今日は水曜日なので、今週の日曜日の礼拝メッセージを載せさせていただきます。
今週はちょっと驚くようなイエスさまの行動と、さらにびっくりするようなお言葉を味わいました。
「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」ですって!
2024年度の年間テーマ
~神の栄光をほめたたえよう~
「ほむべきかな、わたしたちの
主イエス・キリストの父なる神」
(エペソ人への手紙1章3節)
2024年6月23日のメッセージ
「心に疑わないで信じるなら」
聖書: マルコによる福音書11章12~26節
(一部だけ記します)
22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
イエスさまがこのようにおっしゃる前に、少し驚くような出来事がありました。
*マルコ11:12~14
12 翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
13 そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
14 そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
いくらなんでもイエスさまは無茶苦茶なことを言われているのではないかと思うのですが、この後で先ほどの「心から信じるならば何でもかなえられる」とおっしゃったのです。
今日は、柔和なイエスさまらしからぬ言動の意味を考えてみたいと思います。
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*マルコ12:20~22
20 朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。
21 そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。
22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。
これは、イエスさまがたびたび弟子に予告していたように、いよいよ捕らえられるためにエルサレムに向かわれた時の話です。
まず、イエスさまがなぜいちじくを呪われたのかを考えてみたいと思います。
「いちじくの木」は、聖書では神に選ばれ、愛されているイスラエルの民(ユダヤ人)」の象徴です。
そして、その祝福と恵みが神さまを信じる私たちにも与えられています。
滋味豊かないちじくの木の下に憩うことは、平和と繁栄のしるしです。
結論を先に申し上げると、イエスさまは決して非情で無理な要求をされたのではなく、ユダヤ人たちに、そして私たちにこれから起こることを伝えた「象徴行為」であったと考えたいと思います。
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神さまは、かつて預言者を通してみ心を伝えていました。
*ミカ書4:3.4
3 彼は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国々のために仲裁される。
そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない。
「彼」、それはやがて来られる「救い主」のことです。救い主は弱い国を虐げている強い国を正義の力で治めます。
「剣(つるぎ)」や「槍(やり)」を打ち換えて農耕の道具である「鋤(すき)」や「鎌(かま)」に造り変え、武器のない平和が訪れるのです。
4 彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、そのいちじくの木の下にいる。彼らを恐れさせる者はない。
イエスさまは、ご自身を「ぶどうの木」とたとえられましたが(ヨハネ15章)、ぶどうの木の下に座し、いちじくの木の下におるというのは、まさに平和と繁栄を享受している人々の姿です。
イエスさまが探されたのは、初なりのいちじくでした。
イスラエルの地では春になるといちじくが小さな実をつけ始め、貧しい人たちの食用とされていたそうです。
その「初なりのいちじく」が実った後で、夏になると立派ないちじくが実るのです。
しかし、いちじくの木は葉っぱばかり立派に茂らせても、肝心の実をつけていませんでした。
*ミカ7:1.2
1 わざわいなるかな、…食らうべきぶどうはなく、わが心の好む初なりのいちじくもない。2 神を敬う人は地に絶え、人のうちに正しい者はない。
「初なりのいちじく」、それは神さまが好むもの、神さまに愛される神の民のことです。
神に背いてしまった人々にイエスさまが福音を伝えにこられたのに、ユダヤ人たちはイエスさまに立ち返ることをしませんでした。
イエスさまは、いちじくを呪うことによって「頑ななユダヤ人」に対する神さまの峻厳なさばきを告げなければなりませんでした。
この出来事のあとで、マルコはイエスさまが「宮清め」、すなわち神殿で神を礼拝するのではなく、商売をしていた人たちを追い出したという話を挿入しています(15~19節)。
礼拝に集う目的が、神さまを礼拝するのでなく、自分の利益のためである人々を追い出したのです。このことも、覚えておきたいと思います。
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さて、イエスさまは不信仰の結末をお語りになられた後で、神を信じることと祈りについて教えられます。
*マルコ12:22.23
22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
荒唐無稽な話ではありません。「山が海の中に移る」とは、ユダヤ人たちがよく知っている詩篇の一節にあることばです(46篇2節)
この詩は、神さまへの全き信頼を歌っています。そして、神を信じる民の祝福を讃美しています。
*詩篇46篇8~10
8 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
9 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
ミカが預言し、詩人が歌った神さまの平和と祝福が全地にもたらされていくのです。
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イエスさまは、「神を信じなさい」と言われました。私たちは、使徒信条で「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しています。*使徒信条:キリスト者が告白している信仰の内容
キリスト者は、神さまにはできないことは何一つなく、しかも「父である神さま」は私たち一人ひとりに愛と慈しみをもって良い物をお与えくださる方であるということを信じて告白しているのです。
はたして、私たちの神さまへの信頼はどれほどのものでしょう。
2000年経った今もなお、「神の民」が互いに争い、戦争をしています。
自分によいことをしてくださるときは神さまを信じるけれども、願いが叶わなかったり、辛い目にあったり、気にいらなければ神さまに疑いを持ってしまうのが私たちです。
最初の人間アダムの妻エバは、ヘビにそそのかされて神さまの言葉に「疑い」を抱きました。
そして、ヘビの言葉を信じて知恵を手にして「自分勝手」な判断をするようになりました。
神さまの言葉と約束を信じないがゆえに、いろいろな不幸が起こったことを旧約聖書が伝えています。
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イエスさまは、神さまに信頼することを改めて人々に教えられました。「心に疑わないで祈るならば、山も海の中に動くのだ」と。
祈りは、神さまへの信頼なくしては捧げられません。
神さまは、天地万物―海も山も造られた全能の創造主です。だから、神さまのお言葉一つで山が海の中に移ることも可能でしょう。
しかし、自分の判断で信じた結果、とんでもない宗教にだまされていたという悲劇が起こります。
だから用心深くなり、「神さまを信じる」ということをバカにする人もいます。
「信じる」とは、「理解」することではありません。自分があれこれ調べて納得がいくから信じるというのではありません。
自分の判断では、「常識」と自分のことしか考えられません。そして、「欲」に惑わされてしまいます。
神さまを信じる心は、実に聖霊による賜物です。自分の判断や能力ではありません。
*ヨハネ3:34
34 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
聖霊の導きによって、私たちが実を結ぶためにて必要なものを与えてくださる愛と力の神さまをますます信頼し、平和の道を歩み続けたいと思います。
【黙想・祈り】
父なる神さま。聖書を通して、あなたが造られた人間をどれほど愛してくださっているかを教えられています。しかし私たちは、あなたの愛と力を丸ごと信じようとはしません。どうか、世の終わりの時にイエスさまが探しに来てくだったときに、すべての人が実を結んでいますように。あなたのお力を信頼し、喜びと希望のうちに歩むことができますように祝福してください。イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。
長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。
神さまを信じていると言っても、「自分に都合よく」信じているのだなあと思いました。
イエスさまが捕らえられて十字架につけられるとき、弟子たちでさえも、イエスさまの前から逃げていってしまいました。
弟子たちは、死からよみがえられたイエスさまと出会い、ようやく全能の父なる神さまと救い主であるイエスさまのことを「信じた」のでした。
イエスさまは「見ないで信じる者はさいわい」とおっしゃいました。
たとえ世界中の人が反対しても、イエスさまを信じ続けられる「信仰」をいただきたいと思います。…アホみたいと思われるかもしれませんが‥
「神を信じなさい」。ご自分の命を捧げてくださったイエスさまがおっしゃるのですから、間違いありません。
イエスさまがもたらしてくださった愛と平和と命の道を、一人でも多くの方々と共に歩みたいと思います