弁天山古墳と内裏塚古墳・富津市にある大きな前方後円墳です | 西村治彦の日記

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弁天山古墳は、富津市にある「内裏塚古墳群」の中でも 大きな前方後円墳です。全長86メートル 後円部径53メートル、高さ8メートル 前方部幅50メートル、高さ5.5メートルあります。

後円部には石室があり、石室の石でできた蓋には、縄を掛けやすいように「縄掛け突起」が着いています。ここに縄を掛けて大きな石室の石の蓋を運んだのです。この突起の付いた石の蓋は、東日本では この「弁天山古墳」だけなのだそうです。石を加工して突起を作るのも大変です。当時 鉄はありましたので、鉄の道具で石を削って 突起を作ったのです。

 石の蓋を外すと、埋蔵物と人骨が出てきました。当時 この地方を治めていた実力者の埋葬品です。2度の発掘調査で鉄剣、直刀、鋲留、鉄鎌などが掘り出されています。

 私は 弁天山古墳の石室を見学しました。大きな石の蓋が2枚ありました。当時 この重い石を運ぶのも大変であったろうと思います。どうやって ここまで運んだのでしょうか。この古墳の主は かなりの実力者であったことが分かります。

 富津市の内裏塚古墳群の中で最大の古墳は「内裏塚(だいりづか)古墳」です。千葉県で一番大きな古墳です。「弁天山古墳」の主より さらに半世紀ほど遡って 当時 最大の実力者が葬られていると想像できます。「内裏塚古墳」は:当時この地域は須惠(末)の国造の地といい、「国造本紀」によれば、須恵には茨城国造の祖、建許侶命(たけころのみこと)の子・大布日意弥命(おおふひおみのみこと)が任命された、とされています。大布日意弥命の兄弟、深河意弥命(ふかがわおみのみこと)は小櫃川(おびつがわ)流域の馬来田国造(まくたこくぞう・くにのみやつこ)として任命されています。

須惠国造は小糸川下流域全域を支配下に置いたとされています。そのため内裏塚古墳の被葬者はこの須恵国造ではないかと言われています。

 「いや~!」、当時 このような大きな前方後円墳を、人力で造ったとは、どんな苦労であったことでしょうか。農業漁業の仕事の手を休めても 古墳造りに労力を使う。

 大きな古墳を作る場所も制約されるし、人々の労力苦労も並大抵ではありませんでした。

 それで 西暦645年に、「中大兄皇子(天智天皇)」や「藤原鎌足」によって 「大化改新」が行われ、「古墳の造営」が禁止されました。それ以降は 小さな「円墳」が 多少作られましたが、古墳は造られなくなりました。この当時を「古墳時代」と呼んでいます。3世紀から7世紀に掛けて そう呼んでいます。「内裏塚古墳群」に行くには、「JR佐貫町駅」が便利でしょう。周辺には ぞくぞく古墳があります。駅の周辺にもたくさんあります。行ってみませんか? 

千葉県には「古墳」が多いので、訪ねて調べる楽しみがあります。

 

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