岩槻城・現さいたま市岩槻区にあった城・激しく城主が入れ替わる・白鶴城の鶴二羽 | 西村治彦の日記

西村治彦の日記

日々の出来事を書いています。

この日は埼玉県さいたま市岩槻区にある「岩槻城跡」に行って参りました。「岩槻城」は戦国時代に作られ江戸時代まで存在した城であります。この日の同行は「ピン子さん」です。私はピン子さんと「岩槻城跡」を歩きました。当時の「城門」がありました。「黒門」と呼ばれています。ここから当時多くの武士やお姫様が出入りしていました。目に浮かぶようであります。

 すぐ近くには、岩槻城の「裏門」がありました。「裏門」は、城内の武士たちが逃げるためにあったのでしょう。

 土塁が「岩槻城」のあちこちにありました。広場である「曲輪(廓)(くるわ)」の区画でもあります。また敵の侵入を食い止めるための「壁」「塀」の役目をしました。

「空堀」がありました。大きな「空堀」です。敵の侵入を妨害するのと、見方は「空堀」を通路として、動きました。

 当時、「岩槻城」は、北側を流れる「元荒川」を天然の堀として、そこから取り入れた水を「岩槻城」の「堀」として、強固な「城」としていました。「堀」に降り立つ「白鶴」を見立てて、「岩槻城」は「白鶴城」とも呼ばれました。現在も、その名残の堀があります。その「堀」に架かる「赤い橋」の美しいこと。「八ツ橋」と呼ばれています。私とピン子さんは、この橋の上で、撮影しました。ピン子さん、似合いますね。

 橋を渡って、「曲輪」に出ます。当時は もっと遥かに広い「曲輪」でしたが、それでも現在でも かなり広い曲輪です。池もあり、当時の様子を残しています。

 「岩槻城」は、長禄元年(1457年)太田道真・道灌父子によって築かれました。 関東管領・扇谷上杉持朝は古河公方足利成氏に対抗するため、太田父子に命じて築かせました。

大永4年(1524年)小田原の北条氏綱は、扇谷上杉朝興の居城である江戸城を攻め落とし、翌5年には岩槻城に侵攻、家臣渋江三郎が北条氏綱に内応したため落城、北条氏は渋江三郎を守将としました。 石戸城へ逃れた太田資頼は、享禄3年(1530年)岩槻城を奪い返しました。資頼の子資正が継いだ後、扇谷上杉氏が滅び、山内上杉氏も越後国長尾氏を頼って落ち延びると、資正は上杉政虎(謙信)と結び、北条氏に対抗します。 しかし、永禄7年(1564年)里見氏等とともに北条氏と戦ったが破れ、北条氏の謀略により長子氏資が寝返り、資正は佐竹氏を頼って落ちました。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、浅野長政等が攻め寄せ落城しました。 徳川家康が関東に入部すると、高力清長が二万石で入封しますが、江戸時代を通じて激しく城主が替わっています。

現さいたま市は、関東の中心部にあり、戦略的には、重要な場所であります。多くの武将たちが、「岩槻城」を奪い取ることを考えました。戦いの中心地であります。

江戸時代が終わると 日本の殆どの城が「廃城例」により、取り壊されました。城が残っていると、幕府の残党が、また気勢を上げるからです。それで 各地の城は、土地だけがあって、建物がなくなっています。造りが複雑で取り壊しが出来なかった一部の城が当時のまま 残っています。(姫路城、熊本城、松江城、などなど)

 この日 私とピン子さんは、「岩槻城跡」を、くまなく歩いて、「戦国時代」から「江戸時代」までの、歴史を偲び、学んだのでした。

 

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