この日は、千葉県千葉市にある「千葉城」に出掛けました。同行は、まっちゃんです。
千葉城の城主は、代々「千葉氏」です。
千葉氏は、桓武天皇の血を引く関東の名族です。初代当主は千葉忠常(下総国のナンバーツー・千葉介)でした。千葉忠常の子常将や孫の常長は長い戦いで荒廃したこの地方の再開発に着手し、房総全体に勢力を広げていきました。
1180年(治承4年)源義朝の子、源頼朝(よりとも)が伊豆で挙兵し、平家方との戦いに敗れて房総に逃れてくると,「千葉常胤(つねたね)」は、いち早くこれに味方する意向を示し、さらに頼朝に対して鎌倉に本拠を構えることを進言するなど鎌倉幕府の創設に重要な役割を果たしました。
その後、源平合戦・奥州合戦などにも参戦し、この功績で常胤は失った相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2か国をはじめ、東北地方、九州地方など全国で20数カ所といわれる広大な所領を獲得し、千葉氏は幕府の中でも屈指の御家人に成長しました。 常重は、千葉移住の九年後の1135年(保延元年)家督を嫡子の常胤に譲りました。
●千葉常胤の活躍
常胤が家督を継承した翌年の1136年(保延2年)、下総国国司藤原親通(ちかみち)は公田官物の未進(税金の滞納)を理由に常重を捕え、相馬御厨と立花郷の割譲を要求してきました。
同時にこの事件を知った源義朝(よしとも)も相馬御厨の割譲を要求してきました。
常胤は一旦、相馬御厨と立花郷を譲ることに同意し、後で滞納分を弁済して相馬郡司に任命されました。
また、義朝に対しては、主従関係を結ぶことで、御厨の下司権を確保しました。
しかし、平治の乱(1159年)で義朝が平清盛に敗れると、この所領は国に没収されてしまいました。
1180年(治承4年)源義朝の子、「源頼朝(よりとも)」が伊豆で挙兵し、平家方との戦いに敗れて房総に逃れてくる(石橋山の戦い)と 「うちの千葉事務所近くの都川にかかる「君待橋」で「源頼朝」を待ち受けて、「千葉城」に、「源頼朝一行」を歓待したのでした。
その後、源平合戦・奥州合戦などにも参戦し、この功績で「千葉常胤」は失った相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2か国をはじめ、東北地方、九州地方など全国で20数カ所といわれる広大な所領を獲得し、千葉氏は幕府の中でも屈指の御家人に成長しました。 「千葉常胤」は、「千葉氏中興の祖」と呼ばれています。 現在、「千葉城」には、「千葉常胤」の木造が展示されています。
私の自宅近くに「高速道路の武石インター」があります。 「武石の地名」は、「千葉常胤」の四男の「武石四郎」の「武石」から取った名称です。 インター近くの「武石の部落」に行くと、「千葉城」にある「千葉常胤」の木造の顔とそっくりの顔の人が、出て参ります。 遺伝ですね。 顔の特徴は遺伝します。
そんな「千葉城」を私と同行のまっちゃんは、城の外と、城の中で、撮影しました。
以前は、「千葉城」の中は「撮影禁止」でした。 この日は「撮影可能」でした。 以前、私が「千葉城内」で撮影したら、守衛さんに注意を受けました。 そこで、知り合いの「千葉県会議員の佐藤さん」にお願いして、「城内の撮影を許可して欲しい旨」お願いしました。
そしたら、今回、撮影出来るようになりました。 何も失うことはないのですから、皆がスマホを持って撮影する時代になりましたので、良かったと思いました。
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