今日は水曜日なので、今週の日曜日の礼拝メッセージを載せさせていただきます。
今週は「盲人で物乞いをしていた」バルテマイという人のことを思い巡らしました。
*「盲人」という言葉は「目の不自由な人」「視力障害がある人」のことですが、一般的な日本語聖書表記のまま記します。(新改訳2017では「目の不自由な人」となりました)
2024年度の年間テーマ
~神の栄光をほめたたえよう~
「ほむべきかな、わたしたちの
主イエス・キリストの父なる神」
(エペソ人への手紙1章3節)
2024年6月16日のメッセージ
「与えられた自由と恵みを」
聖書: マルコによる福音書10章46~52節
(一部だけ記します)
46…イエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
***
盲人がイエスさまによって目が見えるようになったという話は、以前にもありました。(8章22節以下)
その時はイエスさまがその盲人の目に触れ、つばきをつけて癒されたのでした。
このたびは、イエスさまはバルテマイという人の「信仰」によって癒されたというのです。
今日は、そのバルテマイの信仰を思い巡らしたいと思います。
***
バルテマイは、道端に座って物乞いをしていました。「目が見えない」というハンディによって仕事ができなかったからです。
彼は人々の噂を聞いて、「ナザレのイエス」を「ダビデの子」と呼んで、「憐れみ」を求めました。
「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」
実は、これはすごいことです。ナザレの町から来たイエスさまを「ダビデの子」すなわち自分たちが待ち望んでいた救い主と信じて、憐れみを求めたのです。
群衆も、そして12人の弟子でさえもまだイエスさまがどういうお方なのか気づいていません。
周りにいる人々は彼をしかって黙らせようとしましたが、彼はますます激しく叫びつづけました。
「憐れみを乞う」ことは、プライドのある人間にはなかなかできません。彼は人々の嘲笑と叱責にも耐えました。
「目さえ見えていたら…」と、どれほど思ったことでしょう。けれども彼は、ただひたすらイエスさまの憐みを求めました。
「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
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*マルコ10:49~52
49イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。
50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
ここで初めて、バルテマイはイエスさまに「目が見えるようになりたい」という願いを申し上げました。
最初からイエスさまに「目が見えるようにしてください」とお願いして叫んでもよかったはずです。
しかし、彼はもっと根源的な「救い」を求めていたのではないかと思います。
目が見えるようになれば、乞食などしなくてもよいのです。働いて、ユダヤ人社会で「責任」も果たし、みじめな思いをしなくてもよいのです。
この話の前に登場する弟子のヤコブとヨハネは、イエスさまに「出世」を願いました。
しかし、バルテマイは自分が救い主に「何を求めたらよいのか」を知っていました。
「わたしをあわれんでください」。
彼の叫びは人々の心に残り、この叫びこそが「救い」を求める「魂の叫び」であったことに気づかされたのでしょう。
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ユダヤ人は、会堂で神さまのことばを聞いていました。私たちが「旧約聖書」と呼ぶ神さまの教えや約束の言葉です。
ですから、救い主がどのようなことをしてくださるのかを知っています。
「その時、見えない人の目は開かれ、聞こえない人の耳は聞こえるようになる」(イザヤ書35章5節)
これは、単に身体的なことを言っているのではありません。
視力の回復なら、現代医学ではIP細胞の移植によって可能になるかもしれません。
しかし、肉眼の視力が回復しても「見えない」世界があるのです。
聖書は、私たちの目が覆われていて「真理」を悟れない状態を「盲人」と表現することがあります。
また、「乞食」とは何も持たない「無一物」の人のこと、イエスさまが「さいわいだ」と祝福される「貧しい人」のことです。
*ルカ福音書6:20
20イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
マタイは、このイエスさまのお言葉を「心の貧しい人」と言っています。
それは、自分の「心と霊」に飢え渇きを覚え、神の前に何も持たない者であることを自覚する者のことです。
バルテマイのように「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」とひたすら叫ぶしかない人のことです。
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*マルコ10:50.52
50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
「上着」は、おそらく物乞いをしていた彼の唯一の財産であったでしょう。
しかしそれを脱ぎ捨てて、文字通り「無一物」になって、喜びのあまり躍り上がってイエスさまの前に進み出ました。
彼のイエスさまにかける「不退転」の決意の表れのように思います。そして彼に、今までとは違う新しい人生の扉が開かれます。
52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
イエスさまは彼の願いに答えられました。彼は目が見えるようになり、もう自由です。
目が見えるようになったら…いろいろと考えていたでしょう。
イエスさまは、それまでに病気や障害を癒された人には、もとの生活に戻っていくように話されました。
けれども、バルテマイは目が見えるようになったら今までできなかったことをしたいというのではなく、イエスさまに従っていたのです。
彼は、自分に与えられた自由をイエスさまに従うことに用いました。
そして、彼はイエスさまの弟子として聖書に名前が記されるほどに誠実で重要な働きをしていたのでしょう。
まさにこれは、私たちがあれやこれや考えて求めている「自己実現」をはるかに超える「神実現」です。
神さまは私たちを「よりよい幸いな人生」を歩むようにと、私たちが得ようとしている「自己実現」ではない、神さまの御心である「神実現」をしてくださるのです。
そのために、私たちの「目を開き」、神さまの愛と真理に気づかせてくださるのです。
これは、自分に自信満々のうちは気づきません。自分の「貧しさ」を知る者だけに与えられる恵みです。
バルテマイは、もしかしたらクリスチャンの姿なのかも知れません。
【黙想・祈り】
父なる神さま。あなたの御心も真理も知らなかった私たちの目を開くためにイエスさまと聖霊をお遣わしくださったことを感謝します。私たちがみじめな人生を送るのではなく、あなたが祝福してくださる光の道を歩めることを感謝します。どうか、これからもイエスさまに従い、あなたがたまわる幸いな人生を送らせてください。イエスさまの御名によって祈ります。アーメン。
長いメッセージをお読みくださり、ありがとうございました。
今週は、ミッションスクールに入学した中学校1年生の生徒が礼拝に来てくれました。
受験勉強を頑張って入学した彼らですが、これからも学んで成長して、将来に夢を持ち、元気に過ごしてほしいと願います。
「中二病」という言葉がありますが、中学二年生くらいになると、いろいろ「わかって」きたような気になります。
社会や親、大人に対する批判力も生まれ、生意気になったりします
でも、18歳になっても、ハタチになっても、40歳になっても、60歳になっても、80歳になっても、おそらく、100歳になっても…この世界のことを知り尽くすことはできません。
まだまだ見えていないことがあると思いますが、イエスさまに手を引いていただきながら歩んでいきたいと思います。
ミッションスクールからきた生徒さんには、「学校の礼拝の時間と聖書の時間はこれからの人生の力となるから、大事にしてね」と伝えました。
まだ先行きの見えない大変な時代を生き抜いていく子供たちを、イエスさまが導いてくださいますように
昨日は朝からの激しい雨が上がって
夕方にお月さまが見えました!
心の目を開かせていただいて
神さまのみ心とみわざを
はっきりと見たいと思います