金窪城跡・武蔵七党・丹波一党・加治家季により築かれた城・その後 上里カンターレに行きました | 西村治彦の日記

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金窪城跡は埼玉県上里町にあります。金窪城は、武蔵七党のひとつ、丹党一派である加治家季によって築かれた城だと伝えられています。15世紀中頃には関東管領・山ノ内上杉氏の家臣である斎藤盛光の居城となります。その後、斎藤氏は北条氏に従いました。1582年(天正10年)に「本能寺の変」で織田信長が討たれると、北条氏直が織田領に侵攻し「神流川の戦い」が起こります。このとき滝川一益により攻められ落城すると斎藤氏は没落します。徳川家康の関東移封後は川窪信俊がこの地に陣屋を置きますが、1698年(元禄11年)に川窪信俊の孫である武田信貞が丹波に移封となったため廃城となりました。現在城址は「金窪城址公園」として整備されています。

戦国時代は地方にも 多くの武士団がいました。

(以下 サイトより)

【丹党は秩父地方の神流川流域の児玉地方を本拠地とし、中村氏を中心に活動した武士団であります。神流川流域は藤岡、児玉の条里地域であります。このことから武蔵七党の中でも古く、代表的なものでありました。力の根源は条里地域の米の生産にあり、武力的な根拠は牧の牧畜的な生活に見出されます。

丹基房が秩父五郎を称し、その長男である直時が勅使河原に居住し、勅使河原氏の祖となり、直時の弟である桓房が新里・安保を領有し、新里氏と安保氏の祖となりました。さらに恒房の弟である成房は榛沢郡に住んで榛沢氏を称し、成房の弟の重光は小島に居住し、小島氏の祖となりました。重光の三子のうち、長男小島光成は小島氏を継ぎ、次男光俊は志水を称し、三男朝俊は村田を名乗ったとあります。

児玉党とは、一時期、合戦が生じる寸前まで緊迫した状態になりましたが、畠山重忠の仲裁により、和解しています。領土問題、あるいは水利問題で対立したものと考えられています。一例として、真下基行の子息の1人である真下弘親が勅使河原村へ移住したと系図にはあり、賀美郡(現児玉郡西部)と児玉郡が郡境ということもあって、両武士団の領地が入り混じっている状況下にありました。

丹党・児玉党・猪俣党などの武蔵武士団は、南北朝時代に南朝=新田義貞についたため、新田氏の滅亡と共に弱体化、あるいは没落していきました。さらに上杉禅秀の乱では禅秀に味方したため、鎌倉公方の足利氏に所領を没収されています。しかし、丹党の氏族のうち、阿保氏は足利氏に属したため、その所領を永く維持しました。それは同時に一党一族と言う概念の下、結束していた時代が終わったことを示しています。

 この後 埼玉県上里町にある「洋菓子の殿堂・上里カンターレ」にお菓子を買いに向かいました。「カステラ・バームクーヘン」などなど甘い美味しい洋菓子を売っています。立派な建物です。これだけ立派だと、売っている洋菓子も 美味しいと言うものです。

建物の中に入ると、お菓子が山積みです。私は最近 朝食に甘い洋菓子や菓子パンを食べることが多いです。朝は、甘い洋菓子類に限ります。それと牛乳と野菜とさつま揚げなどたんぱく質は欠かしません。同行の脇野真由美こと黒子さんも 午前中は甘いものしか食べません。チョコレートや甘い飲み物ばかりを朝食にしています。

私も 甘いもの大好きなので、二人でたくさん買いました。「上里町」にある「カンターレ」です。「カンターレ」とは イタリヤ語で「歌う」とか「歌」と言う意味だと思います。「カンターレ」で 美味しいお菓子を、たくさん買って幸せでした。

 

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