大多喜城・本多忠勝の居城・夷隅川が脇を流れ・古い町並みの城下町 | 西村治彦の日記

西村治彦の日記

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この日は、千葉県夷隅郡大多喜町にある「大多喜城」に出掛けました。 同行は次女です。 「大多喜城」は、1521年に、真里谷信清が 建てました。 その後戦国時代には、次々と城主が代わり、「本多忠勝」が、「大多喜城」を立て直しました。 「大多喜城」と言えば「本多忠勝」です。 天正18年(1590年)、「上総」を治めていた「里見氏」が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は「徳川家康」に与えられ、その配下の勇将・「本多忠勝」が城主となり、大多喜藩10万石が成立しました。 本多忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行いました。 これが今日の大多喜城であります。

年に一度、「大多喜城お城まつり」が行われます。 私は 過去 何度か、この「大多喜城お城まつり」に出掛けています。 「大多喜城の武士」に着飾った勇壮な武士たちの、武者行列を見学することが出来ます。 城主の「本多忠勝」は 馬にまたがり、勇壮な姿を我々の前に、現わしました。 「格好が良い!」です。

私と次女は、「大多喜城」に出掛けて、城の周りを歩きました。 すぐ下は「大多喜高校」です。 校庭に「大多喜城」の「大井戸」が見えます。 当時から、この「大井戸」で水を汲んで、武士たちの飲み水とし、炊事をしていました。 湯も沸かしましたね。 「大多喜城」の「薬医門」も、「大多喜高校」の校庭にあります。 「大多喜城」は 当時、「二の丸」でした。

城の天守閣の下には、いくつかの広い「曲輪」があり、「武士たち」が、「大多喜城」を守っていました。 このため、「大多喜城」は敵に攻められて、落城したことがない「城」であります。   「本多忠勝」以下、城主たちは、強くて、立派な武将でした。

「大多喜城」を一周したので、下に降ります。 降りると、城の下には、「夷隅川」が流れています。 食料となる「川の魚」をこの川で採りました。 「鯉」がよく取れたのだそうです。 城主や武士たちにとって、栄養ある「食料」でした。 私と次女は、「夷隅川展望台」で、記念撮影です。

更に下に降ります。 そこには、「いすみ鉄道」の「大多喜駅」がありました。 駅の中に入ります。 中には「本多忠勝」の像がありました。 「本多忠勝」のドラマ化をして、観光客を呼ぼうと、地元の「大多喜町」では、大々的にキャンペーンをしています。  

次に、「大多喜駅」の下にある「大多喜城の城下町」に行ってみます。 ここは「古い町並み」が、見られます。 江戸・明治・大正時代の家並みです。 いくつかの「古い家」の前で撮影です。 「有形文化財」に登録されています。

この日、「大多喜城」を見学して、有意義でした。 遠くから、この「大多喜城」を見ることが出来ます。  見ると、昔の武士や町人や農民たちも、「大多喜城」を、「我々のお城!」と誇りに思ったことでしょう。 帰ります。 千葉市まで、1時間半ほどでした。

 

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