紀州 木の国・根の国物語

テーマ:

 熊野を訪れたのは、中上健次が描いた世界を実際に見てみたいということがあった。ほんの二日,車やバスで回ってみただけでわかるはずもなく,かといって“観光”気分になることもなく。ずっと降っていた雨のせいか,樹や森や水の流れなどの自然に飲み込まれそうな人の営みの危うさを思ったためか。

 

 ずいぶん前に読んだ中上健次の『紀州 木の国・根の国物語』を読んでみたくなった。家に帰ればどこかにあるはずだが,探すのも面倒だと思い,電子図書を購入,スマホで読み始めた。

 

 

これは1978年,健次が32歳の時に書いたルポルタージュ。紀伊半島を旅し,その土地に住む人に話を聞くというもの。当時朝日ジャーナルに連載されたそうだ。32歳に書いたのかと少し意外な気もした,もっと若い20代のころの作品かと何となく思っていたので。彼がなくなったのは1992年46歳だから,亡くなるまでに18年しかない。数えれば、没後30年である。

 読んでみて,自分の読み取りがいかに浅いものだったかと思い知らされた。中上健次が海辺の小さな町や、山奥の見落としそうな細い道を入って話を聞きに行ったのは,彼と同じく 差別を受けていた被差別部落の人々なのである。この作品の中にその言葉がその都度出てくるわけではないが,彼らの生業,住んでいた場所や貧しかった暮らしぶり,そして当時の様々な産業振興策とくれば,それを読み取って当然だったのだが,当時の私はそれと気づかず読んでいたのだ。いや気付いていたのかもしれないが,当時の私は人々の生活の大変さなど想像することもできないほど幼く若かった。中上健次の小説はとても惹かれるものがあって次々に小説を読んだのだが,それももし今読み返せば全く違うものとして現れるかもしれない。

 「本宮」という章がある。そこで多く語られるのは“湯ノ峰”に湯治に行った小栗判官や俊徳丸の物語。そこで13回も手術をしたという老婆に話を聞くのだが,それもまたひとつの“説教節”。七つの時,母親が死に子守りとして奉公に出るが,子守というより下働き,小間使い。素足で山に働きに行かされ,雑木を拾うのが仕事。13歳で岸和田に紡績に行く。父親はバクチ打ち。19歳で結婚する。

「或る日、夫は、伏拝で山仕事の事故に遭う。伏拝とは本宮から十津川にむかってすぐのところにある土地である。その昔、熊野本宮大社に参拝に来た和泉式部が、月のもので身が穢れていると歩いて幾許もないそこから本宮大社にむかって伏し、拝んだというその伏拝である。「埋めやれての。その時たすかったけど。それがもとで耳がとんでいくしの。歯もとんでいくし」」

—『紀州 木の国・根の国物語 (角川文庫)』中上 健次著 https://a.co/asQIUrM

 

43歳の時に夫はこの病で亡くなる。老婆は「肺病」と言うが中上はおそらく「レプラ」だろうと書いている。

 

 この“湯ノ峰”は本宮のすぐ近くで,行ってみようと思ったのだが,その入り口があまりに狭いんで断念したのだった。車は軽のレンタルだったが,対向車が来たらすれ違えないほど狭い。道を知っているなら行けたかもしれないが,全くの初めてではその道に入っていくのは躊躇した。

 中上は大斎原にも行っている。そこに立つ石碑の文字について書いている。

「本宮に、熊野三社のひとつがある。本宮の神社が明治二十二年の水害によって流され、熊野川のやや上流の現在の場所に移った、とその本宮に入って初めて知った。その元の神社跡に行ってみる。「明暦丙申立」と裏にある石碑に、「禁殺生穢悪」とあった。神社の中で、殺生や、穢れや、悪を禁ずるとの意味であろうが、紀伊半島の土地土地を経巡る途中の私には、それはことさら眼についた。つまり、楷書でしっかりと書き彫り上げた石碑の筆づかいから、その筆を持って文字を書く人間の、自信とおごりに対する驚きと、反感だった。自然は、八百万の神々はそんなになま易しくはない。自然はもっと生き生きとある。そう思った。神々は一度や二度、打ち倒されてもなおもぞもぞと生きながらえてある。自信とおごりとは、つまり堕落のことだろう。本宮という神の場所ではなく、碑に文字を書いた人間、それを建立した者の人為が、この本宮という場所を、閉塞させている、と思った。神の場所とは、貴と賤、浄化と穢れが環流し合って、初めて神の場所として息づく。」

—『紀州 木の国・根の国物語 (角川文庫)』中上 健次著 https://a.co/cMuOxQX

 

 「殺生や、穢れや,悪」のただなかで生きてきた人々の話を聞き書きしてきた彼にしてみれば,神社の境内で殺生を禁ずるという言葉が薄っぺらなものに思われたことはよくわかる気がする。一方和泉式部の話にもあるように平安の人々が“穢れ”というものに敏感だったことも確か。ところでこの話には続きがある。次のような物語も語り継がれている。

 

 和泉式部が熊野詣をして、伏拝の付近まで来たとき、にわかに月の障りとなった。これでは本宮参拝もできないと諦め、彼方に見える熊野本宮の森を伏し拝んで、歌を1首、詠んだ。
「 晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき」
すると、その夜、和泉式部の夢に熊野権現が現われて歌を返した。
「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき」
 そこで和泉式部はそのまま参詣することができたという。つまり熊野の神は月のさわりなぞ問題にしないということなのだろう。

 

熊野から,また紀伊半島をぐるっとまわる電車に乗り、大阪のホテルに着いた。大阪はまるで別世界。人が多く,建物が多く,ショッピングモールが多く。熊野ではあまり見かけなかった子供連れの若い家族が歩いていた。巨樹,巨石,人もまばらな熊野からきて,あまりの落差に外国に来たかのように感じた。9月10日の満月,十五夜の大阪の夜。