本佐倉城跡・伝説酒々井の井戸・佐倉宗吾・甚兵衛渡し・印旛沼 | 西村治彦の日記

西村治彦の日記

日々の出来事を書いています。

  この日は、千葉県にある「印旛沼」周辺にある名所を訪問しました。同行は紺子さんです。まず、本佐倉城跡 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉781にある「本佐倉城跡」を訪れました。「本佐倉城」は、「佐倉城」の前に存在した「城」であります。「佐倉城」は、立派な「城」でした。現在も「佐倉城跡」として存在しています。「佐倉藩」の城でした。「土井利勝」や「堀田氏累代」が、「佐倉藩主」として、君臨しました。江戸時代 終盤に、明治維新を迎え、廃城になりました。この「佐倉城」の前に存在した城が「本佐倉城(ほんさくらじょう)」です。

 私と紺子さんは、「本佐倉城」に行って参りました。城は、「土」と「竹や木」で作られました。現在残っているのは、「土塁」と「空堀」です。

足場があまり良くないので、「本佐倉城跡」を回るのは、大変です。この日、回れた「城跡」を載せたいと思います。

 次に向かったのは、「伝説・酒々井の井」です。江戸時代、親孝行の息子が、仕事を終え、帰りに酒好きの「父親」に、大好きな酒を買って帰りました。父親は、毎日、好きな酒をちびりちびりと飲み、喜んでいます。ある日 息子は仕事にあぶれ、収入がありませんでした。「困った!困った!」とぼとぼと、息子が家路を歩いていると、どこからともなく「酒の匂い」がしてきました。近くの「井戸」の中を見たら、まさしく「酒」が沸いて出て来ていました。息子は大喜びで、その「酒」を汲み、待っている父親に、与えたのでした。父親は大喜び、「ちびりちびり」と晩酌をしました。

 その話を聞いた 近所の人が、その「井戸」に「酒」汲みに行っても、出るのは、ただの「水」でした。

 その「酒の出る井戸」から、この地は、「酒々井(しすい)」と名付けられたのです。現在も、この地は、「千葉県印旛郡酒々井町酒々井」と呼ばれています。

 次に、「甚兵衛渡し」に向かいました。「甚兵衛渡し」は、千葉県成田市北須賀にあります。「印旛沼」を渡るには、江戸時代には「渡し舟」で渡りました。「渡し守」は「甚兵衛さん」でした。「庄屋・佐倉の義民・佐倉宗吾」は、佐倉藩の年貢が高すぎて、農民たちが、一揆を起こし、窮状を見ていられなくなりました。「佐倉宗吾」は佐倉藩に、窮状を訴え、直訴しました。佐倉藩では、訴えを取り上げてくれませんでした。困った「佐倉宗吾」は、江戸に向かって「江戸幕府」に直訴することにしました。佐倉藩では、「佐倉宗吾」が「印旛沼」を渡って、江戸に行かないよう、「渡し守」の「甚兵衛さん」に、前もって伝えておきました。

 ある雪の日、「佐倉宗吾」が「甚兵衛渡し」にやって来ました。「甚兵衛さん」は同情して、「佐倉宗吾」を渡し舟で、「印旛沼」を渡してしまいました。佐倉宗吾」は「江戸」に行って、直訴状を「江戸幕府」に渡すことに成功しました。「直訴」が通って、「佐倉藩の農民たち」は年貢の献上を減らされ、大喜びでした。代わりに、「佐倉宗吾」と彼の家族は、「死罪」となり、「斬首」され、亡くなりました。「佐倉宗吾」は「義民」として崇められ、現在も「佐倉宗吾霊堂」に祀られています。

 「舟で宗吾を渡した甚兵衛さん」は、責任を感じて、印旛沼に飛び込み、自ら命を絶ったのでした。 

 その「甚兵衛さん」が祀られている「印旛沼自然公園」に、私と紺子さんは 行って参りました。「甚兵衛さんの墓」で参拝して、甚兵衛渡し」のあった「印旛沼」で、往時を偲んだのでした。悲しい歴史がありました。

 

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