なれないスーツと ひどいドシャ降りで なんだか疲れきってしまった
式の帰り道で 誰かがいい出して うすぐらい中華屋にはいった

ねえ 最近仕事はうまくいってるの? うまくいってやしないけど

ぬれた靴の中が かわいてしまうまで ぼくらはどうでもいい言葉をつないだ


通りにに面した ガラス窓がくもって ぼんやりと世界を隠した
昨日の夜も 去年の今頃も 似たような話をしていたかも…

もう あきれてしまうくらい ぼくの毎日は だらしなく過ぎ去ってしまう

僕はあの夏の日から どれだけきたんだろう たいした事もできず… みんなそう思うのかな

ぬれた靴の中が かわいてしまうまで ガラス窓の外で 雨がやんでしまうまで

……………………………………………

スガマニアトムの独断偏見解説
この歌詞の『式』とはなにか?結婚式?卒業式?入社式?いずれも文脈からしっくりこない。
おそらくこの『式』は『葬式』ではないだろうか?しかも同年代、おそらくは学生時代からの友人の死。
久しぶりに葬式で集まった彼らは、なれない喪服姿でうす暗い中華屋に入る。(ふつう結婚式の帰りに中華屋には行かない・親族の葬式なら帰りに中華屋というシチュエーションはあまりない)
冒頭の数行で主人公がおかれた状況と、登場人物達の関係性を見事に表現している。そして青春期から大人になった彼らの日常をも映しだす。どしゃ降りの雨に降り込められて主人公達はうす暗い中華屋で、とりとめない話を続ける。どこにでもあるような日常的な風景だが、何か重いテーマをはらんでいるように感じるのは、きっと歌詞に「死」の気配を感じるからだろう。この歌は死生観をあつかっている。
この場所を出て行くのは「ぬれた靴の中が 乾いてしまうまで ガラス窓の外で 雨がやんでしまうまで 」と主人公は思ってはいるが、一方できっと主人公は気付いている。雨はもうやまないかもしれないし、薄暗い中華屋にいる限り濡れた靴の中が乾くことはないことを…。
だけどそれも仕方ないことだと、考え過ぎて病み入ることなく、仲間とダベりながらその思いを昇華させる。村上春樹氏が言う「現世的なへこたれなさ」が確かにある。
いい歌ですね。こういう気持ちってよくわかる。スガマニア垂涎の一作です。

最後に僕のいちばん好きな歌詞をあげておく。

なれないスーツと ひどいドシャ降りで なんだか疲れきってしまった
式の帰り道で 誰かがいい出して うすぐらい中華屋にはいった

“ねえ 最近仕事はうまくいってるの?" うまくいってやしないけど
ぬれた靴の中が かわいてしまうまで ぼくらはどうでもいい 言葉をつないだ

通りに面した ガラス窓がくもって ぼんやりと世界を隠した

昨日の夜も 去年の今頃も 似たような話をしていたかも…… (「ぬれた靴」)


こういうのってまさにスガシカオ的な世界だなと思う。いいですね。曲を聴いていると、情景がすっと目の前に立ち上がってくる。
どこにでもある、なんでもない情景なんだけど「ひょっしたらなんでもなくないかもしれない」という、ちょっと不思議なリアリティーがふと感じられる。靴の中の濡れた感触と、曇ったガラス窓のけだるさが、何かの予感のように、あるいは既に起こってしまったことの(しかしなぜか喪われてしまった)記憶のように、肌にじわっと伝わってくる。平明で散文的な言葉で語られる、ソフトなラディカリズムのようなものが、たしかにそこにある。その世界に有効な出口みたいなものはあるのだろうか?
僕は知りません。とりあえずは「ぬれた靴の中が かわいてしまうまで」言葉をつなぐしかないんだよね。

…終わり
(村上春樹著『意味がなければスイングはない』より)
しかしスガシカオの音楽世界は、決してネガティブな、自壊的な方向を目指しているわけではなさそうだ。というかむしろ、彼の音楽には不思議に明るい強さ、現世的なへこたれなさ、あるいは開き直りのようなものが見受けられる。言い換えるなら、かれの音楽は、そのカタストロフ憧憬っぽい抑圧的な「気分」を、白昼堂々と遵法枠内でスマートに内燃させていくのである。つまり、現実をいったん懐疑し、その懐疑をまた懐疑することによって、また現実に戻る…、みたいな。「頭がわれるくらい暑いから/ミートソースを食った」(「ミートソース」)みたいな。「謎の壺とか買わされなくてよかったね…って/みんなにいわれたけど でもうまくすれば英語もしゃべれるし…」(「GO!GO!」)みたいな。

そんなわけで、僕は車のハンドルを握って、東名高速道路の見慣れた風景を眺めるともなく眺めながら、あるいは小田原ー厚木道路のどこかに潜んでいるはずの覆面パトカーに怠りなく注意を払いながら、車内のスピーカーから流れるスガシカオの音楽の歌詞に、ついつい耳を澄ましてしまうことになる。
これがけっこう習慣化してしまうというか、中毒っぽくなってしまうのだ。僕もあるいは「どや、兄ちゃん、よかったやろ?クーっとくるやろ?」的な世界に足を踏み入れてしまったのかもしれない。
……………………………………………
しかし考えてみればそれだけ、スガシカオ的な「気分」がかくも急速に、そして幅広く世の中に受け入れられていくだけの素地が、社会の側に手堅くこしらえられていた、ということになるのだろう。柔らかなカオス、あっけないほどの自明な屈託、局所的カタストロフの予感、健全な自虐、明るいラディカリズム…。こういう「気分」はおそらく、右肩上がりのバブル時代には、少なくとも目につく流れとしては、存在しなかったものだろう。
……………………………………………