下野谷遺跡は縄文時代の遺跡・東京都西東京市にあります・竪穴式住居・縄文式土器 | 西村治彦の日記

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 この日は、東京都西東京市東伏見6丁目4 にある「下野谷(したのや)遺跡」に出掛けました。「下野谷遺跡」は縄文時代の「住居遺跡」です。今から4500年から5000年前の遺跡です。大昔ですね。有史以来2024年たっていると言うのに、その更に2500年から3000年昔の遺跡です。「縄文時代」にも、日本列島には、人が住んでいました。当時の人間の寿命は短くて、平均15歳から25歳ほどで死んでいきます。文明や文化が育ちませんね。それでも 人々は 生きる知恵を学んで、生活していました。

ここ「下野谷遺跡」では「竪穴式住居」が再現されて展示されていました。中に入ると 中央に「炉」があって、ここで煮炊きをしていました。食べ物を煮炊きするための「土器」が発掘されました。「縄の紋らしいもの」が入っています。飾って、見栄えを良くします。当時、「稲」が入って来ていたのか、その他の雑草で「縄の紋」を作ったのか、判断に迷います。

約1万前に中国の長江流域で始まったと推定される稲作は、中国大陸から、もしくは朝鮮半島を経由して日本に伝わりましたが、それがいつ頃なのかははっきり分かりません。稲作には主に畑での栽培と、水田での栽培がありますが、現在の日本でも一般的な水田稲作は、約3,000年前(紀元前10世紀)に九州北部に最初に伝わったと考えられています。水田稲作は、それから約300年後(紀元前7世紀)には近畿地方まで広がり、約600年後(紀元前4世紀)には本州の北端まで伝わりました。この時代、雑穀やソバなどの穀物も畑で細々と栽培されていましたが、水田稲作の生産性が高かったので、稲作が広がったと考えられます。そうして日本は、イノシシや鹿などの動物、魚介類、木の実などを採って生活する狩猟社会から、定住して共同で米を作り生活する農耕社会へと徐々に変化していったのです。「縄文時代」の「今から4500年から5000年前」に「下野谷遺跡」で「稲の紋がある縄文式土器」が作られたでしょうか。

 私は 千葉市にある「縄文時代の貝塚」に時々出掛けますが、「土器のかけら」を見つけます。確かに「稲の紋」が入っているような気がします。「稲作」は、紀元前4世紀(今から6000年前)には本州の北端まで伝わりました。そうなると、今から4500年から5000年前の遺跡」では、「縄文式土器」には「稲の紋」があってもおかしくないことになります。

 まあ大昔のことなので、時代検証が正しくないこともあります。よく学説は変えられます。

 そんなことを考えながら、今回、私と同行の脇野真由美は、「下野谷遺跡」を眺めました。「下野谷遺跡」は相当広くて、川を挟んで、東と西にありました。東京ですので、ほとんどは 開発で破壊されています。貴重な遺跡を少しでも保存された「下野谷遺跡」は貴重です。我々のずっと先輩の「縄文人」に敬礼して、この地を去りました。

 

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