乱れた・・・・。5代藩主となった 宣政 は、隅田を排除。政治改革途中にして、病に倒れて6代藩主 継高 の時代となるのである。 ここまで、連続して似た政治を行なおうとする。藩主が4代も登場するなんて、悲劇としかないですね。 一体どういうことなのだと、考えてしまいます。 官兵衛の血筋は、どう受け継がれたのか?

 

 

実は継高自身も、毒殺未遂事件にあっている。 実は5代藩主以降黒田では、他の藩からの養子が相次ぎ黒田家の血を受け継ぐ直系は、途絶えてしまう・・・・・

 

                       つづく・・・・・・・