今日は水曜日なので、日曜日の礼拝メッセージをお届けします。
今週は、イエスさまが耳の聞こえない人の耳を「開いて」聞こえるようにして下さったお話です。
その時のイエスさまのお言葉が「エッファタ!」です。これはイエスさまが使われていた「アラム語」で「開け!」という意味です。
「開けゴマ!」ではなくて、「エッファタ!」
でも、「おまじない」の言葉ではありません。神さまのお力が現れる、力強いお言葉です。
イエスさまが、今まで聞こえなかった声が聞こえるようになる「耳」をくださいますように!
「み言葉には、あなた方のたましいを救う力がある。み言葉を行う人になりなさい。」(ヤコブ1:21.22)
私たちの教会の年間聖句です。
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2021.10.10の礼拝メッセージ
聖書:マルコによる福音書7:31~34
(一部だけ載せます)
31 それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。
32 すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。
33 そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、34 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ(エッファタ)」と言われた。これは「開けよ」という意味である。
35 すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けてはっきりと話すようになった。
メッセージタイトル
「耳が開かれ、語り出す」
今日のお話は、イエスさまが聴覚障がいの方の聴力を回復されたと いう単なる「いやし」の奇跡物語というよりも、「見えない人の 目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる」というイザヤ の預言(35:5)が成就された出来事として読みたいと思います。
神さまの言葉は、「聞くこと」によって伝えられてきました。 文字を読み書きできる人が少なかった時代、神さまの言葉は「見 る」ことと「聞く」ことによらなければ理解できませんでした。
イエスさまは、その人をいやされる時に深い「ため息」をつかれ ました。これは「うめき」です。神さまの語りかけを聞くことの できない、すべての人間へのイエスさまの憐れみの現れでしょう。
イエスさまはご自分の指でその人に触れ、「エパタ(エッファタ)」と命じて 長い間その人が「聞く」ことを妨げて人生を束縛していたものから解放されました。それが何かは、それぞれによって違うのでしょう。
イエスさまはよく「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。いくらイエスさまのお言葉を聞いても、「聞く耳」を持たなければ何の力にもなりません。
イエスさまは、神さまからの「賜物(贈り物)」として私たちにも「聞こえる耳」をお与えくだるのです。
【黙想・祈り】
神さま。この世の富や力や騒がしさが私たちの耳を塞いでいます。どうか私たちの耳を開いてください。そしてあなたのみ声によって私たちにすすむべ道を示し、あなたが祝福される道を歩めるように導いてください。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン。
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おまけです。お時間がありましたら、どうぞごゆっくり。
イエスさまの時代には、読み書きができる人はごくわずかでした。だから、「聞く」ことができなければ、今よりもずっと不自由な生活だったと思います。
けれども、イエスさまがなさってくださったのは、単なる「聴力の回復」というよりも、もっと重要なことだったと思います。
「『神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる』と書いてあるとおりである。」(ローマ11:8)
これは、伝道者パウロが当時のユダヤ人に対して語った言葉ですが、私たちの目と耳と心にも当てはまるのではないかと思います。
新しくリーダーとなった総理は、人の話をよく聞く方だそうです…
聖徳太子はいっぺんに8人の人の話を聞いたとか…
だけど、多くの人は自分に都合のよい声しか聞こえない「勝手ツンボ」(差別語でスミマセン)だったり、聞かぬふり…。
声を出せない人を踏みつけていても、まったく気づきません。
あるいは、自分が得になりそうな話は「耳をダンボにして聞く」…そんな風になっていないかと思わされます。
せっかくの注意も聞かないから、自分の思うままにしてヒドイめにあったり、キケンなめにあったり…
聖書の民、イスラエルはいつもそうでした。そして、私たちも。神さまの語りかけに耳を貸さないから…
せっかく「神の民」であっても幸せになれない…憎しみ、争い、殺し合い、ほかの被造物まで巻き添えにして滅びに向かわせて…
だからイエスさまは、「ため息をついて」(嘆いて…という意味です)、父なる神さまにお願いして「エッファタ!」(開け!)と言って、ちゃんと神さまの声を聞こえるようにしてくださいました。
「エッファタ」は、イエスさまが使っておられた「アラム語」の言葉です。聖書が書かれたギリシャ語に訳されずに、そのまま伝えられています。
口語訳や新改訳の聖書は「エパタ」と書いてありますが、新共同訳のように「エッファタ」の方が、原文の発音に近いようです。言いやすい方でいいよ
羊はちゃんと飼い主の声を聞き分けて、飼い主以外の声にはついていきません。
イエスさまは、迷える羊だった私たちが神さまの声を聞き分けられるように、「エッファタ」と言って耳が聞こえるようにしてくださいました。
「お~い、もう夕方だから神さまのところに帰ろうよ~」…っていう声、聞こえませんか?
空を見上げると…神さまの声が聞こえてきそうです。「お~い、大丈夫だよ~。ちゃんと見ているよ~」 HKさんの写真です。